論考

Thesis

常識論と常識破りな政策

すぐに自分のいる場所を中心に宇宙が回りだしてしまうのは、ヒトの持って生まれた性質のようだ。人と会うとき、食事をするとき、服を選ぶとき、まちを歩くとき、つねに自分が所属する社会の風俗・習慣を基準にして考え、行動するのがどうやらヒトというものらしい。
 社会生活を営む上で必要とされる一般的な知識、思慮分別、約束事、それを“常識”と我々は呼ぶ。“常識”は社会の潤滑剤として必要なものだが、あまりに常識を重要視しすぎる社会は活力が無くなるという弊害も持つ。
 “常識”とは、基本的に、我々のありようは正しいという考え方に基づいている。しかし、客観的に見ると絶対的に正しい常識というものはありえなさそうだ。風俗、習慣、流行はいうに及ばず、言葉や「人の命は地球よりも重い」という価値観でさえも、地球上のある国やある地域という狭い範囲で、しかも数十年という短い期間にのみ通用する程度の、限定された効力を持つものに過ぎない。
 そうは分かっていても、ヒトは、つい自分の“常識”を基準にして全ての物事を判断しようとしてしまう。そしてそれは、親と子の性モラルの“常識”の食い違いが葛藤を生み出すように、しばしば失敗するのだ。
 常識”が、足りないと社会 の安定度が減るし、増えすぎると社会が不活性化する。では、そのバランスはどこでとっていけばいいのか。

 一つの原則は、政治と経済それぞれの“常識”のバランスをとることだ。経済が活性化しているときは(常識に縛られず創造的活動をするものが増えるときは)政治は“常識”を大事にした方がよい。経済が沈滞しているときは、政治は新しい価値観、活力を生み出すために“常識”を覆さなければならない。 日本の歴史をひもといてみても、経済・文化が繁栄期から停滞期(衰退初期)に入ると必ず、“常識”を覆そうとする政治的な力が起きている。袋小路に入ろうとしている文明を、方向転換させる力がそこに働いているのか、はたまた単に社会不安が増大する中、政治に抜本的な解決策を求める為なのかは分からないが。
 振り返って見れば、日本は今、低成長の時代のまっただ中にある。経済活動が損をしないように損をしないようにと、“常識”的な安全路線をめざす中、せめて政治が“常識やぶり”の抜本的な改革を、いままでにない新しい日本の社会のあり方を提案しない限り、活路は見えてこないのではないだろうか。

 では、“常識”に慣れきった頭で“常識やぶり”なことを考えつくにはどうしたらよいのだろうか。月並みな回答だが、様々な角度からものを見るトレーニングをしたり、物事を根本まで突き詰めて考える訓練をしたりするしかなさそうだ。
 “常識”で曇りがちな目をみがいてくれるのは、外国人、子ども、異性など、自分と異なる“常識”を持った人との出会いだ。最近知人からこんな話を聞いた。
 「なぜ、日本ではみんながエプロンをしているのですか?」 東京見物の道すがら、ドイツ人の友人が、不思議そうにたずねてきたそうだ。「みんながエプロン?」そんなことはないだろうと思いつつも見渡してみると、本屋、コンビニ、レストラン、喫茶店、みやげ物屋・・・。なるほど、驚いたことに確かにみんながエプロンをしている。日本人が慣れてしまい別段奇異にも感じないことを、この友人は新鮮な目で発見して喜んでいたのだという。
 “常識”的な思考に慣れてしまうことへの戒めは、人の目の構造が与えてくれる。ヒトの目は、動いているものしか識別できない構造をしている。動いていないものを見ていると、すぐに目が慣れてしまい、点を点として認識できなくなる。それを防ぐために、眼球の方がつねに振動して、ものが相対的に動いている状態を作り出しているそうだ。
 “ものを見る目”もいつも振動させておく必要がある。“常識”を疑い、ものごとをいろいろな角度からつねに観察し、「なぜ、なぜ」と根本までつきつめて考えて初めて、多くのアイディアを生み出し、時代を改革することができる。

 さて、この要領で“常識やぶり”の具体的な政策を考えてみたい。テーマはたとえば、婚姻と家族のあり方ではどうだろうか。コミュニティの崩壊、少子化、高齢化、男女共同参画などの時代を現すキーワードの根底には、家族とは何かという命題が一貫して存在する。その家族の出発点である婚姻にについて、様々な視点から、突き詰めて考えてみよう。
 婚姻とは、「両性の合意のみに基づいて成立し(憲法第24条)、配偶者があるものは重ねてできない(民法第732条)」ものだとされている。つまり、日本の婚姻制度は、一夫一妻を前提としている。だがなぜ、一夫一妻でなければいけないのか。
 ヒトと類縁の霊長類の婚姻形態もバリエーションに富んでいる。ゴリラは一夫一妻を貫くが、マントヒヒは一夫多妻のハーレムを作るし、ニホンザルは雑婚のコロニーで生活している。動物行動学的見地からみて、ヒトの婚姻形態が一夫一妻以外のバリエーションに富んでいてもおかしくはない。

 確かに一夫一妻は世界中で最も普及している制度であり、キリスト教圏を中心に広がっている。しかし、世界には他の婚姻様式をとっている地域もある。アメリカの文化人類学者B.S.ロウの研究によると、一夫多妻はアマゾン流域やアフリカの赤道付近、インドやアラビア半島に分布し、一妻多夫も、南太平洋地域など数カ所に存在するという。婚姻形態が一夫(妻)多妻(夫)になるか一夫一妻になるかは、気候、地形、人口比、歴史経緯、経済力、寄生虫の有無などに左右される。
 しかし、ある社会が一夫一妻を取るか、一夫(妻)多妻(夫)を取るかは、R.ドーキンスの提唱する利己的な遺伝子による戦略選択に負うところが大きく、現在日本が一夫一妻であるのも「たまたまそうである」というのが正直一番近い答えだと思われる。(もちろん儒教やアメリカ・キリスト教型・民主主義の影響が少なくないことも否定はしないのであるが)
 歴史をみても、婚姻形態は大きく変遷している。平安時代の貴族の通い婚(現在の民法では夫婦の同居を義務付けている〈第752条〉)、戦国武将、貴族、天皇など権力者に見られる側室の存在(現在重婚は禁止〈前出〉)、近代まで農村を中心に残っていた夜這いの習慣と、婦女に貞節を説く大正・昭和初期の道徳教育の差異に見られる意識の変化など、時代時代毎に婚姻と性についての多様な価値観が存在してきた。
 結局、日本が一夫一妻でなければいけない必然性はない。一夫一妻は、ここ百数十年間の、日本のある程度の範囲での“常識”にすぎない。時代の要請があれば、変わって然るべきものなのである。

 それでは、日本に活路をもたらす婚姻形態とは何か。それは、自由婚である。
 自由婚とは、その名の示すとおり、婚姻を「当事者間の合意に基づく契約であり、契約の形、当事者の数、性別などは一切問わない」とする考え方だ。一夫一妻でも、一夫(妻)多妻(夫)でも、多夫多妻の大家族を構成しようと、同性間でも、3ヶ月単位の短期契約更新型でも何でも自由ということである。
 なぜ、自由婚を推奨するのか、以下にその理由を述 べてみよう。

 まず第一に、同性愛者の人権問題、性不同一性障害の問題がある。同性愛者の比率は年々増えていると類推されており(数十万人~数百万人)、彼らの人権擁護、医療や相続の問題などの解消に自由婚は大きなメリットになる。オーストラリアでは、法的に同性同士が結婚できることが既に決められている。
 第二に、人的資源の有効活用が見込まれるメリットがある。一夫(妻)多妻(夫)では、家事労働のコスト軽減が見込まれる。現在子育てを終えた40代女性の社会復帰の難しさが大きな問題になっているが、その原因は、育児によってせっかく積み上げてきたキャリアが中断されることにある。複数の妻(夫)による子守の分担などの方法をとることにより、キャリア中断の期間を、最小限(出産、授乳期)に押さえることができる。
 第三に、少子化の解消に効果がある。現在の少子化が、結婚している女性が生む子どもの数が減ったことではなく、結婚する女性が減ったことに起因していることから考えれば、自由婚により男女共に好きな相手と結婚する機会がより広げられ、不倫の解消、堕胎数の減少などに効果が上がる。
 第四の、そして自由婚を推奨する最大の理由は、配偶者の選択が、憲法で保証されてる基本的な人間の自由だからである(第24条2項)。好きな人と一緒にいたいという気持ちに法律で規制をかけるなど、これほど野暮な話もないだろう。誰とどういう形で結婚するかという人生における重要な選択に、法律で規制をかける必要はないし、国民を大人として扱うことが、自己責任の時代といわれる21世紀に向かいつつある日本に、一番欠けていることだからだ。

 “常識やぶり”な政策提言だけに、突飛な話に聞こえるかも知れない。しかし、日本は活路を見いだすための変革を必要としていることは間違いなく、しかもそれは、部分的な改善ではなく全体的な改革でなければいけないのだ。
 突飛な提案大いに結構。政治家には、人間の本質を掴んだ、“常識やぶり”の政策をどんどん実現していってもらいたいものである。

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栗田拓の論考

Thesis

Taku Kurita

栗田拓

第16期

栗田 拓

くりた・たく

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まちづくり 経営 人材育成

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