Thesis
◆2度目のカナダ訪問
昨年この国を訪れるまでは、カナダは私にとってあまり馴染みの無い遠い存在の国だった。どれだけの人が住んでいるのか、国土はどのくらい広いのか、確か地理の授業で習ったような気がするが、それすらはっきりと思い出せない。知っていると言えば、ロッキー山脈とナイアガラの滝があるくらいの知識しか、私は持ち得ていなかった。
カナダと私を結び付けてくれたのは、駒沢大学の高橋重宏教授だ。2年前、海外視察へ行くなら何処がいいでしょうかと前述の教授に相談した所、「それならカナダへ是非行くべきだよ」と強く勧められて、昨年6月1ヶ月間、トロントを訪れた。これが私とカナダの出会いだ。
それから1年後、私は再びカナダの児童福祉を学ぶために、ここへ戻って来た。今回は4月間を予定している。既に3ヶ月半が過ぎてしまった。
◆カナダで感じたこと
早くも再来週には帰国しなければならない。どれだけの収穫があったのか分からないが、生活してまずかんじたことは、「安全」なことだ。地下鉄で襲われる危険も感じなかったし、夜は一人で歩けたこともうれしかった。今まで訪れたアメリカやアジア諸国では、夜は危険を感じて歩けなかったし、もし勇気を出して1人歩きでもした時には、命の保障はないと言う国がほとんどだった。日本では問題にされない「身の危険」を感じなくて済んだことは、非常に有り難かった。
それから、こちらの人と接して感じたのは、「気さくさ」だ。初めて訪問した人間にとって、知らない街や都市を一人で歩くのは、正直言って不安の連続が付きまとう。案の定、私はそれを経験した。例えば毎年6月に開催されている「インターナショナル・フェスティバル・キャラバン」がそうだった。昨年に続いていくつか見て回った。私は、各パビリオンへ向かうまでに何度も道に迷った。地元民ではないから土地勘がないのだ。そんな時、近くにいた人に拙い英語で道を尋ねると、どの人もみな親切にそこまでの行き方を教えてくれた。中には、目的地近くまで案内してくれる高貴な方までいらして、大変助けられた。以来、カナダ(人)がぐっと身近になった。気さくな人が多く住む国は、親しみが持てる。
「車イスをよく見かけた」。これが次に感じことだ。ジャパンパビリオンへ向かう時もそうだったが、自宅を出て地下鉄へ向かうまでに、何人もの車イスに乗った人達をよく見かけた。日本ではあまりお目にかかれない光景だ。しかも、重度の障害者が一人でデパートに入りショッピングをしていたり、レストランでは自力で食事をしていた姿などを、何度も目にしたことにもとても驚いた。なぜか。日本ではまず考えられないからだ。
なぜ多くの障害者の人が一人で出歩けるのか私なりに考えてみた。まず言えることは、歩道が広いこと。日本の歩道は一般的に狭く段差がきついと言われている。彼らが街に出たくても、危険なので安心して外出出来ないのが実情のようだ。この違いは大きい。次に考えられるのは、周りの人達が障害者にやさしいということだ。例えばデパート入口のドアーをで彼らと出会った場合、ここではそこに居合わせた人や通りかかった人達が、自然にさりげなくそっと手を差し伸べている姿を幾度となく見かけた。それが一つの文化(習慣)にもなっているようだ。この手助けがあるからこそ、障害者は心配なく街へ繰り出すことができるのだろう。
なぜそんなに自然にしかもやさしく出来るのかについても考えてみた。それは、「ゆとり」から来るのではないだろうかと思う。「カナダでは、残業することは社会悪という考えが根付いている。5時に仕事が終われば、家族の待つ家へ帰るか、スポーツで汗を流すか、各自が自由にそれぞれの生活をエンジョイしている。仕事は飽くまでも生活手段の一つ過ぎない」とカナダ人が教えてくれた。ここでは仕事と生活が完全に区別されているのだ。残業もよほどのことで無い限りしないそうだから、これが精神的ゆとりを生む一つの要因になっているのだろう。
研修でいろんな職場を見て回って共通していたのは、せかせかと仕事していないことだった。コーヒーを飲みながら、時には談笑したりしてゆったりと仕事をしている様に、私には映った。朝は早くに家を出て、夜は残業・残業の毎日、時には接待やら何やらで自由な時間が少ない日本人に比べ、カナダ人の方が格段に自由に使える時間を持っている。このギャップは大きい。それがカナダ人のゆとりになって、自分ばかりでなく障害者の様な社会的な弱者や他者に対しても、自然に思いやりが持てるのではないだろうか。こうしたことが社会全体の背景にあるからこそ、「車イス」の方々が自由に思いのまま出掛けることが可能となるのではないだろうか。
日本でも歩道を広げ、段差を少しずつ減らしていくことはもちろんのこと、サラリーマンの所得保障ともなっている残業に対して、何らかの改善が必要なのではないかと感じる。例えば、労働基準法で残業規制を設けるくらいの思い切った改革も大事なのかも知れない。今のような労働環境からでは、サラリーマンはゆとりを持てないだろう。日本も仕事ばかりでなく、家族や友人、あるいは自分のための時間を大切にする時期に差し掛かっていることを痛感した。ゆとりを持てる国と持てない国の差は大きい。
◆ニューリーダーの予感
帰国を間近に控えて感じることは、「21cはカナダの時代」になるのではないかということだ。アメリカはカナダと同じ多民族国家(社会)だ。しかしお隣アメリカの人種政策はどうも上手く行っていないようだ。記憶に新しいサンフランシスコ暴動や、映画制作における黒人の起用方法、スポーツ競技への参加(水泳、アイススケート)などをとってもみても、それは明らかだ。
また、アメリカに住む何人かの知人にこの種の話しを聞いてみた。「白人の人は口もあまり聞いてくれない。ましてホームパーティなどにはもちろんお声は掛からない。白人は白人同士で、黒人は黒人同士で集まってしまい、排他性みたいなものを感じる」。これが、大体共通した答えだった。未だにアメリカでは、社会全体に差別意識が根強く残っている印象を受けた。
その点、カナダでは、アメリカが反面教師になっているのかも知れないが、人種政策が上手く行っているのではないかと感じる。と言うのは、トロントは125の民族が共存している都市に相応しく、カフェーやレストランでは肌の色に関係なく、一つのテーブルで和気合々している光景は、ここでは普通だからだ。また毎年「インターナショナル・フェスティバル・キャラバン」が開催されていることや、大きな暴動といった問題が起こっていないことに、カナダの人種政策が上手く機能していることを感じる。
私は今年も13のパビリオンに行った。それぞれの民族の歴史や文化、生活様式などを認めて尊重する社会文化があるからこそ、このイベントが長く続いてきたのだと思う。州政府に勤めるあるカナダ人は私に、「カナダのバックグランドには、すべての人々の権利を尊重する文化があります」と誇り気に語っていた。
「自由・平等」という名の下に、文化や考え方の違う民族同士を一つにまとめようとしているアメリカとは違い、カナダはマルチカルチャリズム政策を国是とし、各民族のアイデンティティーを尊重している。21Cは、グローバル社会だとも言われる。それは、1つの地域に違う文化を持った民族が生活を共にする、共生・共存の時代を迎えることを意味している。つまり、自と他の関係をどの様に構築していくのかが問われる時代になるとも言える。他を積極的に認め尊重する「マルチカルチャリズム」は、世界に発信出来るカナダの大きな財産だと私は思う。ここが、カナダの将来性を強く感じる所だ。
カナダが人種政策で世界をリードしていく日が近い予感がする。カナダ政府はそれを世界に向けて実践していくべきだと思う。
Thesis
Yoshio Kusama
第16期
くさま・よしお
東北福祉大学 特任教授
Mission
福祉。専門は児童福祉。