論考

Thesis

福祉を再考する

◆自助・共助・公助

 21世紀の日本の福祉は、20世紀に比べて制度や価値観が大きく様変わりするだろう。
 諸々の社会福祉サービスを受ける時の基本となる社会福祉事業法が、来る超少子・高齢化社会を前にして改正されるからだ。次世紀の福祉のあり方を方向付けしたものが、昨年、中央社会福祉審議会・社会福祉構造改革分科会から「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」というタイトルで出されたものがそうだ。どのような形で各種の社会福祉サービスを供給していくかを、この報告書に細かく盛り込んだ。
 7つほど上がった改革の基本方向の最後に、「住民の積極的な参加による福祉の文化の創造」というのがあった。具体的には、「社会福祉に対する住民の積極的な参加を通じて、福祉に対する関心と理解を深めることにより、自助、共助、公助があいまって、地域に根ざしたそれぞれに個性のある福祉の文化を創造する」と書かれてあった。
 福祉の文化を創造する。これは大切なことだ。だれにでも分かる言葉だ。文化の成熟の深浅さによって、地域格差も生まれて来るだろう。しかしここで疑問な点が一つある。それは、”福祉”とは一体何かということだ。これを定義しないでは福祉は語れないし、文化の成熟もあり得ないはずだからだ。
 ただ、自助・共助・公助があいまって…の箇所が見られるが、これがこれから目指すべき福祉社会の姿を示しているのかも知れない。福祉を考える際のヒントを我々に与えてくれている。でもこれとて定義ではない。

◆福祉の定義とは?

 何年も前に福祉関連の文献で”福祉”の定義を調べたことがあった。そこで”福祉”を定義していた人(学者)を見つけることはできなかった。ただ”社会福祉”を定義していた人は一人だけいた。それが社会福祉界の重鎮・岡村重雄教授だった。
 以下がその定義だ。「社会福祉は、全国民が生活者としての主体的社会関係の全体的統一性を保持しながら生活上の要求を充足できるように生活関連施策を利用、改善するように援助するとともに、生活関連の各制度の関係者に個人の社会関係の全体性を理解させて、施策の変更、新設を援助する固有の共同的行為と制度である」。岡本教授だけしか提示していないとすれば、未だ我が国においては、”福祉”が明確に定義付けされていないことを意味するのではないだろうか。
 何度も何度も岡本教授の提示したものを読み返してみたのだが、腹の底に落ちてこない。結局よく理解できなくて困ってしまい、つい広辞苑に手が伸びてしまった。そこには、「①さいわい。幸福。ふくち。②消極的には生命の危険からの救い、積極的には生命の繁栄」と出ていた。言葉は十分理解できるが、この説明ではどうも釈然としない。これも定義ではない。
 かつて私の育ての親・遠藤光静老師(日蓮宗僧侶・臨海学園創設者)が、学生時代に一通の手紙を送ってくれたことがあった。そこには、「福祉とは最も人間を見つめる位置にある実践と学問の分野、突き詰めると神に接するものです。人間をきわめ、神に接する処から出発するのが、基本です。人間のみにくさとこよなく清らかさを垣間見た人々が福祉を実践すべきだと思います。」と老師の福祉観が綴られていた。何度読み込んでみてもその意味することが深すぎて、私にはよく分からずじまいだった。
 後日、直接老師にお逢いした時に、単刀直入に質問してみたことがある。「福祉って何ですか?」と。その時に返ってきた言葉は、「福祉とは、人間の自己実現だよ。自己実現することが福祉何だよ」だった。それからしばらくの間、頭のなかでこの言葉と格闘が始まった。「自己実現って何だ、自己って一体何だろう。実現とはどんなを意味を持つんだ」。考えて、考えて、考えて見るが、その言葉だけが一人歩きしてしまい、心の中にストン落ちてこないのだ。そんな状態が何年間も続いた。

◆自分の福祉とは?

 そして、ようやく自分で納得のいく言葉を見つけることが出来た。それは「自己実現とは、その人らしく生きること。福祉とは、その人らしく生きて自己実現すること」だった。”その人らしく”。随分とシンプルな言葉だが、いろいろ考えに考えた末に出てきた言葉だから、今では自分の言葉として、とても大事にしている。相手に福祉を説明するときも、これなら理解してもらえそうで、自分ではすごく気に入っている。
 先ほど出てきた”自助・共助・公助があいまって”の自助を、自分の人生は自分で責任を持つという自覚に立って、自分らしく生きていくことと、私は解釈したい。現実的にはなかなか難しいけれども、自分らしく生きられている人は、きっと生き甲斐を多く感じているだろうし、日頃の疲れは残りにくく心地よいものがあるはずだ。

 二つ目の共助は、他の人の”その人らしさ”を尊重して、手を合わせていくことと考えたい。自分らしく生きたいと願うならば、他人の”らしさ”や生き方も尊重できるはずだ。それは手を貸してあげる、足りない所をカバーしてあげる行動に繋がっていくはずだ。それが自分の住んでいる身近な所で自然に出来ている状態が、共助の理想の姿だ。
 最後の公助は、自分の力や他の人の力ではどうにもならない問題・課題に対して、そこで初めて公的支援をすることだと私は考える。例えば、障害者の方は自分から望んで障害者になったのではなく、偶々そのようにして生まれて来ただけのことだ。自分ではどうしようもない不可抗力が発生してしまったのだ。そういった人やあるいは問題、課題などに対して、国家がする支援のことを公助なのだと捉えたい。
 また公助する際、もっとも大切なことは、自分(自助)や他人(共助)が”その人らしく”生きられていて、自己実現しやすい社会環境づくりがなされているかどうか、ということだ。この視点があるかないかによって、人が生かされている社会かどうかが決まってくるだろう。人が生かされた社会は、自己実現へのインセンティブが人々に働いているはずだ。このインセンティブを築いていくことも欠かせない重要な要素だ。公助の果たす役割は極めて大きい。
 この3つがあいまった社会になれば、それこそ本当に豊かな福祉の文化が我が国に根付くに違いない。同時にそれは新しい福祉国家のモデルとして世界の注目を集めるだろう。

◆自助の教育が必要

 3つの言葉のなかで日本にいま一番足りない考えは、自助ではないかと私は思っている。なぜか。私など特にそうだが自分の人生を考えると、自分の将来や日本の未来に不安を抱くことがしばしばある。けれども最後には心の何処かで何とかなるさ、いざとなれば誰(家族、友人、知人、国家など)かが助けてくれるさと思っている節がある。つまり、気持ちの奥底に甘えがあるのだ。
 「自分の人生は自分しか味わえない、人生を充実させるのも自分の気持ち次第である。だから自己責任の自覚に立って、人生を考えていかなければならない。その上で自分らしさを見つけていく、作っていくことが大切だ。」言葉で言ってしまえば簡単だが、いざそれを実行に移すとなると、なかなか出来ないのが人間ではないだろうか。
 「国家に何かしてもらうのではなく、個人が国家に何が出来るか」とアメリカ国民を喝破したのは、故ケネディー大統領だ。ひるがえって日本はどうだろうか。この言葉を生む土壌が果たしてあるのだろうか。私の答えはノーだ。私も含め日本人は、極端に言えば国家(人)に何かするのではなく、むしろ何かを期待しているのが特に強い国民に感じる。
 そうであるならば尚更、自己責任を学校教育やあらゆる場で教えていく必要があるのではないだろうか。我々の世代には、年金制度が破綻する可能性が大だ。少なくとも受給バランスで言えば、マイナスだ。医療保険制度にしてもそうだ。国家にあまり期待をしていけない気がする。当てにならない時代が次世紀だとすれば、自助(自己責任)の教育の必要性は、ますます高まるばかりだ。
 自助(自己責任)の意味する言葉をもう一度考える時期が、今なのかもしれない。それが、次代の福祉が成熟するかしないかなの分岐点になるだろう。私はこのような福祉観が今日求められているように思う。

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草間吉夫の論考

Thesis

Yoshio Kusama

草間吉夫

第16期

草間 吉夫

くさま・よしお

東北福祉大学 特任教授

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福祉。専門は児童福祉。

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