Thesis
ラウンジで議論があった。「夫婦別姓を導入するべきかどうか」がテーマで、「夫婦別姓賛成」が2人、「夫婦別姓反対」が3人だった。私は論議の輪の外にいて、碁を打ちながらなんとはなしに彼等の話を聞いていた。
「別に全員に別姓を強制するわけではなく、別姓を選ぶ自由を与えるのだから、構わないじゃないか。」
「いや、そんなことを許したら『家制度』が崩壊するかもしれない。そこまでいかなくても、ただでさえ弱くなってきている家族の絆がさらに弱まるだろう。少子化傾向が強まり、日本の国力が低下するという可能性だって、ゼロではない。社会の秩序を守るため、社会システムというものを安定させるためには、多少の自由の制限も止むを得ないではないか。」
聞いていて、おやっ?と思った。議論自体はありふれた夫婦別姓論議の域を越えていない。細かいところをつつくこともいくらでもできるし、乱暴に「それは価値観の違いだから仕方ない」と言い切ることもできる。ただ私は、「社会システムというものを安定させるためには、多少の自由の制限も止むを得ない」という部分にぴぴっと引っかかってしまったのだ。 本当にそうであろうか。
生態学の視点で考えれば、一番大切なのは自己保存であろう。動物は自分の遺伝子やアイデンティティを残そうとする。子供を作ったり、ものを作ったり、何かを成し遂げて名を残そうとしたり。生きている証を生み出すことで、永遠の“生”を手に入れようとする。
社会システムは、個体保存のための防護機構であり、生きている証を刻み込み、後世に伝えるためのキャンパスであるに過ぎない。
昨年の実践審査会での塾長の質問を思い出した。人口がこのまま爆発的に増加していくのに、どう対処していったらよいか、というのが主旨だった。質問に対して、「人口抑制を、政策的に行うのはひじょうに難しいです。それに加えて、人口爆発とはいっても増えているのは発展途上国を中心としたアジアの国々で、日本はこれから先減少していく。他国の人口政策に対して、日本が実効性のある対策をとれる体制にあるとは思えません。実際問題として、どうしようもないというのが現状ではないでしょうか。」そう答えた記憶がある。
いまだったらどう答えるだろうか。
「人間は、いくらでも増えていいんです。いままでに幾度も土地からあふれかけ、その度に新しい土地を開拓したり、新しい技術を開発したりしてきました。環境抵抗があることが、人間の進歩の、進化の原動力でした。現在の人口爆発に伴う諸問題は、地球規模の深刻な問題であると受け止められていますが、問題の基本的構造はいままで存在したものと変わりません。それらを解決できる技術、あるいは新しい社会システムが確立されるのが早いか、人類が衰退・滅亡するのが早いかというだけの話です。ヨーロッパ人が新大陸を求めてあてもなく海に出たのにくらべれば、次に約束された土地、人類が求めるべき宇宙は目に見える場所にあるし、そのために必要な技術は、15世紀の人々が求めた新しい航海術に比べれば、そう難しいものではありません。」
こんなところだろうか。
あらゆる物事は陰陽の二面を持つ。大切なのは、社会システムの安定を保つことでも個人の自由にまかせっきりにすることでもなく、双方のバランスを保つことだ。
東南アジアに旅行をすると、多くの人がお腹をこわす。水が違うからだろうが、この事実から引き出される結論は、「日本は衛生観念が発達していてすごい」ということだけではない。
そういった国にくらべて、日本は乳児死亡率が極端に低い。医学の発達の、衛生観念の発達のたまものだが、手放しでは喜べない。自然界で死ぬべき人間が生きていることによって、生物集団としての脆弱さは増している。体と頭と心(この順番に注意!)の強さの平均値が低下している。だからパワーで、アジアの国々にとうていかなわないのである。 乳児死亡率が低いことは、社会の中により多くの“エラー”を持ち込むことである。これは、個体の力が支配する自然界においてはただのデメリットだが、社会的動物にとってはメリットに転換できる可能性を持ったデメリットである。
雁が旅をするとき、力のないものは旅の途中で、落ちこぼれる。落ちこぼれたものが、鷲や鷹の餌となることで、集団が守られる。そして、強い遺伝子だけが後世へ伝えられる。 こんなことを書くと、福祉・教育関係の人におこられそうだが、現在の日本社会は“切り捨てない”ことによって、どんどん種集団としてのレベルの低下を招いているという、ひじょうにおかしな社会である。社会の中で暮らしている限り、自然淘汰はほとんど起こらない。つまり社会を作り始めたときから、人間は強いのも弱いのも取り混ぜた、多様性を認めてきたということだ。自然淘汰が起きず、人工的に淘汰もしないのであれば、もっと多様性を生かすべきではないだろうか。ひじょうに安定した固定的社会システムの下では、“エラー”が力を発揮できる機会は来ない気がする。
社会システムは安定していたほうが良い。それは事実だ。ただし問題はその安定の仕方にある。がちっと固まってしまっている物体は壊れやすい。止まっている自転車は必ず転ぶ。回っている独楽は安定している。多少揺れはしても、転ぶことはない。
社会もそうではないだろうか。<> 動き続け、変化し続けることが安定していることである。変化するものは生きているし、変化に伴う危険性に後込み、成長をやめたものは、やがて滅ぶものである。私は、なんでもかんでも革新せよといっている訳では決してない。ただ、「社会システムの安定が乱される可能性が考えられるから」というのは、新制度導入に反対する理由としてはやや弱いのではないだろうか。
Thesis
Taku Kurita
第16期
くりた・たく
Mission
まちづくり 経営 人材育成