Thesis
政経塾での研修も3年目に入った。生活の為に働く必要もなく、自由な時間と研修資金に恵まれ、本当に私は幸運であると思う。今年私の弟が、大手住宅メーカーに入社したが、朝7時に出社して、帰宅は午前1時であると聞き、驚いた。休みも月に数日しかないとの事で、考えたくはないが「過労死」という言葉が頭に浮かぶ。実際先輩の中には、体を壊す人も多いそうであり、まさに企業戦士である。
私は以前より、「日本人の働き過ぎ」と「家庭を犠牲にした会社への奉仕」に対し、大きな疑問を持っていた。早稲田大学教授西川潤氏の「貧困」という本の中に、それに関して大変興味深い事が書かれていたので、多少長いがここに抜粋してみたい。
1981年に東京都心身障害者対策協議会が、国際障害者年東京都行動計画の考え方と方向について公にした「提言」では、「戦争が惹起する異常な社会環境は、人間を極度の機能主義.選別主義に追い込む」と注意されている。
ここで「戦争」を「経済成長」とおきかえれば、それはそのまま、第2次大戦後「豊さ」「GNP」を追及してきた現代日本の生産機構に妥当する。つまりこの体制は、成長という機能の前に、人権をつねに二義的なものとしてきた。だからこの体制では、戦争が容易に経済成長に接続しうる。近年の日本の対外経済進出について、東南アジアでは「日本はかつて軍隊で出来なかったアジア制服を、経済を通じてやろうとしている」という声がしばしば聞かれる。いや日本人の仕事ぶりを軍隊的と見るのは、東南アジアの人々にとどまらない。評論家の佐高信氏は、フランス人の次のような日本人評を書きとめている。
「私たちの社会では、家庭と環境に対する義務を果たさなくて良いのは、軍人と囚人しかいません。あの人達は囚人ではないようだから、多分軍人なのでしょう。商売をする上で、軍人と市民が競争して、市民の勝てるはずがないではありませんか。
私達日本人は、この言葉の持つ意味を、深く受け止めるべきであると思う。
私が昨年訪れたデンマークでは、女性にとっても働きやすい労働環境、そして人生をゆとりあるものにする余暇環境が、日本とは比べ者にならない程整備されていた。
デンマークでは、仕事が終った後、必ず家族とともに夕食をとり、それから夜遅くまで開いている図書館などに出かけ、読書や音楽鑑賞を楽しむのだと言う。
デンマークのスーパーには、家庭で使うパステルカラーのローソクや花柄のナプキンなどが沢山売られている。友達を招いてのホームパーティも盛んであり、「人生を楽しんでるな」という感じがする。
それに引換え、私の弟は「こんな生活、何も楽しくない」と嘆いている。午前1時に帰宅して、数時間後にはまた会社に向かう生活。別に弟が軟弱な訳ではなく、やはり日本は少しおかしいのではないかとそう思わざるを得ない。
話題を読んだウオルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」の表紙には、 この国がどれほど異常か、本当にご存じですか? 変えなければ生き残れない。変えなければ生きる甲斐がないと書かれている。一体いつまで日本人は、「人間を幸福にせず」「地球環境を破壊する」「顔の見えない」経済大国の一員であることに我慢し続けるのだろうか。
私が政経塾に応募した動機も、実はここにある。途上国から安く資源を買い叩き、森林を破壊し、現地の人々に多大な苦しみを与える日本企業。それをバックアップしてきたODA。現実を直視すればするほど、祖国日本が「恥ずかしい国」に思えてくる。
国内に目を向けてみれば、お粗末な住宅に最低の高齢者福祉。首都圏の通勤地獄。子供の自殺といじめ。ごみ問題。年金と医療制度の破綻。巨額の財政赤字。まじめに働いても、この先あんまり「いい事なさそう」と思わせる閉塞感が、この国を支配している。
しかしながら私達は「シカタナイ」と諦める訳にはいかない。まだ勉強不足で、何が最大の問題であるかは掴めないが、キーワードは幾つかあると思われる。(あくまでも主観的で、しかも浅はかな理解で申し訳ありません)
中でもアジアの安全保障をめぐる論議は、慎重に行われるべきである。アジアの市民は、日米首脳の安保論議を、どう見ているのだろうか。この問題に関しては大変重要であり、今後も引続き勉強していきたい。
「アジアの中の日本」という言葉が使われるようになって久しい。その中で、日米安保体制の役割を「アジア.太平洋の安定」と広義に読みかえる、日米間での「安保強化」をどう考えるべきなのか。
インドネシア総合週刊誌「ガトラ」の東京特派員である大川氏は、「インドネシア人は日本をどう見ているか」につき、次のように言う。(国際問題研究協会での発言)
ー第2次大戦で一般の人々が受けた傷は、癒されていない。問題なのは、日本とアジアの若者の歴史認識に大変なギャップがある事だ。日本の教科書の中には、インドネシアという言葉は数回しか登場せず、パールハーバーから原爆までは僅か2ページ。インドネシアの若者は、日本のインドネシア支配について50ページは学んでいる。何も知らない若者が、年に数十万人もバリ島に行って、勝手きままに振舞う。この若者達が社会の中心に位置するようになると、日本は終るだろうと思う。
次に、日米安保強化については、
ーアメリカは世界一の強国としての地位を保持していく為には、どんな手段でもとるだろう。日本を利用して動かす事も、思惑の一つである。
アメリカのアジア政策の中には、一つには中国の市場を確保しようとする狙いがあり、経済戦略を守るための、軍事戦略がある。インドネシアとしては、日本の暴走を抑えるのに日米安保が役に立つと考えている。(日本には航空母艦があると思っているなど、日本に対する強い不信が拭えていない)しかしながら、アメリカが独自のイニシアチブをとるのは、基本的には反対。
日本に対しては、直接投資やインドネシア製品の市場としての役割を望んでいる。貿易投資面での緊密化を期待しているが、金のきれめが縁のきれめかもしれないとも考えられる。(日本に対する恨みは、何世紀も続く)
アメリカと中国の関係が、人権をめぐって悪化するのは困るし、日本とアメリカ、日本と中国がそれぞれに対立しても困る。インドネシアは、アジア.太平洋の主要な国と、等距離を保っていこうというスタンスである。
その他中国、韓国からの出席者の発言を要約すると、
ー中国は「日米軍事同盟」として捉え、韓国は「アジアの警察」的意味に捉えているが、二国間においてアジア.太平洋の地域紛争を防止することに、意味があるのかどうかは疑問である。この両国は、日米安保の見直しに対し、日本人のコンセンサスがあるのか、アジアに対する政策があるのかについても、疑問を持っている。
アメリカの地位は弱体化し、APECでもアメリカは主導権をとれない。EUとアセアンが会合を持ち、アメリカが出なくとも世界は動いていく。地域連合が発達する中で、日米二国間の関係強化は、冷戦的思考を抜けきっていないのではないか。
アメリカはもはや、世界の警察を続ける力はない。二等兵の警察は、蔑視される。(?)アメリカは実用主義の国であるから、アジアの経済的優位性を得るために、日米安保を利用する。(中国の大きなプロジェクトにコミットする上で、日本にプレッシャーをかけるなど)日米間の関係では、アメリカが先行し日本が懸命に追従するうちに、日本の頭ごなしに中国と手を結ぶかもしれない。
有事立法に関しては、
北朝鮮は、中国の了解なしに戦争は出来ない。(日本はそれを承知のはず?)危険を口実にした有事立法は冷戦的発想であり、アジアの反発を招く可能性がある。
アセアン地域フォーラムでは、安全保障体制を模索している。しかしながらアジア地域は複雑であるから、様々な課題を国連を通して、関係ある国々が共同で解決していくべきとの考えもある。
又アメリカが人権を外交の手段として、中国やインドネシアに圧力をかけるのを、どう考えるかに関しては,
インドネシアはわが国の脅威は、人権 環境 民主化 NGOを旗印に、先進国がせめてくることだと言う。自分達は50年遅れた国であるから、理解してもらいたい。先進国の過去の人権侵害、日本の戦時中の人権侵害を検証しないで、我々を責めるのは如何なものか?300の民族と1万の島から構成される国の事情も、分かってもらいたい。
エネルギー大潮流の筆者、ニコラスレンセン氏を招いての、パネルディスカッションで大変興味深い討論が行われたので、ここに報告する。(主催 ダイヤモンド社) まずレンセン氏は、これからは「インターネットを疑似した、エネルギーシステム」への変革を急ぐべきであると言う。
エネルギー大潮流の中にも書かれているように、アメリカの電力コストの3分の1は、送電のためのコストである。これは用途によっては、大変効率が悪い。
一方では風力発電の著しいコストダウンなど、より小規模分散的でエンドユーザーに近いところで発電するシステムが可能になりつつある。ガスタービンや太陽電池など、より効率の良い炭素に依存しないエネルギーの研究開発が進んでいる。今後は、どのエネルギーをどのように使うか、どのくらいの量が必要かを自分で選択する、市民参加のシステムが必要である。
ここで重要なのは、これまで「人任せ」にしてきたエネルギーを、市民の手に取り戻す事である。例えば家庭の窓ガラスを二重にするだけでも、大きな断熱効果がある。私達達は人まかせにしている間に、危険な原発や添加物の多い食べ物に頼るようになってしまった。
木曽の山奥で、天然酵母のパンを焼いている人がいるが、僅か太陽電池4枚で全てのエネルギーをまかなっている。冬になると、マイナス20度の寒さだが、豆たんを使って一度も水道を凍らせたことがない。自然エネルギーの技術とは、難しい事ではなく、かつての日本人が生活の中で普通に取り入れていた「生活を快適にするための技術」そのものである。
大量生産、大量消費は化石燃料をもとにした経済構造であり、エネルギーの形態は社会そのものを変えていく。一極集中、管理社会、都市化などがゆきづまりを見せている現在、地域のエネルギー(風力、バイオマスなど)を利用して、地場産業をおこし(例 乳牛のし尿をメタンガス発酵ガスで車を走らせる 風力発電による牛乳.チーズ工場太陽電池でポンプを動かし、し尿の残さである液肥をまく )都会に依存しなくとも良い、循環型社会を作っていくことが必要である。そこでは、「町のエネルギー屋さん」が沢山生まれるだろう。一つの社会が行きづまった時、新しいエネルギーが生まれてくる。その社会の滅亡までにまにあえば……。
ここで自然エネルギー事業組合レクスタの桜井さんの文章を引用したい。
「我々が科学文明と思いこんでいる、先進文明となずけているこの文明は、不足の時代の最後の様式でしかない。土地がないからビルが高くなるのであり、木を吹抜ける風がないからクーラーがいるのであり、時間がないから自動車に飛びのらざるを得ないのだ。人が人のリズムで暮らせるなら、全く違った文明の様式になるだろう」
一つの時代が終り、新しい体制が確立されるまでには、約10年を要すると言う。最初の4年間は全時代の体制を破壊するのに費やされ、次の2年間はこれからの方向を探るために混沌のうちに過ぎ、その後の4年間で新体制を形成する組織や人材が確定される。
1989年、社会主義体制の消滅と日本のバブル景気の崩壊。93年、日本では自民党単独政権が倒れ、細川連立政権が発足した。となると、94年.95年が混沌のうちに過ぎ、今年96年から新体制が生まれはじめてくると言う事になるのだろうか。
Thesis
Hiromi Fujisawa
第15期
ふじさわ・ひろみ
どんぐり教育研究会 代表
Mission
環境問題 特に環境教育(森のようちえんなど)