Thesis
先月は「日本の危機と道徳教育」というテーマで今の日本の社会状況に対する私の危機感と長い目でみた日本復活への方策としての道徳教育についての私の考えを述べた。今回は、今、文部科学省によって進められている教育改革を巡る議論について様々な角度から考えたい。
教育の問題はあまりにも広範で論じる事が難しい。視点をどこに定めるかで議論の内容も全く変わる。例えば、大きく分けても教育問題は二つの視点から語れる。一つは日本が「国家として」どうするかという視点だ。いかに世界の国々に伍していけるような人材(私は個人的にこの言葉は人間を材木のように扱うようで嫌いだが…)を生み出すかという視点、つまりトップをどう育てるかという視点や国民全体と最低限の教育をどうするか、国力を維持して文化を伝承して行くにはどうするかという視点だ。「国家として」というのに抵抗があれば「社会全体として」といい換えても良いだろう。もう一つはその国家・社会で生きる「個人個人」がこの世で一度の人生をどう豊かに送れる社会をつくれるかという視点だ。
いくら、個人個人が自分の好きなように暮そうとして、それを世の中が最大限認めても、それが行き過ぎて国民全体が享楽主義に陥って国全体が沈没してしまえば元も子もない。やはり、国家からの視点は必要だ。が、一方「国家」が常に主体になって時の政権や政治的な意向に沿ったタイプの人間を育成し、そこから外れた人間はもう社会の主流になれなかったり、自身で人生を切り開く機会さえも奪われるというような事になれば大問題である。
戦前の国家主義がそうであったように、あるいは、ある種、戦後の経済発展至上主義の社会がそうであったように、「個人」が「個人」として尊重されず「かたまり」に分けられて区別される社会は私には理想の社会とは思えない。また、後に触れるが、国家が意図するとしないとに関らず、教育制度が結果として、日本に階層社会を作ったり、それを固定化させる事に手を貸す事は大きな問題だと私は考えている。教育問題は常にバランスとあらゆる視点・角度からの議論を行う事が大事である。
現在進められている教育改革について、何が問題とされているのかについて考えたい。教育改革はこのところ、ずっといわれているが、歴史を遡ると、今の教育改革は中曽根内閣時につくられた「臨時教育審議会」によって新たな道を歩み出した。これが、明治の学制改革、戦後の教育改革に続く第三の教育改革の始まりといわれている。臨教審の答申は教育の多様化や自由化をスローガンとしていた。それが具現化されたのが1989年に告示された学習指導要領で「基礎基本の重視と個性教育の推進」「自己教育力の育成」などが改善方針として出され「知識の詰め込みから自ら学ぶ力を」「個性に応じた教育を」「子どもたちにゆとりを」という事が叫ばれてきた。そして、1991年から学校週5日制が段階的に進められてきた。そして、この後、1998年に今回の学習指導要領が出される。そこで「豊かな人間性や社会性、国際社会に生きる日本人としての自覚と育成」「自ら学び、自ら考える力の育成」「ゆとりある教育活動、基礎基本の確実な定着、個性を生かす教育」「特色ある学校づくり」などが改善の方針として出された。
そして、この4月から、学校完全週5日制の実施と授業時間の1割削減、学習内容の3割削減、「総合的な学習の時間」の導入がなされた。つまり、今盛んに議論になっている所謂「ゆとり教育」といわれているものは、この4月から導入された完全週5日制の実施と総合学習の導入のことを言っているのである。マスコミ等で象徴的に「円周率が3.14から3と教えられるようになった」という事が報道されたのがこの学習指導要領の改訂であり、勿論、学習内容が軽減されたり易しくなったのは数学だけではない。習う漢字の数も減っているし、どの教科も内容が3割削減された。
「ゆとり教育」の是非を巡っては推進派と反対派がいる。私自身は、個人的にはメリットがあるとするならば、次のような事が挙げられると思う。例えば、小中学生がこれまでよりも「ゆとり」をもつ事によって、学校の教科の枠の外で、様々な事を主体的に考える時間や学ぶ時間が増え、自分の人生を自分で選択する可能性が増えること、その事によって「学校が全て」という価値観から解放される生徒がでてくること、今までは教師がいう事をいかに多くインプットするかに力点が置かれていたが、ゆとりを活かして意欲のある生徒は自ら学習した内容をアウトプットすることが出来るようになってくること、学校の休みの日が増えた事で家族ですごす時間が増え、機能不全を起こしていた家族が復活してくる可能性があること、地域に帰る時間が増える事によって、子どもが学校の先生だけではなく多くの大人と接する事により、社会の多くの価値観に触れる事が出来、世の中の実際について知る事が出来、ひいては、今のような社会と学校の乖離から、社会と学校が近くなる事などが挙げられると思う。いずれも、その通りに行くのは難しいかもしれないし、また、限られた層しか、良い部分を享受できないかもしれないという大きな問題があるが、取りあえずは以上のような利点もあると思う。
「ゆとり教育」推進派の代表的論者として文部科学省大臣官房審議官の寺脇研氏がおられる。先日、私は寺脇氏にお目にかかる機会をえた。教育問題がテーマだった、民主党リーダーズスクールという催しに参加したが、これに寺脇氏が来ておられた。ここで寺脇氏は、完全学校週5日制で「学力低下」などが心配されているが、これは微々たる問題で、一週間のうち一日地域や家庭に返す時間が増えたという発想であって、親や地域社会への責任を自覚してもらう事が一番大事だいう旨の事いっておられた。
私は気になっている二つの事について寺脇氏に質問した。一つは、現在の「ゆとり教育」が推進されていくと、社会的エリート・インテリの子弟はどんどん教育にお金をかけられ良い教育を受けられ、一方あらゆる意味でほっておかれる子どもも出てきて、これは階層社会をつくる事になりはしないかという事、もう一つは学習内容が減った分、最低線だけは責任をもって教え、その後は教師が個々の生徒の個性を伸ばすために教育をするという事だが、最低線を疎かにせず、その上で更に一人一人の生徒が本当にやりたい事をよく考えて指導できる教師を育成すること、つまり教師への責任感教育こそが必要ではないかという事だ。寺脇氏はこれに関して、「3割減ったのはラクになったのではなく、7割は最低教える事、そこからは教師の責任。7割はスタート台。この間、全国をまわっているが、3月末までの先生と4月からの先生方の意識は全く変わっている。いかに先生方に緊張感を与え続けていくかが大事だ」という回答だった。直接、階層社会についての言及はなかったが、教師に緊張感を与え続けて行くのが文部科学省の仕事で教師が常に緊張感をもって仕事をすると、「ゆとり教育」の中で、一人一人の生徒に向いた教育は出来ていくので、懸念する事はないとの認識だった。
「ゆとり教育」反対派には「ゆとり教育」は結果として学力を獲得出来る層とそうではない層を生み、日本を階層社会にするのではという観点からの反対論がある。例えば、教育社会学者の刈谷剛彦東大教授は「ゆとり教育」が一層日本を階層社会にすると懸念している論者の代表である。また、現代日本が階層社会になってきているとの指摘をしている人は他にもおり、社会学者の佐藤俊樹氏はその著書『不平等社会日本』(中公新書)で日本は努力して何とかなる国から努力しても何ともならない国になったといっている。また、長年にわたり教育現場で部落解放教育に携わってこられた外川正明氏は『教育不平等 同和教育から問う「教育改革」』(解放出版社)の中でゆとり教育が推進されていくと、子どもたちの学習時間が、個人の努力ではなく子どもの育つ家庭環境の違い、親の階層によって左右される社会がくる事への警鐘を鳴らしている。実際、外川氏にはお会いしてインタビューをしたが、今、文部科学省が進めようとしている「ゆとり教育」は更に階層化を進め、もっとも困難な階層の子ども達を切り捨てて行く方向であるとの批判をもっておられた。
今の日本社会全体が「自己責任」を強調し、「勝ち組み・負け組み」などという言葉が氾濫し、皆、自分だけ助かろう、弱いものが負けるのは当然だ…といった風潮があらゆるところに充満している事には私も危機感と恐ろしい感じを持つ。結果としてその流れの中に今回の、教育改革とその結果推進されている「ゆとり教育」があるならば、ここは厳しくみて行かなくてはならないと思う。国の政策がある種の人々を切り捨てていく方向に出てきているのならこれは大きな問題だ。マクロの視点から(国全体のあり方として)も問題だと思うし、ミクロの視点から(個人個人がどう生きられるのかという)も問題だ。外川氏は「全ての子どもが、自分の人生を自分で選べる状態にもっていく事すら、今は出来にくくなってきている」という認識をもっておられた。これが事実だとするならば、私も大問題だと感じる。
私自身もこの観点からの反対派にかなり説得力があるように思う。現に4月に完全学校5日制が実施される前にある報道機関が子どもに行ったアンケートによると、休みになった日に何をするかという質問では「テレビゲーム」や「寝ている」が上位だったという。ある意味、当然だろう。しかし、その一方でインテリ・エリートの親は子どもを塾に行かせたり細かく勉強をさせるだろう。その結果「意欲をもつ層」と「意欲を持たない層」への階層分化が起こるという懸念だ。結果として格差が出るのは仕方がないと簡単にいう論者もいるが、そういう社会が良いと私は思わない。要は、「ゆとり」の中身をどうするかなのだ。「ゆとり」を「だらけ」「手抜き」ではなく「押し付けではない創造にあてる時間」として、普く生徒がそれを享受できなくてはならない。
「ゆとり教育」は亡国への道で「国際競争力が落ちる」といった、観点で反対をする人もいる。この観点からの反対論は産業界の人に多いようだ。この観点からの反対論者には例えば、元大蔵省財務官榊原英資氏がいる。氏は「ゆとり教育」で日本が衰亡すると主張しておられた。この観点からの反対者は非常に多い。階層社会云々以前に、全体が没落するということだ。私自身は、この観点からの反対論に対しては、現状の日本を見る限り「確かにな・・・」と思う反面、どうも、この考えは、明治以来の「追いつけ・追い越せ」型の時代の思考を根底に引きずっているようにも思われ全面的には賛同できない。経済的に日本はもう豊かになったから、何もしなくても良いと言っているのではない。豊かさを維持しつづけるためにも大変な努力がいるし、その為の教育は重要だ。しかし、「ゆとり教育亡国論者」の考えの根底には、どうも人間を規格統一する思想、例えば、明治国家の富国強兵・殖産興業の考え、戦後の産業社会に直接役立つ人間、使い物になる人間だけを大量生産してきた考えが潜んでおり、経済至上主義、モノ・カネ的価値観による、現在の豊かな社会を存続させることに至上の価値をおいた思想があるように思う。個々人がどうすれば本当に豊かな人生を送れるかという観点よりも、個々人は今のような経済社会が続く事が前提でその中でどうすればうまくやれるか、日本は国際社会でいかに金儲けできるかといった発想から抜けきれない考えのように思われる。人間の生き方はどうあるべきかといった事も含めて、新しい社会を想定した考えではない感じがするのだ。この観点からの反対論者は戦後の正の側面(経済復興の成功体験)だけを評価し、負の側面にあまり目を向けていない感じがする。この観点からの「ゆとり教育」反対論者は多くの場合「学力低下」を問題にするが今、日本で起こっているのはもっと根本的な部分での人間の崩壊だと私は思う。この部分を真剣に考えずに、授業時間をこれまでのように多く確保すれば良いというのは単純な考えのように思う。
私は本当のところは、まだまだ、全ての課題に定見を持つには至っていない。教育の問題は考えるほど奥が深い。個人と社会の両方の問題だからだ。今進み始めた教育改革の問題も実際に日本にどういう社会をもたらし、そこに生きる一人一人がどう感じる社会になるかは本当のところは誰にも分らない。皆、自身の今の価値観や予想で議論しているだけだ。私は一方においていわゆる社会の階層化の問題について懸念を持ちつつも、人間というもののありようをもっと大らかに捉えてもいる。今の「ゆとり教育」には問題もあろうが全否定はしない。結果として起こるかもしれない、階層による教育格差の拡大をどう克服するかという視点はやはり必要だと思うしここは厳しくみていきたいと思う。が、ここから自由な生き方をして社会の発展にも貢献し個人として輝く人生を送る人が出てくればそれは良い事だ。今の段階で私が思うのは、日本中どこに生まれ、どういう階層に生まれどういう文化的背景をもった家に生まれた人も中学卒業までは誰もが損をしない仕組みと、中学までで何かの失敗・個人的に不利な選択(引きこもり・登校拒否・非行)をした生徒が、その事に気づき自ら人生をやり直したいと思った時にやり直せる状態・制度だけは保障しなければならないということだ。
個人が自身の力・想いで人生を誰に妨げられる事もなく切り開いて行く事が保障されそして、皆がいつからでもいろいろな事に挑戦でき社会もそれを認め、挑戦する人を称える社会が理想である。これは、一度失敗をしたり、不利な選択をした人を「彼らは努力が足りなかった」と切り捨てる社会ではない。いかに多くの人に、意欲を持たせつづける社会にするか、いかに多くの子どもに千差万別の「意欲」を与えられる教育を作っていくかが日本社会全体の大きな課題であると想う。
塾主松下幸之助は「千差万別・万差億別の教育を」といわれている。これは単に、大人が子どもにどういう教育を与えるかといった問題ではなく、今を生きる大人自身の問題でもあるのではないだろうか。私のいう「意欲」とは前向きな意欲であり、こうすればラクが出来るとか、ラクをするのが人生の勝者といった考えではない意欲、また、金儲けを至上の価値としない意欲である。この視点から教育改革をもう一回考えたい。
(参考文献 順不同)
『教育改革の幻想』刈谷剛彦・ちくま新書
『21世紀の学校はこうなる―"ゆとり教育"の本質はこれだ』寺脇研・新潮OH!文庫
『サヨナラ、学校化社会』上野千鶴子・太郎次郎社
『不平等社会日本』佐藤俊樹・中公新書
『「学び」から逃走する子どもたち』佐藤学・岩波ブックレット
『教育不平等―同和教育から問う「教育改革」』外川正明著・解放出版社
「ゆとり教育で日本衰亡か」『浮遊する日本』近藤大博・花伝社より
その他、総合雑誌論文・記事多数。
Thesis
Kenichi Yoshida
第22期
よしだ・けんいち
鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)