論考

Thesis

子どもに先人の生き方と古典の知恵を―志行塾の試み―

1.はじめに
以前から私は、少年犯罪のニュースに接したり、今の教育現場の荒廃についての問題について考える時、新しい道徳教育の必要性を感じて来たが、この度、ささやかな試みながら京都で「志行塾」という『論語』を始めとする東洋哲学や洋の東西を問わず先哲の教えを学んだり、世界の偉人の伝記を読んだりする子ども(及び若者)向けの塾を始める事を考えている。

そもそも、私がこういうものの必要性を感じたのは、今の日本人の精神状況全体を考えてのことであるが、もう固まり切った大人の価値観は急にはどうにもならないので、子どもの教育という視点から、今の日本に欠けているもの、または元々はあったかも知れないが失われてしまったものを取り戻したいという考えをもったからである。以下、まずは私の問題意識を述べておきたい。


2.今の教育に対する私の問題意識
戦後、日本は高度経済成長を経て物質的に世界最高水準の繁栄を実現してきた。現代の若者にとって、日本は生まれた頃からの経済大国であり、今の若者は衣食住には苦労しない非常に満たされた時代に生きている。しかし、その反面日本人の、特に若年層の精神の退廃が叫ばれて久しく、様々な問題が指摘されている。総合学習の導入など様々な改革がなされてはいるが、本質的な問題を考える時、これと言った対策がないのが実際ではないだろうか。

今起こっている事の、原因はいろいろあるだろうが、機械的な細切れの知識を教える事のみに終始し、人間としての社会生活を営む上で必要な徳目や精神性、歴史や伝統といったものを排除して来た教育にも大きな原因があると私は思っている。その結果、今の若者の姿は戦後の教育を反映したものとなってしった。物質的には満たされているが、未来への夢や明確な人生の展望を持てなかったり、金を至上の価値として生きているなどである。

このような事を書くと反論もあろう。例えば、今の子どもの全てが本当に金を至上の価値として生きているかという反論もあろう。また、徳目や精神性、歴史や伝統というと、すぐさま、左翼陣営や進歩的知識人を信奉する人々、また市民派からが戦前の教育が良かったのかというような反論が出てくる事も容易に予想がつく。

これらの予想がつく反論に関しては私は次のように答えたい。まず、全ての子どもが金銭的なものを至上の価値をおいているかというと、勿論そうではない子どももいるであろうとは私も思う。しかし、全体として見た時に、やはり今の子どもは多くがが金銭的なものを価値とする考えの中で育てられ、そこからしか物事を発想できなくなっているのは事実だと思う。それは今の子どもの親の世代がそもそもそういう一元的な価値観の中で生きて来たからである。ここでいう金銭的な価値観とは、短に金持ちになりたいという価値だけではない。物質的な豊かさが人生の豊かさだと言うことを信じ込み疑おうとしない考え方、感じ方全体を指しているのだ。

次に、徳目や精神性、歴史や伝統というと、戦前を思い出すというの人々の批判に答えたい。私も実は元々はあまり、敢えて歴史や伝統と言うことが強調される事には警戒心をもっていた時期もあった。また、教育現場で徳目や精神性が教えられるのは、国家(権力)が都合の良い人間を作るために行う事なので注意が必要ではないかという考え方をもっていた時期もあった。今でも私は国家が一定の思想や考え方を良しとしてその考えに当てはまらない人間(子ども)を排除するような教育をする事には私は大変な警戒心をもっている。しかし、私は徳目や精神性について触れ、考える教育は必要だと思っている。

これは、何故かというと、教育が価値に触れない事は本来的に無理で、必ずそこには時代の空気や時代の支配的なイデオロギーの影響を受けるからだと私は思うからである。例えば、冷静に戦後の教育について考えてみたい。戦後教育はあらゆる「価値」から自由であったかというと、まさに戦後教育こそが一つの大きな価値観に基づくものであったと思う。それが今の混乱した世の中をジワジワと作ってきたという認識を私はもっている。全く価値教育をしてこなかったのかというと、事実は全くその逆で、行き過ぎた個人主義の横行や、人間が最高に偉いものであり、人間を超えた大きなものなどないという考え、世の中に狭い意味で役にたつ人間を良しとする雰囲気(機会的な知のみを教え込み)、国家=権力でありそこから逃げるのが自由であるというような誤った認識など、様々な価値をこの60年近く日本人に埋め込んで来たのである。

つまり、国家(権力)の企みから自由な教育をしようと試みた勢力自体が結果として、社会に大きな価値を振りまき、ある種の価値による社会を創ったのである。その勢力の影響を受けた世代は今は社会の中核になっているのである。今の日本社会の混迷について考える時にはここを充分認識しないといけないのである。以前から私は主張してきたが、不況が克服され、経済が回復すれば日本は復活するかというと私はそうではないと思うのは、ここの部分を考えているからである。

戦前の軍国主義教育の反省から、戦後民主主義教育が行われた事はある意味では分らぬでもないし必然の事であったかもしれない。しかし、戦後60年近くたった今のこの日本社会を見てみると、経済こそは豊かになったものの何と囚われて不幸な人間が多くいる事かと私は思う。日本人は自ら自分を苦しめるような不幸なものの考え方に囚われているのである。それは日本社会から多くのもの、多くの考え方が失われた事と無縁ではないように私には思われるのである。物質的・金銭的なもの以外頼るべきはないという思想が戦後蔓延したからである。民主主義教育が何故こういう結果をもたらしたのかここはもっと深く考えなくてはならないが、いずれにせよ、資本主義・自由主義経済を擁護する側も社会主義・共産主義経済を擁護する側も結果として、物質的・金銭的なものに最終的な豊かさの価値をおいてきたのだ。自分は「どれだけ稼げるか」政府の分配政策によって「だれがどれだけ貰えるか」を良い人生や豊かな社会の基準にしてきた事だけは確かである。

また、大人がそうなのだから、致し方ないのかも知れないが、今の子どもにとっての大きな問題は、人生・生き方についてのモデルが全くない事ではないかと思う。身近な大人として「親」と「先生」がいると思うが果たして、「親」と「先生」から生き方というものを学び、自分の人生のモデルを構築出来る子どもがどれほどいるであろうか。「親」か「先生」が人生のモデルを提示してくれる事がもっと出来ていれば、普通に考えても不登校ももっと少ないだろうし、以前の月例で「不登校=引きこもり」なのではないと書いたが、引きこもりになる若者ももっと少ないだろうと思う。不登校の原因や引きこもりの原因を何か単純な原因に一元化する事は出来ないが、自身で人生のモデルを築く事が出来ない子どもや若者が多い事が、不登校児童や若年層の引きこもりの問題と無縁ではない事は確かだと思う。

ではどうすれば良いのか。あまりに大きな問題になるために一朝一夕に良い解決策などなかなかないのであるが、私は今の日本の大人と日本の教育現場の抱える深刻な問題について考える時、先人に学ぶという事と、殆ど日本社会で顧みられる事のない古典について学ぶ事がなにかしら解決の一助となるのではないかという考えを持つようになってきた。なぜ、こういう考えに至ったかを次に述べたい。

3.これまでの研修で感じた事・考えた事と至った考え方
ここで今述べたような考えに何故至ったのかについて少し言及しておきたい。私は政経塾の研修テーマを教育問題として来た。理由は大きくは、今の日本の混迷と社会の荒廃ぶりを見て、根本から日本を立て直すのには結局は教育しかないという考えをもったからである。但し、私は、日本は資源がない国なので人材をもっと育成しなくてはならない、国際社会の中で欧米や今後台頭してくる中国と伍していくにはもっと傑出した人材を育てなければならないというような考えをもっていて、そういう側面から国の教育政策を考えて来た訳ではない。それらの事も大事ではあろうが、政府の政策で才能のある人材をピックアップして日本をもっと人材立国にしなければならないというような事には私はさほど関心をもってはいない。また、アングロサクソンの教育をして、日本も無差別悪平等から脱却すべきだという思想にも与できない。これらの考えは、「今後何年間でノーベル賞を何人に」というような目標を立てるのと同じ発想でいかにも考えが浅く、「何の為に」という根本的な考えを欠いているもののように思えるからである。また、日本の国柄とはなにかという問題にも配慮を欠いた単純な議論が多いようにも思う。結局、こういう発想は、富国強兵的なものの考えの延長線上にしかないようにも思え私の関心とはずれるのだ。

私が関心をもっているのは、今の日本を生きている人々の心の問題や生きようといったものである。なぜ、不登校がこれほど多くなったのかや、今の学校教育に合わない子どもがなぜこんなに増えて来たのかというような事に関心をもった。そして、受け皿となっている教育施設はどういうところなのかや、どういう人が主催し教育に当たっておられるのかにも関心をもった。そこで、私は、2年目から3年目の前半にかけて、今の学校教育の枠の外で独自の理念をもって教育を行なっているフリースクールや、不登校児童を主に専門的に受け入れているフリースクール、また自治体の政策の一環で作られた不登校児童が来る施設などに実際に行って、研修を行って来た。独自の理念をもっている学校の中には、「ラーンネット・グローバルスクール」(神戸)のように主催者が自ら新しい理念を作られたところもあったし、「東京シュタイナーシューレ」(東京)のように、すでにある考え方による教育法が確立されていて、それに基づく教育を実践しているところもあった。

また、制度として自由に学校が設立出来るようにしようという考え方で運動をしているNPOなどにも関わってきた。様々な現場に行き、そこにきている子供と交わり、またそれぞれの考え方に則って教育をしておられる方々といろいろお話しをしてきた。フリースクールの主宰をしている人は皆素晴らしい方々であったと思う。しかし、何かしっくり行かないものを感じていた事も確かであった。結局、結論として分って来たのは、私のような問題意識をもっている人は少ないと言う事であった。潜在的には多く居られるのかもしれないが、どうもフリースクールの実践者などには私がもっとも関心をもっている部分についてあまり関心をもっている人がいないという事が分って来た。特区を利用して新しい学校を作ろうという運動をしている人達や、また、チャータースクールを日本でも創れるようにしようという運動をしている人も、今の学校教育に合わない子どもたちを救済しようという考えをもっておられる事は分ったが、一体、どういう教育を良いと思っているのかはなかなか分らなかった。制度改革についての議論ばかりをして、どういう人間を育てるのが良いと思っているのか、人間や社会のあり様はどういうものが良いと思っているのかと言うことについて話す人はあまり居られなかった。

どういう事かというと、今の日本の公教育に批判的な人はどうも、子ども中心主義的な考えの人が多いのではなないかなと言うことであった。こう書ききってしまうとまた反論があるだろうが、どうも私はそういう印象をもった。そして、残念ながら多くの人に欠けているなと思ったのは、多くの所は結局今の公教育に対するアンチテーゼは出していても、どういう価値に基づいてやって行くのかという所について考えている人が少ない気がした。実際の子どもを日々相手にするという事は本当に大変な事であって、日常を送っておくこと自体が大変なことなのであるが、子ども中心主義的な部分があった。また、自ら考えさせて自身の人生は自分で選びとって行くのだという考えを伝えている人は今はあまりいなく、結局は今の世の中を前提としている考えを再生産しているのだなと思った。

では、私が重要な事と思うこととは何かというと、それは、自身の人生は自分で選びとっていくのだという事を実際に子どもに分らせる教育をする事である。既存の社会のある部分に無理やり当てはめてやるのでもなく、全て甘えさせてやるのでもなく、選び取らせてやらないといけないと思う。勿論、押し付けて、一見選んだように見せかけるようにするのはとんでもないことである。これまでこういうお節介をやって来たと思うがこういう事はやっては行けない事だと思う。ではどうすれば、子どもは(人間は)自ら人生を選びとっていけるのでろうか。ここが難しい所だが、私は自分なりに人生・生き方についてモデルを持つ事が大事だと思う。モデルもつとは、こういう生き方をしたい、こういう人生を送りたいというものを自分なりにもつ事である。先に書いたように「親」か「先生」がモデルそのものであったり、モデルを提示してやる事が出来れば良いが、実際にそうは行っていないから様々な問題が出ているのではないかと思う。ではどうすれば、子ども(あるいは大人も含む人間)は人生にモデルを持つことが出きるだろうか。私は一見、非常に単純な考えのように思われるかも知れないが、それは先人に学ぶ事に尽きると思う。では、どうすれば先人に学ぶことが出来るのか。これまた、単純だがそれは人物伝や伝記を読んだり、古東西の思想に学ぶことだと思うのである。


4.なぜ、今、先人の生き方・古典なのか
何故、今敢えて、先人に学ぶというような事を私が重要だと思うのかについて述べたい。ここでしばらく、私事になるが、何故、私が、自身子ども時代からずっと学校や世の中に合わない人間だという感覚を持ちつつ、また全くと言って良いほど、尊敬出来る先生やモデルとなる大人に出会う事が出来なかったにも関わらず、これまで紆余曲折はあったもの何とか自身の人生を選んで来られたかというと、先人に生学び、先人と対話することをして来たからだと思う。私自身の事を小さい頃から振り返ってみると伝記からいろいろ学んだ。

この「志行塾」の目的とするところは、いろいろなものの見方や考え方を身につけ、自分の人生における夢や希望をもてる若者、自分が正しいと思える事を行動に移せる若者、他者に対する尊重や思いやりの念、社会に対する責任感をもつ若者を育成することである。特に先人の生き方や考え方に学ぶという今の日本の教育に欠けている部分を重視して行きたい。

そして、先人の生き方・考え方を通して、いろいろなものの見方や考え方を学び、自分の人生における夢や希望をもてる若者、自分が正しいと思える事を行動に移せる若者、他者に対する尊重や思いやりの念、社会に対する責任感をもつ若者を育成することを目的としている。対象は、京都市内の子ども(若者)とする事を考えている。

具体的には、陽明学にいう「知行合一」の精神で、志を行動にまで高める人間、市民社会に相応しい「責任意識」をもった将来の日本人を育てたい。また、子どもが、各々自分の人生のモデルを作っていけるようにし、子どもに、自ら人生を選び取る事が重要であるという事を気付かせる、子どもが自らの「天分」に気付き、「天分」を生かした人生を送れる手助けをする、子どもに、自らの幸福は自分で設計していくという事の重要性に気付かせる、子どもに社会(身の回り、公)についての責任感をもつ事の重要性を気付かせる事等が目的である。


5.終わりに
私がもっとも言いたい事は、一言で言えば、人間は工業生産品でもなければ、ロボットでもないという事である。また、道具ではないという事である。また、ここへ来て、最後に書いておくが、私は教育問題を狭義のいわゆる「教育問題」としてのみ捉えているのではない。前々回の月例報告で振れたが、私は自身の使命として「日本を取り戻し、日本を護る」という事の重要性を常に意識しているし、それを重要な事だと思っている。また、その最に重要な事は偏狭なナショナリズムに陥るのではなく、戦後の日本が完全に失ってしまった「東洋的なもの」の復活の重要性を非常に重要な事だと思っている。これはこれまでの月例報告やメールマガジンの文章でもしばしば振れてきたが、私はアメリカニズム一辺倒、グローバリゼーションという世界の価値に一元化に対して非常な危機感を違和感を覚えている。これに対抗するには今こそ東洋的なるものを大きく復活しなければならないのではないかと思う。

これは基本的に政治の話しであるが、政治をどういう基本的な考えで行っていくかという「思想」の問題だと思っている。そして、私は、今の日本の思想があまりに偏ったもの、物質文明を当然とする考えになりすぎている事に危機感を思っているのである。つまりこの「志行塾」はその辺りまで実は視野に入れて始めたいと思っているのである。何故、この文章で「志行塾」のことのみを書くのではなく、途中で研修で考えた事・感じた事を入れておいたかというと、これまでの塾での研修を行って来たからこそこの問題意識が深まってきて、いよいよ私は自身の使命がなんとなくはっきりしてきたという事を書いておきたかったからである。狭義の「教育」を変えるためというより、「志行塾」はその辺りまで睨んだものとして行きたい。やる事自体は先人の伝記を読んだり、四書の重要なポイントを現実に即して学ぶというものではあるが、見ているところは非常に壮大な部分なのである。

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吉田健一の論考

Thesis

Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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