Thesis
1.人類大破局(ジオカタストロフィ)のシナリオ
「自分が絶頂にあって、なお下ばかり見ないで上を見るのは危ない。絶頂にいて下を見れば、みな眼の下にある。眼の下の者は憐れむべく恵むべき道理がある。富者でありながら、なお自己の利益だけを求めるならば、下の者も利益をむさぼらないではいられない。もし、上下たがいに利を争ったならば、あくまで奪い取るようになることは疑いない。これが禍の起きる原因だ。恐ろしいことだ。」 二宮尊徳語録より
「お年玉セール」で賑わう正月のデパート。趣向を凝らした福袋が数えきれぬほど並び、人々の財布を何とか開けさせようとする。少し立ち止まると店の人が飛んできて、愛想をふりまきながら、聞きたくもない商品の説明を始める。(それを振り切って歩み去るには、ちょっとしたテクニックと勇気が必要である。)
私はデパートに行くたびに、女性服だけで数十店舗もある、圧倒的な品数の豊富さに、驚きを感じる。「こんなに沢山の服を、誰が買うのだろう」そう思わざるを得ないのだ。私達日本人の大部分は、もう十分過ぎるほど服を持っている。衝動買いをして、タンスに眠っているブラウスやセーターも1枚や2枚ではないだろう。最低限必要なものは大抵の場合、既に揃っている。
それでも毎年シーズンが変わるごとに、各ブランドは新作を発表し、日本国中のデパートに色とりどりの「今年のモード」があふれる。前シーズンに売れ残った分は、有効利用されることなく、その大部分が捨てられていく。東京のごみ処理場には、新品の服や靴などが、トラックで運ばれ、惜しげもなく大量に廃棄されていると言う。
資本主義や市場経済は、これまで私達人類の豊かさへの欲求を満たし続けてきた。しかし、これからもそうであると果して言い切る事が出来るだろうか。
現在の経済システムや企業経営は、適度な成長率を維持し、拡大再生産を図らなければ正常な運営が出来ないという仕組みになっている。その為には、少しでも安く物を作り、それが本当に必要であるか否かに関わらず買わせ、まだ十分に使えるものであっても次々に処分させていかなければならない。
日本人一人あたりの資源の消費量は、途上国の貧しい人々の100倍にあたる。さらに先進国型のライフスタイルに憧れ、先進国にキャッチアップすることを願っている途上国40億人の民が後ろに控えている。現状でもさまざまな面で、環境負荷が地球の回復能力を上回っていることを考えると、私達が何をしなければならないかは自ずと見えてくるのではないだろうか。
1991年、さまざまな分野の学者等12人が参加して、「ジオカタストロフィ学会」が発足した。この研究会は1年にわたり開かれ、「西暦2090年に人類が滅亡する」というシナリオをまとめあげた。この研究会の代表をつとめた東海大学情報技術センター所長の坂田俊文氏は近著「人類大破局~早まった人類滅亡のシナリオ」の中で、次のように述べている。
「人類の滅亡とは、地球上から人類という生物が一人もいなくなってしまう物理的な絶滅ではない。社会的、心理的側面も含めて生存環境が悪化し、人間が人間として存在していくことが、もはや不可能になる状況を意味している。もちろん、現代の文明水準を維持していくことなど、到底できない状況である。
いうなれば、人間社会の崩壊がジオカタストロフィだ。犯罪が犯罪でない世界、正義が正義でない世界、まさに暗黒に世界である。いい換えれば、そういう世界になるかもしれない人類の大局面である」
ここで簡単に「ジオカタストロフィ学会」の研究を紹介してみたい。人口や食糧、エネルギーといった問題以外に、政治、経済、社会、自由や大量消費を享受した人間心理や貧富の格差などを考慮して作成された、2090年人類滅亡のシナリオは、33年ずつの3幕により構成されている。
第1幕~2024年まで(基点は1991年)
現在の状況の延長線上にある。先進国では「大衆貴族社会」が実現。途上国では、工業化に拍車がかかる。
食糧、エネルギー需要は増大し、人口もさらに増加。環境破壊が深刻化。貧しい国では飢餓が広がる。気候の変動、早ばつ、集中豪雨など異常気象が頻繁に起こるようになる。 難民が各地で大量に国外に移動し、世界中で将来に対する悲観的な見通しが急速に広がっていく。
第2幕~2057年まで
膨張と拡大を伴う市場原理の破綻が明らかになる。一つの方法としては、市場経済を放棄し、世界全体の経済成長率をゼロにすることである。
ゼロ成長社会の抱える大きな問題は分配であり、限られたパイをいかに公平に分配するかが鍵になる。国内にも、南北間にも分配に格差が生じ、いたるところで対立が起きてくる。
第3幕~2090年まで
地球の定員オーバー実感され、努力の限界が予感される。個人や国家のエゴイズムがあらわになり、世界は完全に無秩序、無統制な乱世になる。飢餓、水不足、疫病と局地的なカタストロフィ続発。民族主義や選民思想が横行し、異民族や難民は武力によって追放され、人々は自由や希望を失い自暴自棄になる。
これに対し、生物学者ライアル.ワトソンなどは「ジオカタストロフィは2020年にはやってくる」との予測をたてている。
今の世界はスピードが早いから、1幕は10年と考えるべきであり、もう既にカタストロフィは始まっていると言うのである。
2.地球村からのメッセージ~選択可能な未来
このようなシナリオを見ると、背筋が寒くなるようである。私はいつも思うのであるが、日本という国は図体ばかりが肥大化した「恐竜」である。手や足がばらばらな動きをしていて、進むべき方向に向かうことが出来ない。
これだけ地球環境問題が深刻化していながら、日本は未だに資源、エネルギーを大量に輸入し、惜しげもなく使い続けている。
今や日本最大の環境NGOである「ネットワーク地球村」が昨年の11月に出版した「地球大予測」という本の中で、次のような事が述べられている。
現在世界の人口は約57億人。このうち途上国の貧しい人々は約47億人で、先進国の豊かな人々は約10億人である。この10億人は、貧しい人の100倍の資源、エネルギーを消費するので、これを計算式にして見ると 47億人 X1+10億人 X100=1047億人となっている。国連の統計によれば、100億人分しかないと言われている地球の自給自足能力を既に10倍オーバーしていることを表している。
地球全体で自給自足が成りたっていないという事は、このままでは近い将来人類は破滅することを示しており、これを避けるためには早急に先進国の消費を現状の10分の1に落とす必要がある。これはどのレベルかと言うと、日本はこの40年の間に、エネルギー消費、資源消費、所得を10倍拡大しているので、約40年前の消費水準という事になる。
「これは好き、嫌い、望む、望まないの問題ではないのです。今のままでは破滅、そして10分の1にすれば破滅が避けられるのであれば、やるしかないのではないでしょうか」本の中で代表の高木さんは、こんなメッセージを私達に送っている。
地球は有限であり、森林や農作物、魚などは持続可能な生産量以上に消費すれば、破綻するのは当り前である。作ることも、再使用も出来ない石油や石炭は、出来るだけ消費を抑え、リサイクルできる金属やガラス等はリサイクルしなければならない。そして、浄化、環境、再生など全てのエネルギーは太陽エネルギーによって行なうしかない。
それには、「不必要最大限」に物を生産し、どんどん消費するのではなく、「生存に必要な最小限」の消費を、「持続可能な範囲で行なう」という新しい経済活動のルールを、早急に確立することが何よりも必要になってくるのではないだろうか。
3.持続可能な社会に向けた取り組み
12月にはアメリカとデンマークから、それぞれ環境政策の担当者を招いての有意義なシンポジウム、講演会が開かれた。
まずは13日、14日に、新エネルギー財団主催により、国連大学にて行なわれた「新エネルギー産業シンポジウム」について報告する。
(講演要旨)
再生可能エネルギー技術は成熟してきており、費用効果も高くなってきている。一方、21世紀においては、世界中の選挙民は地球規模の気候変動に対する懸念を高め「化石燃料の価格は、生産と流通のコストだけでなく、汚染や二酸化炭素の排出にかかわる真のコストに従って決定すべきである」と要求しはじめるであろう。
もう既に変化は起こり始めている。第1のイニシアチブは、南の途上国の草の根の活動家や、企業家たちによって推進される。過去18か月の間に、小規模太陽光発電の巨大な新市場が、途上国に生まれている。
例えば北東ブラジルのアラゴアスという非常に貧しい地域では、平均的な家庭が灯油と乾電池に年間250ドルを払っている。この支出なら2年間のローンで、蓄電池つきの完全な太陽光発電システムを買うことができる。しかも2年後には、さらに安くなる。世界には電気のない人が20億人いるが、彼らは太陽光発電に対し、喜んでお金を払うだろう。
第2のイニシアチブは、主要な先進国が「2005年までに化石燃料の年間消費量の20%を、太陽、風力などで置き換え、電力とキャリア燃料としての水素を生産する」という国家目標を定めた時に始まる。このような取り組みをする国は、自国内に大きな市場を作りだし、再生可能エネルギー装置を大量に生産する産業の発展を刺激するだろう。このような産業は、あとはもう拡大するだけで、世界中に急速に広がる市場に同じような装置を供給することができる。これにより、途上国がインフラを整備する際に、化石燃料発電所より再生可能エネルギー発電所の方が良いと考えるようになるだろう。
日本はアジアにおける発展のモデルであり、世界に対して太陽、風力などの設備を提供する技術的専門能力、製造能力、世界的輸出網を備えている。日本がこのイニシアチブをとることは、十分に可能である。
電力業界に競争原理を導入した、新システム下での電気料金の本格改定により、電力10社平均で3%の値下げになると言う。新エネルギーの開発、利用にとっては、規制緩和による競合コストのダウンは、逆境となってくる。
それに対し、新エネルギーの導入促進施策は十分だろうか。
新エネルギーの導入促進に対する支援策には、技術開発、地方債の発行、補助金、電力会社による余剰電力購入等の施策が講じられている。しかしながら、ドイツ、カリフォルニア、デンマークなどの施策に比べると、大変心許ない。
ドイツのアーヘン市(人口25万人)では、94年6月「太陽光発電及び風力発電の電力コストに見合った電力供給保償金」を可決した。これは、電力料金の一律1%の値上げを財源として、新エネルギーの電力会社による買電価格を発電コストに見合ったレベルまで引き上げようという制度である。これにより、新エネルギーは手に届きやすくなり、量産効果による大幅なコストダウンが見込めるのである。このようにすれば、新エネルギーの設置者に経済的負担をかけることなく、また電力会社の収支を圧迫することもない。
新エネルギーの導入コストを、社会コストとしてみんなでシェアする。アーヘンモデルは、日本に多くの事を示唆しているのではないだろうか。
Thesis
Hiromi Fujisawa
第15期
ふじさわ・ひろみ
どんぐり教育研究会 代表
Mission
環境問題 特に環境教育(森のようちえんなど)