論考

Thesis

風力エネルギーに賭けるデンマークのとりくみ地域の自立と共生にむけて その1

二一世紀を迎えるにあたり、人類は大きな変革を迫られている。
 地球の生態系が支えられる範囲内で、自然と共生しながら生きるという、新しい哲学を持って、「持続可能な社会」を築くという、言わば「環境革命」とも言うべき大変革が始まったのである。
 現代の大量生産.大量消費の先進工業国を、どう「持続可能」なシステムに近付けていくか。
 それは残された時間との戦いである。この変革に失敗すれば、二一世紀は人類最後の世紀となるおそれもある。
 この「持続可能性への挑戦」という大命題に、世界にさきがけて着手した国の一つが、北欧の小国、デンマークである。
 一九八七年、国連総会に提出された、「環境と開発に関する世界委員会」報告書、「我ら共有の未来」は、各国政府に対し、政策決定の際にはこの報告書の内容を考慮するよう、要請していた。
 そして、この報告書の中で述べられていた、「今後四0年から五0年かけて、先進工業国は一人あたりのエネルギー消費を半分にする必要がある」という勧告を受けて、デンマーク政府は国の環境.エネルギー政策を見直し、新たな基本計画を作成した。
 一九八八年、一二月に作成された、エネルギー部門における行動計画「エネルギー2000ー持続可能な発展にむけての行動計画」は、八八年を基準として、二00五年における達成目標値を、次のようにもうけている。 

1エネルギー消費の約一五パーセント削減 2二酸化炭素排出量の約二0パーセント削減 3二酸化硫黄排出量の約六0パーセント削減 4窒素酸化物排出量の約五0パーセント削減 5自然エネルギーの割合を、全エネルギー消費量の五パーセントから、一二パーセントに増加する 6風力発電を、電力需要の一0パーセントまで増加する

 北海に面したユトランド半島と、大小の島からなるデンマークは、四三00平方キロメートルの国土を有する、立憲君主国である。 デンマークは、地形が平坦で農業に適しており、早くから農業国として発達してきた。また、飲料容器の使い捨て禁止、風力発電の促進などの取り組みを早くから行ってきた、世界でも有数の環境先進国として知られている。
 今日におけるデンマークの環境政策、エネルギー政策は、世界にさきがけて「持続可能な社会」へのチャレンジを打ち出した、政府の行動計画により誘導されている。
 しかしながら、デンマーク政府がこのようにラディカルな姿勢を見せるようになったのは、ここ数十年のことである。大規模に導入をすすめている風力発電にしても、最初から政府主導であった訳ではなく、もともとは地方農村から出発した「フォルケ.ホイスコーレ」と、そこから生まれた市民レベルでの運動により、研究.実用化され、普及の先鞭がつけられてきた背景を持っている。
 一九世紀末以降、N.F.S.グルントヴィ(Grundtvig)を父として始まった「フォルケ.ホイスコーレ(民衆大学)」は、試験や単位を拒否し、資格も問わない学校であり、今日までデンマーク社会に、大きな影響を与えてきた。
 皆で共同生活をしながら、共生(フォルケオプリスニング)の何たるかを学ぶ、「生のための学校」フォルケ.ホイスコーレは、デンマーク社会の民主化をうながし、協同組合の基礎となったことでも知られている。
 現在デンマークには、約一00のフォルケ.ホイスコーレが存在し、北欧全域に広がりを持っている。 このフォルケ.ホイスコーレは、「対話とコンセンサス」を重視し、人間相互のかかわりを学ぶ場であり、デンマーク国民の人権や民主主義意識を育む土台となってきた。
 またデンマーク国民のみならず、北欧社会全域に広がり、現在北欧全体で約四00のフォルケ.ホイスコーレがある。 今日の北欧諸国の特徴としては、強い社会的連帯感をもつ、福祉先進国であると同時に、世界でもトップをいく環境先進国であると言う点があげられる。
 このように、北欧諸国が、環境問題への関心が高い理由としては、

 1北極圏に近く、フロンガスによるオゾン層破壊の影響を大きい 2北欧の森林は酸性雨に弱く、早くから被害が現れている 3自然を愛する国民性である

 といったような事が言われている。さらに加えるならば、フォルケ.ホイスコーレの伝統によって培われた、「社会全体の協力、共同を重んじる国民性に支えられた民主主義」を指摘することができるだろう。
 ここで、フォルケ.ホイスコーレの発祥の地であり、早くから環境問題に取り組み、「持続可能な社会」の建設に世界をリードする政策を打ち出すデンマークを中心に、北欧の環境保全のための取り組みを概観してみたい。
 1.北欧の自然環境
 北欧の位置は、デンマークの南端の北緯五四.五度からノルウェーの七一.二度の間に広がる。
 緯度が高いために、夏には「百夜」が、そして冬には全く太陽が昇らない季節が訪れる。冬は長く、その寒さは非常に厳しい。それだけに、人々は気候の良い夏には、自然の中にいて、自然の恵みを充分に享受しようとする。
 スウェーデンやフィンランドは、森と湖の多い国である。スウェーデンは、国土の約九パーセントは、湖で占められており、陸地の六八パーセントは森である。夏になると、人々は森にでかけ、湖で泳ぐことを楽しんでいる。 北欧には、ヴァイキング時代から古い慣習法として生成され、現在では自然保護法等において明文化されている「自然享受権」がある。
 これにより、人々は損害を与えないという条件のもとに、他人の土地、山野などに自由に入り、菌類を採取したり、水浴をしたりすることが出来るのである。
 スウェーデン、ノルウエーは、水資源が豊富であり、特にノルウェーは、水力発電で電力のほとんどをまかなっている。
 人口密度は低く、スウェーデンは、人口八八0万人、人口密度は一平方キロメートル当り約二0人である。デンマークは人口五二一万人、人口密度一二一人、ノルウェーは人口四三三万人、人口密度は約一三人となっている。

 2.デンマークの社会とフォルケ.ホイスコーレ 北欧の広大な自然の恵みは、一九世紀も四半世紀を過ぎた頃から、急速な経済発展のきっかけをもたらした。
 スカンジナビア半島およびフィンランドでは、鉄鉱などの鉱物資源、森林、水力発電が工業化を促進し、北欧諸国を今日の豊かな先進国とする後押しをした。
 デンマークでは、一七八八年に農民開放、農地改革が実行され、封建主義社会からの脱皮を遂げた。
 また農業国であるデンマークは、トウモロコシの生産が伸び、それをイギリスに輸出するという商業活動が始まった。
 この時から農民は大きな力をつけ、今日見られるようなデンマークの田園風景、農園地帯の基礎が作られたのである。
 一八世紀末からは、独立自営農民への転化奨励、経営農地の集団化などの政策が進められ、領主を中心とした封建的な村落共同体は、独立自営農民たちの共同体へと移行していった。
 一八一四年には、義務教育が開始された。一八四一年には、地方自治法が公布され、行政の末端機関である委員会にも、半数ほど農民代表が参加するようになり、地方分権への礎が築かれた。
 そして一八四八年には、デンマークの絶対王政は崩壊し、立憲君主制による民主的な政治制度へと移行したのである。 この時代に、国民のほとんど(約80%)であった農民を勇気づけ、彼らの精神的な支えとなったのが、今日でもデンマークの国父と慕われるグルントヴィ(Grundtig)である。
 教育者であり、詩人であり、牧師であり、そして偉大な思想家として、一九世紀後半のデンマーク社会に大きな影響を与えたニコライ.フレデリク.セヴェリン.グルントヴィは、一七八三年、デンマークのシェラン島に、牧師の子として生まれている。
 グルントヴィは、当時の学校が、ラテン語やギリシャ語の修得に熱心で、知識のつめこみに傾いていたことを批判した。 また神学を学び、牧師となる教育を受けながら、グルントヴィは聖書の言葉を重視しなかった。神学書はインテリのみが理解出来る、彼の考えによれば「死んだ言葉」でかかれていたからである。
 既存のキリスト教会の持つ、官僚主義体質に疑問を持つ一方で、若い頃から北欧の神話や歴史の研究に熱中したグルントヴィは、デンマークの農民文化を軽蔑する首都コペンハーゲンの知識人達に対抗し、デンマーク語と、農民たちが口移しに伝えてきた地域文化こそが美しく尊いものであると、数多くの詩をあらわして訴えた。
 デンマークでは、一八三0年代頃から、民主主義をめぐる大きな議論がおきていた。 グルントヴィは農民の立ちあがりや、首都でのブルジョア勢力の勃興をみながら、民主主義の空洞化する危惧を抱いていた。
 ブルジョアジーがアカデミックな教育をほこり、無学な農民を支配するのでは、民主主義が形骸化してしまう。国民の大多数をしめる農民、民衆が高いレベルの学問、教養を身につけ、コンプレックスを持つことなく自由にものを考え、発言し、知りたいことを自由に学ぶことができる社会でなければ、デモクラシーというに値しない。
 このような信念から、グルントヴィは1838年に「生のための学校」という冊子を書き、その中で「良き社会を支える市民のための学校」の必要性を訴えた。
 そこでは、ラテン語は廃止され、相互の対話による「生きた言葉」によって、農民、商人、手工業者などの民衆と、将来の官僚や学者となる者が互いに知りあい、わけ隔てなく交わる。人間の生や人類とは何かを見つめ、それぞれの思いを語り合う中で、人間性を高め、どうやったらより良い社会を作れるか議論を深めていく、それがグルントヴィの考えた民衆のための学校、「フォルケホイスコーレ」であった。
 グルントヴィは、この「フォルケホイスコーレ」の必要性を一八三0年代から四0年代にわたって説き続け、一八四九年にデンマークが民主主義に移行すると、グルントヴィの意見は多くの関心を集めた。
 一八六四年、デンマークはプロイセン(ドイツ)との戦いで、シュレスウィヒ、ホルシュタイン地方を失うという大打撃を受けた。最も肥沃なユトランド半島の三分の一、国土の五分の二を失ったこの敗戦は、デンマーク国民に大きなショックを与えた。
 この時、国が縮小したしまった事に対し、武力主義や悲観主義の立場にたたず「外に失いしものを、内にとりかえさん」とするフォークムーヴメント(民衆運動)と呼ばれる一連の動きが、デンマークの中におこった。

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吉田裕美の論考

Thesis

Hiromi Fujisawa

藤沢裕美

第15期

藤沢 裕美

ふじさわ・ひろみ

どんぐり教育研究会 代表

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環境問題 特に環境教育(森のようちえんなど)

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