論考

Thesis

日本とカナダ

4ヶ月に渡るカナダ研修を終えた。この4ヶ月で私が得たものは何か。それは、いくばくかの言葉、西洋社会における批判的精神、そして社会における寛容さへの理解だ。振り返ってみれば、どれも感性的なものだった気がする。本報告では、そのあいまあいまで出会った事実、とりわけ日本とカナダの間に横たわる事実を改めて整理し、両国間の関係の更なる発展に向けての提言を試みてみたい。

■ これまでの関わり

 カナダとの付き合いは深いにも関らず、あまり知られていない。いくつかエピソードを紹介したい。

<移民第一号>

 記録に残っている日本からカナダへの移民第一号は、1877年5月に横浜出港の英国船でブリティッシュ・コロンビア州に密入国した長崎県出身の永野万蔵である。万蔵は、1855年に生まれ故郷で大工見習いをしていたが、船の修理を手伝っているうちにカナダ行きを決意したと言われる。万蔵は、渡航後、フレーザー川で鮭漁に従事した後、日系製材工の親方をしたり、レストランやホテルを経営するなどの手腕を発揮した他、日本向けの塩鮭漬けの輸出業を手がけ巨富を得るに至った。しかしながら、晩年は結核に苦しんだ上、火災で財産を失った万蔵は、失意の下に故郷長崎に帰り70才の生涯を終えた。

<カナダ人ミッショナリーの日本教育界に対する貢献>

 日本では、明治維新以降多くのキリスト教関係者が訪日し、布教活動を行ったが、カナダのキリスト各派が日本の各層、特に知識人に与えた影響は大きかった。また、西洋思想の伝播を教育面で果たした役割は大きく、1873年にジージ・カクランとデービットソン・マクドナルドという牧師がカナダのメソジスト教会を代表して訪日し、前者が日本の自由民権運動や、京都の同志社設立などに関わり、後者が、青山学院等を設立するなど、カナダのプロテスタントは、明治・大正期に日本国内に多くの教育機関を設立した。

<初期の日本のカナダへの主要輸出産品>

 それは、意外なことに緑茶だった。日加間の貿易の開始時期は不明であるが、加側の貿易統計に初めて登場したのは1873年であったが、その頃はまだ額が少なく日本と中国が一緒に扱われていた。日本だけの統計が出た1876年は、日本からの対加輸出額619千ドルのうち、緑茶が597千ドルを占めていた。因みに、日本は1859年から緑茶の対米輸出しており、当時はまだコーヒーが普及しておらず、日本茶にはビタミンCも豊富とあって、特に五大湖近辺の寒い地域で、紅茶とブレンドして飲むことが多かったと言われている。最近はすっかりアメリカ発のコーヒーチェ?ンがカナダ社会をすっかり席巻してしまった。

<在京公使館>

 カナダの外交代表部の中で在京公使館は3番目に設立された。
 日加間の外交関係は、1889年の在バンクーバーの日本領事館を端緒とするが、1929年カナダは東京に公使館を開設したが、これはカナダにとりワシントン、パリに次ぐ3番目の公館開設であり、アジア外交の拠点として日本を非常に重視したことを示すものであった。この年、日本もオタワの総領事館を公使館に格上げしている。

<日本の国際舞台復帰に果たしたカナダの支援>

 第二次大戦後、1952年のサンフランシスコ平和条約で日加国交は再会され、2年後の1954年には日加通商協定が成立しているが、この前後からカナダは様々な形で日本の国際舞台への復帰を支援している。同協定が成立した同じ年にオタワで開かれたコロンボ・プラン会議ではカナダの動議により日本の加盟が決議された他、翌年の日本のガット加盟も米加両国の支持で実現している。日本のガット加盟時にカナダは日本に最恵国待遇を与えた数少ない国の一つだった。1956年の日本の国連加盟についても米加両国の支持推薦で実現している。また、1963年の日本のOECD加盟にについてもカナダは積極的に支持する姿勢を示した。1950年代末期には、日本の国民総生産は総額でカナダと並ぶ程の経済回復を見せるに至ったが、戦後の日本の国際社会への復帰の過程でカナダが積極的に日本に支持の手をさしのべてくれたことは記録にとどめておく必要がある。

<日本の版画技術が取り入れられているイヌイット版画>

 イヌイットの天性の芸術的才能に着目したのは1921年トロントに生まれた映画人であり、作家のジェームス・A・ヒューストンである。ヒューストンは、美術工芸制作でイヌイットの自活を促進させる仕事をしたことは知られているが、1950年代中頃、イヌイットの石版技術改良のため京都に行き、日本の版画技術を研究して帰り、バフィン島ケープ・ドルセットのイヌイット・コミュニティで集中的に版画製作を指導した。こうして生まれたのが、現代のイヌイットの版画製作である。因みに今もイヌイット版画は全て日本から輸入された和紙に刷り込まれている。また、どのイヌイット版画にも日本流の「花印」が押してあるが、イヌイットの花印は日本のような作者の印ではなく、それぞれのイヌイットのコミュニティーを示すものとなっている。

<戦史博物館で見た日本人像>

 オタワにある戦史博物館には日本に関する展示が二つある。ひとつは真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の進展を示した地図である。もうひとつは、日本軍に捕虜として捕まったカナダ兵がいかにひどい扱いを受けていたかを示そうとするロウ人形の展示であった。とりわけこのロウ人形は今にも死にそうな顔色をした白人が空っぽのおわんを抱えて恨めしそうに前を見ているのである。私が見ている間だけでも通りかかった観光客は皆一様にその人形の前に立ち止まった。国営であるこの博物館にあるこの展示物は、戦争の悲惨さ、無益さを伝えるだけでなく、何か他のメッセージまで含めているような気がしてならなかった。

■ 今後の関わり

 両国の今後の関係は、小渕前首相とクレティエン首相の会談によって採択された「日本とカナダ:21世紀へのグローバル・パートナーシップ」(以下「パートナーシップ」)に基づいて進められることになっている。
(詳細についてはhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaidan/yojin/arc_99/ca_gp.htmlを参照のこと)

「パートナーシップ」に含まれる主な項目は以下の通りである。

  • 規制分野における協力
  • 援助協調のための日加アジェンダ
  • 平和及び安全保障に関する協力のための日加行動計画
    対話と情報交換
    人間の安全保障及び平和構築
    軍縮及び不拡散に関する協力
    防衛当局間の協力
    将来の安全保障

  • その他の分野におけるイニシアティブ
    北極科学
    宇宙研究開発
    社会政策研究
    社会保障
    文化協力

 以上の点を4ヶ月の研究活動の成果から検討した結果、両国の関係前進に関して概ね成果が期待できると考える。私はこのアジェンダに是非あと二点加えたい。

<同盟運用テクニックの共有>

 「平和及び安全保障に関する協力のための日加行動計画」の防衛当局間の協力という項目の中に「二国間協力の更なる強化のため、両政府は、既存の機会を基礎として、日本国自衛隊及びカナダ軍の接触のための新たな機会の探求に努める」とある。私はこの機会の探求の一環として、同じ米国の同盟者としての立場・経験を共有することを提案したい。この事によって、両国は、同盟のコントロールに関する主体性を高めることが期待でき、カナダの得意とする「米国に対するやわらかな説得」の効果も高まる。逆に戦略上の理由から米国との相互運用性を高める場合でも、より効率的に高める事が可能となる。

<言語教育に関する協力>

 先月までにも何度も指摘してきた多文化国家カナダの持つ特性の一つである多様性を受けとめられる心の寛容さは、今後相互依存の一層の進展が見こまれる国際社会をいきる日本人にとって必須であると考える。この寛容さを得る第一歩は言語の習得である。相互理解の一層の進展のための言語教育に関する協力、とりわけESL教育(英語を母国語に持たない人々に対する英語教育)に関するそれは今後50年の日加交流のインフラとなりうるものではないだろうか。この交流は、公用語習得が最大のハードルとなっている、「日本人の国連職員増加」のきっかけにもなりうるものと考える。

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城井崇の論考

Thesis

Takashi Kii

城井崇

第19期

城井 崇

きい・たかし

衆議院議員/福岡10区/立憲民主党

Mission

政治、とりわけ外交・安全保障及び教育 在塾中

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