論考

Thesis

畏れのない日本人・問わない日本人

1.

 多くの人にあってインタビューをしたり、意見交換をさせてもらっていつも思う事がある。それはほとんど、全てに近い人が今の日本について閉塞感をもち、危機感をもっているという事だ。今の日本の状況を肯定している人はあまりいない。例えば、教育関係者も自治体の教育行政の関係者・責任者も今の教育には問題があると思っている。新聞記者などのジャーナリストも社会が何か変だ、政治が機能していないという事を思っている。多くの人がこのままではいけないと思っている。何とかせねばと思っている。

 にも関わらず、日本が良くなっている感じはしない。つい最近も、日本ハムや東京電力の不祥事など企業の不祥事のニュースが絶えない。何か新しく不祥事が報道されても「ああ、またか」という感じで驚きすらしなくなった。こういう事は今年になってはじまった事ではない。ここ数年ずっと続いている。少し前にアメリカの不正会計の事件を聞いた時、私は直感的にもうすぐ、日本での企業の不正も明らかになるだろうという気がした。別に何の根拠もない。今の日本の空気を、ニュースを聞いたり、電車に乗ったりバスに乗ったり、繁華街を歩いたりして感じる、何とも言えない「感じ」から日本でも企業の不祥事がもうすぐ出るだろうと思ったのだ。今回の不祥事は不正会計処理事件ではないが、企業の倫理観がおかしくなっている事によって起こったものには違いない。

 官僚ばかりが叩かれ、「官から民へ」というキャッチフレーズの下、民間に何でも任せれば、日本は元気が出るというような論調も一部にはある(勿論、規制緩和が経済を活性化させ、今のような閉塞状況を打破するという事はそうだろうとは思うが…)が、日々、耳にするニュースを聞く限り、民の側はしっかりしていて、官が腐っているというのはどうも違うようである。程度の差こそあるものの、日本社会はどこも腐っているといえば言い過ぎであろうか。

2.

 一方、政治に目をやると、先頃の臨時国会では今までなかったほどの多くの議員が辞職に追い込まれたり逮捕された。参議院議長を務めた大物議員、国民に人気の高かった前外相、その前外相のライバルだった北海道の有力代議士、その代議士を国会で追い詰めた弁舌鮮やかな市民派女性議員、前内閣を倒そうとして一次期、改革の火の手を挙げた、次期総理にもっとも近いと言われた代議士…みな、もう国会からいなくなった。一年前、いや、半年前に予想できなかった事が立て続けに国会で起こった。

 現在、行なわれている、民主党代表選挙でもそうだが、何故、政治家はもっと基本的な事、人間の在り様とかあるべき社会の姿といったものについて語らないのだろうか。日本ではそういう事を語ると説教くさい奴として排除されるからだろうか。マスコミ受けが良くないからだろうか。もし、常日頃からそういう原理的な問題について考えているのに、発言はしないというのであれば、マスコミにおもねっているからだとしか思えない。あるいは、この国で政治家をしている人はほとんど、狭義の経済問題にしか関心がないからかもしれない。とするならば、情けない事だ。せいぜい、皆、「依存から自立へ」とか「自己責任」とか「真の自由主義国家」とかいう事くらいしかいってない。官がやってきた事を民の仕事にして競争原理を導入する事などだ。自立・民営・競争…というのがどこでも言われているが、確かにこれは大事な事ではあろうが、今の日本を見て本質的に日本が再生するためのキーワードなのかは疑問だ。何も私は、依存・官主導・馴れ合いが良いと言っているのではない。もっと大事な事があるのではないかと思うのだ。

 民主党代表選挙の主たる争点が「民主党を政権政党にするためにはどうすれば良いか」という事だが、確かに組織内部の内向きの議論も必要だが、国民に語る事も大事ではないか。なぜ、政治家は政敵や他党を攻撃するが、国民に直に語らないのだろうか。なぜ、国民に媚びを売るのだろうか。本当に今の日本に危機感をもつ政治家ならば場合によっては私は国民を叱っても良いと思う。叱るのは言い過ぎならモノの考え方を変えようと根本的な事を提案するのだ。しかし、そういう見識をもった人はなかなかいないようだ。

3.

 本当は、こういう事は政治が考えるべき事ではないのかもしれない。世の中には風潮や雰囲気、時代の空気というものがあるので、政治がコントロールできない事の方が多いのはある意味では当然だ。しかし、私は塾主松下幸之助はまさにこういう問題こそ考えるべき事だ考えておられたと思うのだ。周知のように塾主松下幸之助は「政治を正さなければ日本は良くならない」と言われ、政経塾を設立された。この塾主のいう政治とはこの世のあらゆる事柄、森羅万象を含むものだと私は思う。狭義の政治には限界があるが、それを乗り越えた政治―塾主が生前言っておられた「本物の政治」―とは何かを考えなくてはならない。それには、制度論を超えて、どういう日本・人々がどういう風に考えて生きる国を目指すかというレベルでの話をしなくてはならない。

 制度設計が主たる仕事である、政治に限界があるのは仕方がない。しかし、だからと言って政治の責任が軽くなるわけではない。何故なら、政治は全体を考える部門としてはいつまでも存在し続けるからだ。ここが政治と行政の違う所だ。行政の問題ではない事でも政治の問題ではある。だから、松下幸之助氏は「国家百年の計」を考え、国を救うために政経塾を作られたのだ。狭義の政治専門家を育てたかったわけはないだろう。狭義の「政治」の話題と言えば政党の内部争いとか内閣支持率とか政治家の離合集散とか、政策対立に関する事だが、広義の政治という事を考えるならば、世の中の風潮や国民の空気、モノの考え方にも言及するようなものでなくてはならない。

4.

 今は個々の日本人がおかしくなっているのだろうか。確かにそうかもしれない。しかし、大半は、今でも、自分が所属している組織では日々真面目に生きている人と思う。実はこれが問題なのだ。ここがくせものなのだ。個々人がそれなりに真面目にやっても全体が悪くような「何か」が今の日本を取り巻いているように思えてならない。それはある部分は人為的なシステムの問題であろうし、ある部分はシステムを支えている人間の思考だろう。

 小さな例だが、会社の上司がいう事は間違っていると思う事があっても、逆らったり言う事を聞かなければ自分が不利になると思う人が多ければ、その組織で「真面目に」やればやるほど、反社会的な事に手を染めるという事にもなる。だから、組織に順応して真面目に生きている人が多いのに全体としておかしな事が次々に起こるというような事態が起こるのだ。皆が犯罪者予備軍でもあり犠牲者予備軍でもある。

 小中学校現場のいじめの原因も大人社会と似ている。直接いじめる生徒といじめられる生徒だけで「いじめ」が成り立つのではない。その他の圧倒的大多数の黙っている生徒によっていじめられる生徒は孤立するのだ。黙っている生徒を皆責めることは出来ない。いじめられている生徒をかばうと次は自分がいじめられるかもしれないと皆思っているからだ。日本人は早くも子ども時代からダブルスタンダード、本音と建前がこの世にあるという事を知る。何と歪んだ国だ。正義も徳もあったものではない。ここで自問し考えてしまう人間にとっては生きにくい国になっている。

 今の日本でこういう事を考えていれば、多くは教師から歓迎されず親からも歓迎されず、社会で身の置き場がなくなってしまうからだ。そういう問題には気が付かないほど歓迎され、気が付いても深く考えないほどこの国では歓迎されてきた。今も本質は変わっていない。そういう教育とそういう教育が生み出してきた人間によって構成されている社会が限界を露呈しているにも関わらずだ。

5.

 私は、今のような危機の時には本来的にもつ、日本の良さを活かし、日本の苦手とするところを克服しなければならないのだと思う。しかし、現状では本来の良さは否定され、克服すべきところは克服されていないのではないかというのが私の印象だ。その結果、剥き出しのアメリカニズムとグローバリゼーションに対抗すべき哲学を日本は打ち出せないでいる。グローバリゼーションとは私は世界の市場化、アメリカ化であると共に世界の無宗教化だとも思っているが、そういう視点から考えている日本人は少ない。

 私は「和の心」や基本的に争わないといった事は日本の美点だったと思っている。しかし、今の日本ではこういう価値観も捨て去られようとしている。「あなたの市場価値はいくらですか」といった類のコピーが都会の地下鉄の階段の広告にある。一人一人は分断され、個人は値段をつけられる社会である。そして、日本人自身もそれを望んでいるか当然の事としている。高度成長以来バブル崩壊まで緩やか過ぎたので今くらいの厳しさが普通なのだろうか。確かにそういう側面もあろうが、それでも、一人一人が値段を付けられるのが健全な社会ではではあるまい。

 日本人が今日まで哲学をあまり得意としてこなかったのは、日本人のもつ穏やかな国民性が哲学的思考を必要としてこなかったからかもしれない。しかし、今みたいに、それこそ、日本が日本だけでやっていけない、好むと好まざるとに関わらず外国(特にアメリカ)の価値が生活や働き方、人間観など様々なところに一方的に入り込んでくる世の中になってくると、日本人も立ち止まって本質的に考えなくてはならない。政治家も哲学をもち徹底して考えなくてはならない。学者・研究者にも価値中立的な言論を吐くのがインテリだという風潮を改め、徹底した価値論争が求められる。戦後の日本人が避けてきた部分だ。しかし、論理的に議論をする事や、本質的な問題を立ち止まって考える事がすなわち、情緒的なものや感覚的なものをすぐさま否定するものではない。

 私は、また、失われた「畏れ」の意識の回復をする事も大事な事だと思っている。怖れ、畏み(かしこみ)といったものを知る事は本来人間にとって非常に大事な事だ。今の日本人は人間以外に畏れるものがないと思っている人が大半なのではないだろうか。私自身もずっとそうだったし、今も実感としてなかなか人間を超えたものを畏怖するという事はあまりない。しかし、昔の日本人はずっと自然や神仏や天や何でも良いが、人間を超えた存在に対する畏怖の念というものをもってきた。前述した企業の不祥事も教育現場の荒廃も科学主義の暴走に歯止めをかけられないことも、つきつづめて考えれば人間が「畏れ」というものをもたなくなったからかもしれない。これは、世の中にはただ問うだけでは解決のつかない問題があるという事だ。今の日本人が人間以外に畏れをもつものがなくなっている事によって様々な問題が起こるのだ。考える事と共に「畏れ」を知る感性の復活なくしてもうどう仕様もないだろう。残念ながらこの辺の事まで気づいている人は少ない。

6.

 我が国は、この130年ほどに明治維新と戦後改革という二つの大きな社会変革を経験した。明治から現在までを連続していると見るか、敗戦で一度分断されたと見るかはいろいろな分野で議論があるところだが、私はある部分は分断されたがある部分は続いていると思う。日本人の精神で分断されたのは戦後「畏れ」を知る感覚がなくなった事だ。続いているのは、これは変わっていないと言った方が良いが本質的な事に問を発さない国民性だ。明治以来ずっとこのメンタリティーは続いているように思う。

 このまま問う事をしない教育をつづけ無色透明で善悪について考えない人間、生き方の原則のようなものは考えない事がいい事だというような人間ばかり育て、また、畏れをもたない国民ばかりになると前述したように、個々人はそれぞれ自分の属する組織では真面目にやっているのに、全体は悪くなる一方という状況が長く続くだろう。早くこの事に為政者も気づかなくてはならない。今、必要な事は物事をもっと深く「問う事」を始める事と人間を超えたものへ「畏れ」をもつ感覚を回復する事の両方だ。

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吉田健一の論考

Thesis

Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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