論考

Thesis

政治家は哲学と理念・理想を語れ

1.はじめに

 最近、『日本・百年の針路』(江口克彦編・PHP研究所)という本を読んだ。この本は昨年3月に出た本だが、日本を代表する政治家・経済人・学者・評論家51人の方の短い論文が集められている。ここに短い論文を寄せておられる方々も短いスパンで具体的な事を書いている人や長いスパンで書いている人、専門的な事を書いている人、抽象的な事を書いている人、様々である。私はこれを読んでいてなるほどと思う反面、これだけ多くの有識者がいるのに日本はなぜ一向に良くならないのかと考えた。

2.戦後政治の対立軸―55年体制下での保革対立の時代―

 今はあらゆる問題が噴出してきているのに、まったく政治は低迷している。機能を果たしていないかのようだ。何故、こういう状況になったのか。まず、戦後の日本の政治状況をごく簡単に振り返ろう。そして、今、何が問題かを考えたい。戦後日本は久しく―55年体制の頃は―イデオロギーの時代だった。政治の議論は「保守」と「革新」で大枠に括られ、知識人も政治家も国民もその枠組みで考えた。

 「保守」は市場主義経済を守り、日米安保を堅持し、アメリカと連携し西側の一員としての立場にたち、「革新」は旧ソ連を目標とし、護憲・安保反対、経済は社会主義を目指す人々が支持した。主に「保守」陣営の支持者は大企業経営者層・農民・中小企業経営者などで、「革新」陣営の支持者は都市住民・組織労働者・進歩的知識人だった。保革対立の戦後政治では、平和運動は革新側が担っており、革新陣営は憲法擁護を主張しつつ国家に対して敵対するという奇妙なスタンスをとってきた。また、これもとてもおかしな話だったと思わざるを得ないのだが、戦後の55年体制下では、文部省と日教組という、教育を司る国の省庁と実際に教育現場を預かる教師がイデオロギー対立をするというような事もあった。

 米ソの冷戦崩壊後、日本でも55年体制が崩壊した。政治的には93年総選挙で自民党が一旦政権から下野した。しかし、これは保守政治そのものの弱体化によるものではなく、保守陣営からの政界再編がおこりはじめた事によるもので、実際に弱体化していたのはいわゆる「革新」陣営の方だった。ソ連崩壊後、左翼勢力は日本でも行き詰まって行く事となる。93年以降、めまぐるしく政権は変わり、政党の再編が10年近くにわたって行われた。

3.イデオロギーの時代から政策の時代へ―55年体制崩壊後―

 この頃、イデオロギーの時代は終わり、政策の時代といわれた。大学や大学院に政策科学部や総合政策学部、政策科学研究科や総合政策科学研究科が作られた。政策担当秘書制度が導入されたのは1994 年だった。若者で政治や公的活動に関心のあるものが環境・福祉・まちづくりといった分野に関心をもち、積極的に活動をしはじめたのもこの頃だ。彼らはイデオロギーの時代の左翼の活動家とは違い、大きな「政治」そのものにはコミットせず、政策的思考を身につけ、目の前の課題に対し「問題解決能力」をもった人材として歓迎された。国会においては「政策新人類」が登場し、「政策に詳しい」事はもはや政治家の必須条件といわれるようになった。裏を返せば、それまでの政治家は個別利益の代表者であってよく、政策には詳しくなくても良かったことになる。政策に詳しい官僚がいたからだ。政治家にとって自分の専門分野(利権と結びついた)についての発言権を増して行くのが出世だった。先頃逮捕された鈴木宗男氏はこのタイプの政治家だ。

4.一つの側面としての市民の時代の到来―55年体制崩壊後から現在―

 イデオロギー的な左翼が退潮し、政治的には総保守化が進んだといわれた時代であったが、実は、一方において、90年代からは、住民投票や行政への市民参加がいわれだし、NPO法(特定非営利活動促進法)が成立(1998年)し、市民運動がこれまでのような一部の運動家のものから、法的に認められる存在になってくるという動きがあった。市民的価値の時代が生まれはじめたと言って良い。しきりに、「市民」という言葉が広がり、保革対立の時代は去ったが、市民とは何かという議論がしっかりとはなされないままに、進んだ市民を標榜するグループが政治の表舞台に登場し(1996年に出来た民主党のキャッチフレーズは「市民が主役」だった)都市住民やインテリ層を中心に支持を延ばした。この流れに長野県の田中知事・千葉県の堂本知事の誕生もある。この流れは今も続いている。

 観念論を振りまわす左翼野党と利権分配型の保守与党による、表向きのイデオロギーの時代が終焉し、低成長時代の限られたパイの中で、現実をどうするかと言った「政策の時代」が到来した事は当然のことであり、歓迎すべきことである。そして、ほぼ期を一にして、直接民主制に近い試みがなされている事も、「保革対立」の時代にはなかった、新たな芽として歓迎すべき事とは思う。政策の時代と市民的価値の広まりはある意味で通底するものがあったのであろう。

5.もはや、「政策の時代」でさえない

 しかし、混迷は続いている。何故だろうか。政策論議が増え、市民が政治・行政に関り始めた。新しい価値らしきものの萌芽も見える。にもかかわらず、社会の雰囲気は悪くなる一方だ。何かがおかしいからだとしか思えない。何が、求められているのだろうか? 私は最早「政策の時代」でさえないと思う。では、何の時代か。一言でいうと今、求められるのは「哲学」だ。「理念」と言っても良い。別に政治家と国民が哲学を学び、哲学的思考を身につけて政治の発言をしろというのではない。今、全くなくなったように見える「哲学・理念」のレベルでもう一度、議論しなければ、政治の再生はないという事だ。これは、イデオロギーの時代の再来を説いているのではない。

 先ほど私は55年体制をイデオロギーの時代と書いたが、実は政府・自民党は「政策」を担当していたし、政策がこの世になかったのではない。政策立案は官僚が担当し、自民党は利権配分を担当し、表でイデオロギー闘争をしていた左翼政党(野党)も実際には、利権の分け前に与かっていた。全体が右肩上がりの時代は、「保守」陣営も「革新」陣営も大きくなり続けるパイを分け合っていたのだ。いわば、本当のイデオロギーの時代は60年代までで実際には終わっていたと思う。後は野党は二枚舌で実際の政治の場では分け前をもらい、口では反体制的言辞を弄した。しかし、左翼勢力の影響力はある時期までは大きく、国民(左翼)の思想の中には反体制的思考はかなり後まで残っていた。こういう時代へ戻ることを、提案しているのではない。

 55年体制下では「官僚の政治家化」が進んだが、このまま「政策の時代」的発想でのみ行くと、今度は「政治家の官僚化」が進むのではないかと思う。つまり、政策に詳しい若手政治家の登場は基本的に歓迎すべき事であるが、その詳しい政策とやらが全部、現状追認で、どこまで「細かく知っているか」合戦になれば、政治家からリーダーとしての側面(ビジョンと理念を指し示す人)がなくなるからだ。大きな部分はただただ流されて行き、現状分析と対症療法的政策立案にのみすぐれた政治家が多くなるのは政治家の官僚化以外の何物でもない。

6.「自己責任・グローバル化・IT・国際競争力」的発想しかない事への疑問

 私は55年体制崩壊後、イデオロギーの時代は終わったが、実はその後の日本をどうするかと言った「大きな」議論がなくなり、現在は、ただ、ひたすら、「世の中は自己責任で動く」「グローバル化が進む」「勝ち組・負け組の時代になる」「ITが世の中全てを変える」「国際競争力をつけねば…」などの言説が何の疑いもなく飛び交っていることへの疑問と不信をもっている。本当に我々が目指すべきは、そういう社会かという議論があまりない。「グローバリズム」に対応するとはどういう事かという議論もない。全ては市場主義礼賛の声である。対応とはひたすら合わせる事、ついていく事なのか。極端に言えば「鎖国」だって一つの対応だろう。

 今の日本では国家は否定され、大きな問題は国際社会で解決され、身近な問題は住民投票などによって直接参加が進んだ、自治体で解決されるという方向に向かっており、「国家とは、日本とは」という議論は低調だ。私は別に市民参加や住民投票的な直接民主主義的価値を一概に否定するものではない。今起こっている現象にこれで良いのかと思うだけだ。一方において、グローバル化が進み、一方において政治の市民化が進む。両者は結びついているようでもあり、住みわけているようでもある。通底する何かがありそうでもあり、別々に進んでいる現象のようでもある。この辺りも今の日本を見えにくくしている。

7.市民主義者への疑問

 市民主義者の主張や思考への疑問もいろいろある。市民社会的価値観をもっている人は、「自治体」にこだわる傾向が強い。何故だろうか。自治体への参加だけで満足しているのだろうか。穿った見方をすれば彼らの中に反国家的なメンタリティーがあるからのように思えなくもない。例えば、何故、自治体レベルでは「市民参加」が進むのに国(中央政府)レベルでは「国民参加」が進まないことに何も言わないのだろうか。市民参加を求める政策分野は身近な問題なので自分たちで決めるべきだから…? 私はこの問題を長く考えてきたが、この理屈は私には疑問だ。世の中には身近な問題(自治体の政策)には満足していても、国家の医療政策や文教政策にものを言いたい人も多くいるはずである。この辺りが市民主義者の中途半端なところだと思うのだ。自治体の審議会に市民公募委員を入れるのは良い事だが、それでは何故、防衛庁や厚生労働省や文部科学省の審議会に市民は入れないのか。公募すらしていない。この事を彼らはどう思っているのだろうか。最近の市民主義者の運動によって市民参加が進み政治が身近になった気がしてもそれは「行政」のある部分が身近になったというだけなのだ。

 中には、この理念を究極まで追求して五十嵐敬喜・小川明雄氏のように「市民の政府」を提案している人もいるが、私からみればそれは噴飯ものだ。政治の担い手を自分たちの想定する「市民」にのみ限定し、「市民の政府案」に賛成しない政党や議員には退場してもらおうなどと主張している。国家をどう創るかという視点を欠いた、市民の政府論など、国を「大きな自治体」にしてしまうというような発想でまったく現実味もないし、哲学もない。彼らは、結局のところ国家を行政機構としてしか捉えていないし、その行政機構を官僚が支配している状態から自分達の規定する「市民」がコントロールするのが「市民の政府」なのである。彼らから見れば政党も議員も役所も市民のための道具というが、その市民的価値こそが政治的な一つの立場であるのに、これからは政治立法と市民立法が対置するなどと言っている。こういう安易な「市民の政府論」は反権力主義者の権力志向にすぎないと思う。

 行政機構を誰がどのようにコントロールするかはそれ自体とても大きな政治の問題ではあるけれども、市民主義者達は全く、歴史や風土・文明・伝統精神などと言った側面から国のあり方を考える事はしない。発想の根底には市民か官僚か、アマチュア市民かプロ政治かというものしかない。制度(行政)と近代市民主義を前提とした現在だけを見ているのだ。人間のあり方と歴史を見ない。一体、市民の政府が実現すればこの国はどういう社会になるのだろうか。全員が市民の議員になりそれにコントロールされた市民の政府が出来た時のイメージとはどういうものだろうか。

 私は自治体の集合体が国家だとは思わないし、厳然と国家レベルで考えなくてはならない問題は、外交と安全保障以外にもあると思う。教育もそうだし、食糧自給率をどうするのかといった農業問題もそうだ。科学技術政策・生命倫理に関する政策などもおそらく自治体だけの問題ではないだろう。雇用の問題、企業と個人のあり方などもやはり国レベルでの問題だ。そして、こういう問題は官僚だけが霞ヶ関の一室で計画を立てて解決出来る問題ではない反面、市民の政府論的発想で解決出来ることでもない。やはり、政党・政治家が大筋を提示し、そこに国民的議論が起こり、政治家と国民が一つの道を探っていくというかたちの、真の民主主義体制の構築のための努力をしなくてはならないと思う。実は今まで一度も日本社会ではこの事は出来ていなかった事である。

 政治的論争からすでに行政レベル(実施レベル)におりている課題を全部、自治体の裁量にして、財源も降ろし、もっと急激に地方分権を進め、実施の具体策に市民参加を拡大することには私は賛成だ。むしろ早くそうすべきだと思う。しかし、それで、国家として考えなくてはならない問題が消えるわけでもない。思うにどうして、日本では国家の話をタブー視するのだろうか。よく、日本には戦略がないと言われる。戦略という言葉は個人的に私はもう一つ好きにはなれないが、中長期的な総合的なビジョンと置きかえれば、確かに日本には全くない。これが、行き当たりばったりの政治が行われる原因の一つだろう。

8.本当に国家はもう要らないのか?-「地球市民」と「住民」だけで良いのかー

 国際社会・グローバリズムというと「正義」である。一方、NPO、住民投票・市民参加的なるものも新たに自発的に公的問題にかかわろうとする市民の登場として正のイメージで語られる。先に見てきたような、今の日本で起こっている、市民レベルの新しい試みには、その思想的な部分にいくらかの疑問をもちつつも、私はそれ自体は充分価値のあることだと思う。それは認めてはいる。しかし、反面、彼らは現場現場で良いことをしているのに、大きなところでは、国全体が一方的な価値観に流れて行っていることを止められない。

 この状況に対して私は危機感をもつのだ。国際化と直接民主的住民投票的発想の両極に引き裂かれ、もはや「国」はないかのようだ。国をどうするか、どういう国に住みたいかを議論することは、偏狭なナショナリズムや安易な復古主義につながるものでもないと思うが、どうもどういう国家・社会を作っていくかという議論は少ない。

 国家とは単に国会・内閣・裁判所の集合体ではないし、行政官庁を全部たしたものが国なのでもない。都道府県を全部たしたものが国なのでもない。こういう事をいうと私は国家主義者かと言われそうだが、ごく自然に発想すると「世の中」という時、やはり、国が単位になるのではないかと思うだけの単純な話だ。この場合の国とは重ねていうが、行政官庁の集合体でもないし、狭義の国家組織でもない。「世の中」という時、アフリカやロシアやアメリカ人の文化や思考や政治情勢を全部頭に入れて自然に話す人が一体どのくらいいるだろう。常に世界を股にかけて活躍している人でも、「地球人」として何でも語る人はそう多くはいないだろう。

 また、「最近の世の中は」という時、自分が住んでいる自治体(市や町)のみを思い浮かべて話す人がどれだけいるだろう。職場と住居が異なった自治体にある人は多い。企業もNPOも皆、自治体を超えて活動しているだろう。我々日本人にとってはいろいろな問題を考える際、発言する際のある程度の大きさはやはり「国」なのではないだろうか。にもかかわらず、国をどうするかという議論は少ない。総合雑誌では多少あるが、それでも目先の政策レベルと後はいかにグローバリズムに合わせるかといった議論だ。その際の価値観は、冷戦崩壊後、更にバブル崩壊後数年を経て、先ほどから書いてきた価値に一元化されている。この事が私には不思議でならない。精神的な問題や生きがいと言った問題が政治の場で議論される事もない。こういう問題こそ、どういう社会を創っていくのかという際一番の問題なのに…。本来、国際社会にどう対応するかも、また、分権をどこまでするかも「国家」の問題だ。しかし「国家」を忌避して、心は「地球市民」で具体的なことは町内会的な自治体へ参加する「住民」としてという発想が本当に住み良い国(国としか表現しようがない)を創り出すのだろうか。私はそうは思わない。やはり、正面から世の中をどうするか(すなわち、日本をどうするか)と考えなくてはならないのではないだろうか。

9.改革すべきは本当に「分っている」のか?

 一頃、「改革すべき事ははっきり分かっている。後はどう実行するかだ」といわれたが本当だろうか? 私はそれはウソだと思う。勿論、当面、どうしてもここは改革しなければならないと殆ど全ての人が認識しているのに、現に利権をもっている勢力の反対で改革が進まないという部分はあるだろう。そういう分野は速急に改革しなくてはならない。しかし、すべき改革(万人を納得させる)ははっきり分かっていて、人を得ていないから進まないとか、古い制度(法律・規制)が邪魔をしているという言説には私は疑問をもつ。仮に小泉構造改革が「はっきりしなくてはならない改革」としても現に「抵抗勢力」といわれている人がいる事自体、万人のコンセンサスを得るような改革案はどこにもないという事だ。それはある意味で当然だ。

 「改革すべき事ははっきり分かっている。後はどう実行するかだ」という人は、要は規制緩和・自己責任・グローバル化・勝ち組・負け組社会・IT的「改革」を推進するより他にプランがない人たちだ。何故なら今はそれしかないのだから。しかし、それならば、はっきり、政府・与党なり、ある政治勢力がこの価値観で行くと決めた事について、国民にその「哲学」と中身をこそ語るべきだろう。そして、このやり方について来られない人は自分で考えろとはっきりいうべきだろう。しかし、政治家は誰もそうは言わない。この事は、当事者も自分に関係ある個別政策分野に関る法律に賛成・反対するだけで、後はムードに任せ、哲学をもって来るべき社会を考えてはいない事の証左ではないだろうか。

 一方、国民も「改革」には賛成する。何故か? 自分がどちら側にいるかが分っていない人が多かったり、自分を「強者」と思う人は「弱い奴をこれ以上甘やかさなくて良い」というメンタリティーを持ち、何となく自分を「弱者」に位置付けている人も「これ以上は悪くならないだろう、今、苦しいのは今までの政治のせいで、改革が進めば良い事があるだろう」と根拠のない期待をしたりするからだ。要は自分で理想社会を考えない人が多いからだ。かくして、誰も何も分らないままダラダラ世の中は進む。問題は政治家(リーダー)までもが改革の中身をしっかり掴んでいない事なのだ。

10.民主主義の重要な問題としての現代の政党の問題

 そこで、実際の政治の状況を考えてみよう。有権者の政党離れが言われ始めて久しい。確かに55年体制下のような分り易い、対立軸がないので、有権者・国民が政党離れを起こすのは致し方ない。しかし、そうは言っても民主主義の基本にはしっかりした政党がなくてはならないのではなかろうか。主義・主張に基づいた政治家集団というものが存在しない事が、今の日本の政治を混迷に落とし入れている大きな原因だと思う。自民党・民主党はかたちでは存在するが、政策によって分かれてはいない。これなら、国民はどこに投票しても同じだ。政策の上には本来理念があるはずだ。哲学―理念―政策の順番だ。しかし、理念は誰も考えない。主義・主張は誰も言わない。もはや、一部の知識人・学者を除いて、哲学・理念レベルでの自らの思考を発表する人はなくなった。そして、実際の政治・行政の場には現実の「政策」だけがぽつんとある。

 政党を分ける軸が出来るとしてそれは何だろう。「大きな政府か小さな政府か」「アメリカ重視かアジア重視か」「中央集権か地方分権か」「都市政党か農村中心か」などが挙げられるが、これで、政党が二つになれるだろうか? 安全保障・憲法問題で政党が割れると分り易いが、これは今の政治課題であってずっと政党を分ける軸にはならない感じもする。

 私は、ひょっとすると、新自由主義・グローバリズム・アメリカ型社会をモデルにする言説を是とする側とグローバリズム・アメリカ絶賛に疑念をもつグループに分かれるのではないかという気がする。これは、経済システムの問題と外交と社会はどうあるべきかという問題などいくつかの問題を重層的に含んでいるので、政党を分ける軸にはなるかもしれないと思う。誤解を怖れずに言うなら、国をやや閉ざし(鎖国でない)、アメリカ的価値観から徐々に離れ(急に離れるのは絶対に無理だが)外交はアジア重視で、日本文化への回帰と教育の抜本的改革を軸に据えるグループと、今の自民の改革派や民主の若手にも多いグローバリズム賛成で市場主義礼賛、IT・弱肉強食・勝ち組、負け組的価値観、自分さえ「勝ち組」にまわれれば良いという考え、前提のない「自己責任によって世の中は動く」という一元的価値観・アングロサクソン的価値をまねて日本に導入する事をこのまま推進するグループに分かれるかも知れないという気はする。抽象的にいうと大国志向(旧来的発想での大国主義)か小国志向(昔の石橋湛山的な小日本主義)かによって、分かれるかもしれない。そうなって来ると、今の自民・民主を両方分断した政界再編がくるかもしれない。しかし、今は全てが一元的な予測に基づく価値観で動いているにも関らず、根本的な議論が表に出ない。この事こそが最も大きな日本の政治の問題だと思う。

11.西洋医学的政治から東洋医学的政治への発想の転換を

 私は政治家は皆、まず、大きく発想を変えなくてならないと思う。一言でいうと、「西洋医学的対症療法政治」から「東洋医学的政治」への転換である。場当たり的な対症療法的な政策しか出せない「西洋医学的政治」から、病気に対して漢方薬をじわじわ効かせていくような「東洋医学的政治」への発想の転換がまず求められる。東洋医学的発想による中長期的プログラムの中にも対立軸はいくつかあるだろう。今の状況では、西洋的発想対東洋的発想というのがある意味で対立軸になるかもしれないが、複数の政党がお互いに中長期的なプログラムを出し、そのプログラムを競いあうようになれば(哲学の違いによって)選挙は今のようではなく、実際に意味のあるものになるだろう。

 政党は本来はそのプログラムを出すべきなのだ。これが出せないのは政党が政策によって成り立っていないという今の日本の現実を表しているのだ。なぜ、そうなっているかと更に深く突っ込んで考えると、議員達がお互いに政策論争以前の価値観のレベルでの論争、哲学の論争をしていないからだ。まず、これをしないと、出てくる政策はどこまで行っても対症療法だ。じわじわと漢方薬を効かせるような感じで日本をある方向へ(実はその方向こそが問われるのだが…)もっていく中長期の政策が出てこないのは当然だ。政治家や政党の責任は極めて大きいと言わざるを得ない。

 ついでに言及するなら、政治家・政党のみが悪いのではない。政治の場に根本的な議論を巻き起こさないマスコミにも責任の一端はあろう。テレビの政治番組は現状の日本を象徴している。テレビの討論番組を見ていても、政治に関する番組は大きく分けて二種類だ。政局がらみで与野党幹事長・書記局長などが出ているタイプの番組か、エコノミストが出て、経済政策を政治家と議論しているかだ。後はもう一つ付け足すと芸能人の司会による暴露合戦だ。ここに日本の今の姿が反映されている。経済学者・エコノミストの登場が多い割に、哲学者や政治学者(選挙分析のプロではない、ベーシックな政治学者)・思想家・歴史家などが、根本的な議論をしている事はない。政治の問題が全て(狭義の)経済問題になっているからだ。後は暴露趣味のワイドショー政治だ。経済を成り立たせるより基盤になっている文化や政治要因・思想の問題にまでついて語る人はテレビに出てこない。本当は考えている人は多いだろうに彼らはマスメディアに呼ばれない。

終わりに

 先日、国際政治学者の中西輝政氏にお目にかかり、二時間ほどお話をさせて頂いた。中西先生は、今の日本の状況に対して大変な危機感をもち、憂いておられた。そして、今必要なのは、「大人への教育」で政治家が直接国民に対して「人としての理想はこうではないか、社会はこうあるべきではないか、我々はこう生きるべきではないか」といった根本的な問題を語りかけるべきだとおっしゃった。その事が、社会全体に最も大事な問題についての議論を巻き起こす力になるからだ。今は根本的な事が社会で議論されていない。サッチャーがイギリスで改革をした時は、何も制度改革の中身のみを説明したのではない。まず、「人間としての理想はこうではないでしょうか。我々はこういうイギリス社会を創るべきなのではないでしょうか。」といった事を直接、粘り強く語ったというのだ。日本でも今ほど、政治家が一人一人自分の言葉で語る事を求められる時はないだろう。

 今こそ、政治家は地方議員も含めて自身の「哲学」を語るべき時である。個々人が自分の言葉で今の日本をどう思っており、何が問題だと認識しており、自分自身はどういう社会が良いと考えているのか、素朴なレベルで話し始めるべき時ではないだろうか。難しい言葉は要らない。要は今をどう思っていて、どうあるのが良いと思っているのか実感を語る事が大事なのではないだろうか。また、政党は、日本をどうするかを示すべきだ。そして、国民レベルでそれぞれが自分の言葉でどういう世の中が良いと思うのかの哲学をぶつけ合い政治家と議論すべきだろう。それなくして日本の復活はないだろう。このままでは、例え景気が回復したところで、我々は方途を見失って漂流してしまうだけではないだろうか。

参考文献
『市民版行政改革―日本型システムを変える―』(五十嵐敬喜・小川明雄・岩波新書・1999)
『日本・百年の針路』(江口克彦編・PHP研究所・2001)他、総合雑誌記事多数

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吉田健一の論考

Thesis

Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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