Thesis
カナダに出発する直前の5月19日、大阪府立大学で講演をした。その際、社団法人 法人「子ども情報研究センター」から取材を受けた。その講演内容が、このセンターで毎月出している機関誌「はらっぱ」7月号に掲載された。それを今月と来月の月例報告として、以下に報告する。
『スピークアウト 養護施設OBとして生い立ちを語る』 草間吉夫
草間吉夫さんは18歳まで養護施設(現児童養護施設)で育ち、大学卒業後、養護施設の職員などを経て、95年松下政経塾へ入塾。要保護児童・家庭への支援方法が研究テーマ。6月から4か月間、カナダに滞在し子どもの権利擁護システムを学ぶ。
出発前の5月19日、大阪府立大学教員の許斐有さんの招きで、「児童福祉論」を受講する学生に、自らの体験とこれからの児童養護施設のあり方について、熱く語られた。
【つらかった帰省の日】
私は、1966年5月に茨城県つくば市で生まれたということになっています。そして生後3日目で乳児院に入所し、その後2歳になってから高萩市の養護施設に移り、そこに高校卒業までいました。乳児院の時の記憶は全くなくて、ある程度物心がついた時に職員から聞いて初めて知りました。また、私は私生児なのですが、それを知ったのも28歳で結婚することになって役所に行った時でした。私だけでなく施設の子が自分のプロフィールを知るのはずいぶん遅いんです。
母に初めて会ったのも中2の時でした。母方の祖父が亡くなって、そのお墓参りに行った帰りに、施設の職員と一緒に入院していた母の所にお見舞いに行ったのが最初です。突然の対面だったので、実はとてもショックでした。それまで私の母に対するイメージはマリア様だったのですが、実際の母は病院のベッドの上にいて、あまりにギャップが大きく、僕はしゃべれませんでした。
私がいた施設は日蓮宗のお坊さんが経営していて、2歳から18歳までの子ども50人ほどが生活していました。でも、私自身、養護施設の時の記憶ってあんまりないんですよね。
自己防衛機能っていうのか、自分のつらかった時の記憶を消して自分を正常に保つような機能が人間にはあるんですね。僕にもそれがあったんじゃないかと思っています。
「つらかったことは何ですか」とよく聞かれるんですが、僕には帰る家がなかった。今、子どもたちが施設に入所する理由は虐待や放任が多くなっていますが、僕らの頃は両親の行方不明とか離婚、長期入院とかがほとんどでした。そのいずれにしても家はあるわけで、お盆とかお正月には子どもたちの約8割が一週間くらい家に帰るんです。でも僕には帰る家がないから誰も迎えに来ない。それでも帰省の日になると、朝からそわそわして門のところに立つんです。来ないとわかっていても「来るんじゃないか」と期待して。ところが、やはり待てど暮らせど誰も来ない。その帰省の時がやっぱり一番つらかったなあと思います。
あと、学校で家庭調査票を書く時。私は「本人」と書いたあと、もう何も書けない。それに名簿の保護者欄は施設長の名前になってる。友だちに「なんでおまえんとこ違うんだよ」と言われるのがいやでした。
それから、友達と遊びに行く時、「外出簿」に、いつどこに誰と行って何時に帰るというのを書かなきゃいけない。午前中は外出できなくて、その上、帰る時間に遅れると怒られる。しかも3回続けて遅れると「外出禁止」とかになる。そういう制約があって、友だちと自由に遊びに行けないのが悔しかったです。
子どもの頃は勉強は全然できなかったけれど、字を書くのは好きでした。職員の話では私の祖父もすごく達筆だったそうで、それが私にとってはすごく励みになっていました。
中学ではバレーボール部に入りました。当時、施設対抗のバレーボール大会があって、その即戦力になるからということで強制的にバレー部に入らされて。ほんとは柔道をやりたかったんですけど。でも、ほかの子よりうまかったし、スポーツと字を書くことだけは人に負けたくなかったのでがんばっていました。
高校進学という話になった時、勉強ができなかったので選択肢がなくて、思った高校には入れませんでした。高校ではソフトボール部に入ったんですが、県に2校しかソフトボール部がないので勝つとすぐ関東大会で、県外のいろんな所に行けたのが楽しかったです。高2の時に野球部ができて、そっちに移り、翌年の春夏の大会にも出場しました。
【生い立ちを見つめ直す】
思えば、高校時代が僕の転機になったなと思います。中学の頃に好きだった子がとてもがんばりやさんで「僕も彼女に恥ずかしくないような高校時代を送ろう」と、自分でもほんとにがんばったなあと思います。
おかげで成績も上がって、3年の時、この成績だと大学に行けると言われました。自分ではとにかく施設を早く出たいという思いしかなく、進学も就職も具体的には考えていなかったのですが、その言葉で大学進学を考え始めました。その時に施設の職員に薦められたのが仙台にある東北福祉大でした。そこを推薦で受けたら運良く合格しました。私がいた施設はそれまでに約500人くらいの子どもを社会に出していたんですが、大学に行ったのは私が初めてだったので、すごく期待されました。
大学には最初は読売新聞奨学生で行くことになっていたのですが、見習いの段階でめげてしまいました。もう大学に行けないと思っていたところ、施設の園長が「俺が当面の生活費を立て替えるからやってみないか」と言ってくれて大学生活に入ることができました。
大学時代一番困ったのは、やはりお金でした。施設特有のホスピタリズムというのか、お金の使い方がうまくできなかったんです。バイトで月7万もらってもすぐ使っちゃう。まあなんとかなるさって。で、奨学金とアルバイト料だけでは足りなくて、毎年3月になると園長にお金を借りに行っていました。
高校までは自分の運命っていうものをすごく恨んでたんですが、大学に入ってからは変わりました。福祉という学問によって変えてもらったなあと思います。
福祉という学問は、人間を見つめてその幸せを考え、そして実践していくためのものです。それを学んでいくうちに、自分の生い立ちを見つめざるを得ない状況になって、これはしょうがないな、どう転んでも変えられないし、と何となく受け入れられるようになったんです。園長からも仏教の考え方みたいなものを教わっていて、とにかく人にはそれなりに自分の運命みたいなものがあるんだとわかった時、何か自分の中にすーっと落ちるものがありました。
松下幸之助さんにも影響されました。彼は学歴がなく小学校中退で、親戚も財産もなくて、体も弱い。なんと俺よりも何にもなくて、それで一代であれだけのことをやったんだと。彼はプラス思考なんですね。逆境を逆手に取る。そこがすごく、自分の運命に苦しんでいた私を変えるきっかけになって、自分もプラスに考えられるようになってきました。
来月につづく・・・。
※【はらっぱ】No.176 1998年7月5日発行 定価450円
編 集/はらっぱ編集部 編集長/田中文子 発行人/石原忠一
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Thesis
Yoshio Kusama
第16期
くさま・よしお
東北福祉大学 特任教授
Mission
福祉。専門は児童福祉。