論考

Thesis

沖縄訪問を終えて

はじめに

 この度、塾生の有志と共に1週間、沖縄を訪問して来た。沖縄出身の23期生の上里塾生のコーディネートによる、「沖縄スタディーツアー」に参加をし、様々な場所を訪問し多くの方にお話しを伺った。今回は、このスタディーツアーについての報告書を月例レポートに変えたい。

 私は、今回、始めて沖縄を訪問した。これまでから、沖縄には非常に大きな関心をもっており、一度早く訪問をしたいと思っていた。在塾中に沖縄を訪問する事が出来、後に記すように様々な沖縄を代表するキーパーソンの方々とお会いし、意見交換が出来た事、また、多くの沖縄を代表する歴史的な場所を訪問し、沖縄(琉球)のもつ、様々な側面に触れる事が出来た事は、非常に意義深い事であったと思う。

 私は訪問にあたって、いくつかの問題意識をもって行った。一つはかつての、反米・反基地闘争的なものが、どの程度残っているのか、今の沖縄の多くの人の平均的な意識は米軍基地の問題をどう考えているのか(日米安全保障の側面からと、沖縄の雇用問題の側面から)という事であった。特に、95年の不幸な少女暴行事件によって、再び大きく動き始めた、沖縄が今はどういう状況にあるのかを感じたいというの気持ちもあった。

 もう一つは、先の戦争の事を含め、沖縄の人達が日本(本土・中央政府・大和)をどう考えているのかという事であった。どちらも、世代によっても、体験によっても、また、それぞれの人の置かれている立場によっても、様々な思いがあるであろうし、一括りにして理解出来る事ではないというのは初めから分っていたが、どういう考えが存在し、今後、沖縄はどこへ向かおうとしているのか、という事について、自分なりに少しでも考える事が出来ればと思った。

沖縄での訪問先・会見及び考えた事

 ここからは、日程に従って、訪問した人・場所について順に振返って行きたい。会見した人については、そこで伺ったお話しの重要な部分を紹介し、更に私が感じた事を述べて行きたい。先にお断りをしておくが、このレポートに述べる事はあくまでも、私個人の感じ方や意見であるという事を先にお断りしておく。

1月26日(月)

 沖縄訪問初日となったこの日は、午後、那覇空港について、昼食を食べた後、吉元政矩元沖縄県副知事(沖縄戦略フォーラム代表)を訪ねた。初めに、吉元氏から大田知事時代の沖縄県政についてのお話を伺った。吉元氏が副知事を務めておられた大田県政の時代、95年に所謂、少女暴行事件が起こった。この事件を機に沖縄を巡る問題が中央の政治レベルでも大きな問題となって来たのは比較的記憶に新しいところである。

 私が非常に関心をもったのは、大田県政時代に吉元氏が中心になってまとめられた、沖縄独立論についてであった。大田県政時に、「自治政府構想」というものがかなりの現実的なレベルで考えられて、まとめられていた事に驚いた。少女暴行事件が起こった村山内閣時代からその後の橋本内閣の頃の事を思い出すと、確かに「沖縄独立論」のような事が一部マスコミ等で言われているのを聞いた事はあったが、実際に、県庁内部で自治政府構想がかなりの現実的なレベルで進んでいた事には驚きをもった。

 この自治政府論は、完全な独立論ではなく、日本国憲法の枠内で、自治政府として独自に政治・行政を行っていくという、いわば、一国二制度的な構想であった。沖縄がもつ地政学的な利点を生かし、沖縄を日本の端っこではなく、アジア・太平洋地域の結び目としての発展させて行くための構想であった。現在、小泉改革の一環で特区構想が進んでおり、一部、道州制の議論等も出てきているが、この沖縄自治政府構想は、その先駆け的な構想だったのだなと感じた。この構想は実際には、太田氏が現知事の稲嶺氏に選挙で敗北した事によって、進まなくなったが、吉元氏はまだ、このプランを暖めておられるようであった。

 講義の後、私の質問に答えるかたちで、戦後、米軍の占領下におかれた時代から、沖縄の本土復帰運動を経て、佐藤内閣で沖縄が日本に復帰した頃のお話し、更に復帰後の沖縄の主だった出来事についてもご自身の人生と一緒に語って頂いた。吉元氏自身が沖縄県庁の職員として県庁に入られたのではなく、その前の琉球政府の時代から働いて来られた人で、まさに戦後の琉球・沖縄の歴史の生き字引のような方であった。

 夜は前県議の國場幸之助氏や島袋大豊見城市会議員など、これからの沖縄を背負うの若手の政治家の方々との懇親の席に参加をさせて頂いた。20期生の喜友名塾員とも久しぶりに会った。ここでも、國場氏をはじめ、お会いした方々から沖縄の歴史の話しをお聞きしたが、ここでは、若い世代の考え・感性に触れる事が出来た。これまでは、沖縄の政治的な立場は、米軍基地について、全面的に反対の立場をとるか、基地が存在する事によって、現実的に沖縄経済が成り立っている事を重視し現状を全面的に容認するという二つの相反する立場に分けられるようであったが、若い世代の感じ方は微妙に違うようであった。若い世代ではまず、日米安保反対・基地の全面撤廃という考えはないようであった。だからと言って、基地によって沖縄経済が成り立っているので、基地の存在は仕様がないという消極的な捉え方ではなく、現実を見つつ、基地から受ける恩恵を活かしつつも沖縄のもつ資産をどう生かして行くのかという視点をより重視しているようであった。

1月27日(火)

 この日は最初に嘉手納町の宮城篤実町長をお尋ねした。嘉手納町は米軍基地がその87%を占めている自治体である。日米安保・米軍基地問題が話題となる時、必ずと言って良いほど、出てくるのがこの嘉手納町にある米軍基地の問題である。もっとも大きな負担をしている自治体だけに町長が米軍基地について、更に日米安保についてどのような考えをもっておられるのかは非常に関心があった。宮城町長は、まず自身の立場・考えとして、自分は日米安保には反対ではない事、米国との同盟関係の重要性を認識しているという事、日米同盟の重要性と共に、沖縄に米軍基地が必要な事は認識しているという事を話された。しかし、同時に町長は、自分は、米軍基地が駐留する事を認める為にいるのではない、嘉手納町民の安全を守る事が自身の役目であるという事を話された。更に宮城町長は、普天間基地の一部返還の問題が持ちあがった時に、首相官邸に一人で乗り込んで行った時のお話しなどをしてくださった。

 嘉手納町役場の次には、米軍海兵隊基地キャンプバトラーを訪問した。ここでは、海兵隊が訪問者用に作ったPRビデオを見た後、外交政策部次長のStephen A. Town氏と質疑応答というかたちで議論をした。この最初に見た、PRビデオでは、最初に日米同盟の重要性から始まり、今のアジア・太平洋地域は非常に危険な状況になっており、不安な要素が多い事、東アジアの国々は経済力の発展と共に軍事力を増しているために、沖縄に米軍がいる事が絶対に必要である事が説明されていた。更に、沖縄において海兵隊が、県庁(警察と学校の教師を含む)、琉球銀行に次ぐ雇用先になっている事、その事によって地域の経済に貢献している事、更にボランティア活動によって、地域社会で兵士が愛されている事まで説明されていた。普通に見ていても、あまりに私には、海兵隊(アメリカ)に都合良く作られているように思えたので次のような質問をした。

 私がした質問は、このビデオを見ていると、いかにアメリカが日本に必要か、米軍海兵隊が沖縄から撤退すると、東アジアが不安定になるかを強調しているが、アメリカが、アジアに入ってくるから、東アジア諸国はむしろ楔を打ち込まれて(親米か反米がアジアの国の中で起こり、それぞれの国の世論が分断させられたりして)不安定になっていくのではないか、アメリカが撤退しても、東アジアが全体で親しくなって経済的にも軍事的にもまとまって行く方向に進んで行けば、米軍がこれほどまでに日本に駐留する必要もないし、海兵隊が沖縄にいる意味もそれほどなくなるのではないのか、という内容である。タウン氏は、極めて難しい問題でワシントンにも、米軍が日本にこれほどまでにいつまでも駐留しておく必要はないという考えはかなりあるという事を言っておられた。

 私自身も現在の世界を考えると、日米安保の重要性は充分認識をしているつもりである。即時、日米安保破棄などという考えが浅はかで現実を知らない、また考えようとしない人の非現実的な意見である事は論を待たない。実際に自衛隊の人員も訓練も全て、有事において米国と共に行動を起こす事を前提として計画され、行われているとも聞く。しかし、あるべき方向として、いつまでも今のようなアメリカと日本は「最大の同盟国」であって良いのかとは思う。特に、今のブッシュ政権がそうであるように、剥き出しの力こそ全てという政権までも「最大の同盟国」だから、何でもやる事は正しいとし、アメリカが決めた事には有無を言わずについて行くというの事が正しいのかと思う。日米関係が重要な事はいうまでもない。関係の持ち方が重要なのだ。イラク戦争勃発前から、一貫して私は、日本が最近とっているアメリカ一辺倒のあり方に疑問をもって来たが、この日にキャンプバトラーを訪問してもこの疑問は消えなかった。この後、車でタウン氏にも乗って頂いて、普天間基地の中を案内して頂いた。

1月28日(水)

 この日は、午前中、沖縄県庁に、稲嶺惠一沖縄県知事を表敬訪問した。この中で、知事は、我々塾生に対して、「沖縄問題という言葉がマスコミ等でよく使われるが、沖縄問題というものは存在しない。沖縄問題は日本問題である」という内容の事を言われた。この知事の言葉に私は全くその通りだと納得をした。我々はマスコミの影響を受けてか受けずにか、しばしば「沖縄問題」という言葉を使う。あたかも年金問題や教育問題のように「沖縄問題」という一つの政策領域があるかの如き使い方さえしてしまうが、本来「沖縄問題」という問題があるのではない。通常、「沖縄問題」という言い方がされる時、安全保障や日米同盟の話し、更に経済・雇用問題について議論されるが、安全保障をどうするか、アメリカとどう付合うか、その中で駐留米軍をどうするのかはいずれも、日本の問題であり、沖縄固有の問題ではない。

 この後、牧野浩隆副知事を訪問した。牧野副知事には戦後の沖縄経済のお話を伺った。牧野副知事は琉球銀行に30年おられ、副知事に就任された人でエコノミストである。まだ、県庁に入って6年目という事だった。戦後、日本を離れ、アメリカの統治下に入っていた時期から、復帰後、更にオイルショック以降、今日までの沖縄経済のたどって来た歴史について話してくださった。牧野氏は、これからの沖縄経済の発展を考える時、沖縄の持っている優位性を最大限に活かす事の重要性を説かれた。

 沖縄の優位性とは、観光・文化・自然・元気な若年層の事である。今までの沖縄は、第1次産業・第2次産業・第3次産業ともバランスをとり、本土の平均に合わせて格差を是正するというのが課題だという認識だったが、今後は、格差是正・平均に近づけるという発想ではなく、優位な部分を伸ばすという考えで行く事の方が重要であるという考えを強調された。具体的に県内の地場産業をどのように育成しているのかについても話してくださった。例えば、彼岸の菊の85%、もずくの97%は沖縄で生産されていると言う事だった。一方で地場産業の優位性をもっているもの、一方でIT産業を伸ばしていく事が課題であり力を入れているというお話であった。

 午後からは、海上自衛隊第五航空郡司令を訪問した。高橋和夫海将補を表敬訪問し、懇談した後、第五航空郡についての説明を受け、その後に実際に飛行機(P3C哨戒機)の見学なども行った。 私はこの日、午前中に行った、米軍基地も初めてであったが、日本の自衛隊基地を訪問するのも初めての経験であった。日頃、なかなか入れないところである。在塾中にこのような機会に恵まれた事はあり難い事であった。安全保障の問題を主たるテーマにしていない塾生であっても、広く、政治を考える人間にとって、ある程度は、日本の防衛についての知識をもち、自衛隊の基地の雰囲気なども実地で経験しておくのは非常に意義がある事だと思う。

 この後は、ひめゆり祈念資料館、そして平和の礎(いしじ)を訪問した。ひめゆり祈念資料館は沖縄を訪問するにあたって最も行ってみたいところの一つだった。沖縄戦の悲惨さについては、これまでから書物等で少しは知っていたが、祈念資料館に行って、改めて沖縄戦について思いを馳せた。様々な事を感じたが、私が当初思っていたのとは少し違った感じであった。韓国の独立記念館や中国の抗日戦争記念館などの、戦争を語り継ぐ記念館は多くあるが、日本との関連で言えばアジアの国々は皆、いかに日本が悪い事を行ったかを強調している。勿論、韓国や中国が日本を批判・攻撃するのは当然といえば当然ではある。日本人は先の大戦でアジアの国々の方に対して行った事について反省すべきところは反省し、事実から目をそむけては絶対にならないと思う。

 沖縄は戦争で、唯一、地上戦が行われたところであり、捨石にされ、日本でありながら、日本軍に痛めつけられた所である。戦争を体験した沖縄の人々の日本(本土)に対する感情は非常に複雑なものがあると聞いていた。従って、ひめゆり祈念資料館も戦前の日本軍に対して非常に批判的なトーンで展示がなされているかも知れないと思った。そして、それはそれで重要な事であり、しっかり受けとめなければならない事だという風に考えていた。しかし、私が思っていたのとは少し違っていた。少し、誤解をまねく表現になってしまうのかもしれないが、ひめゆり祈念資料館の展示を見て、私は靖国神社に近い感じをもった。

 ひめゆり祈念資料館の展示を見て、戦争そのものの悲惨さ、時代に翻弄され、死ななくてはならなかった人々の残念さ、無念さ、当時の人々の真剣な生き方が伝わって来た。戦争そのものはいかなる時も憎むべきものである。そして、戦争の原因を特定の指導者が作ったのであれば、その指導者や勢力・言論人は批判されるべきである。しかし、現実に極限状況の中で闘い、なくなった人々を悼む気持ちにはイデオロギーは関係ないはずだ。その意味で私はひめゆり祈念資料館は、戦争という状況の中で真剣に生き、そして死ななければならなかった人を悼む気持ちをもつという意味において私には靖国神社に近いものを感じた。

1月29日(木)

 この日は朝から、九州沖縄サミットが行われた、「万国津梁館」を訪問した後、名護市役所の企画部国際情報通信・金融特区推進室を訪問した。名護市は情報特区・金融特区に指定されている。本土及びアジア諸国から情報通信業者や金融関連業者を誘致し、沖縄経済の活性化と雇用拡大を目指している。市役所で説明を受けた後、実際に宜野座サーバーファーム、名護市マルチメディア館を訪問した。これまでの所、非常にこの特区はうまく機能しているように感じたが、問題も今後出てくるであろうと思った。沖縄県が特に力を入れているのが、コールセンターの誘致だが、コールセンターの仕事だけで、雇用問題が解決するのかという疑問と、今後、沖縄以外の地域が同じように特区になれば、沖縄の競争力は低下し沖縄だからこそという部分がなくなってしまうではないかという懸念をもった。情報・金融特区は確かに、未来に向けた画期的な取り組みではあろうが、沖縄経済を飛躍的に発展させるほどのものにはならないのではないかという感じを受けた。

 夜は、沖縄県庁で、上原良幸企画開発部科学・学術振興室長を訪問した。上原氏は、世界的な科学者を招聘して作る予定の沖縄大学院大学構想の責任者である。上原氏は、沖縄の「チャンプルー文化」(チャンプルーとは、いろいろなものが混ざり合うという意味。チャンポンの語源)の話しをされ、沖縄が琉球時代から文化の融合・結節点として独自に歩んで来た歴史に振れ、「万国津梁」の考えを活かしていく事こそが今後の沖縄に必要な事だという話しをされた。初日にお会いした、吉元元副知事のお話にも通じるものであった。「万国津梁」とは、万国(世界)を繋ぐ架け橋という事である。古来、沖縄は、地の利を活かし、中国・朝鮮半島・台湾・日本など周りの国々と貿易を行い、多くの地域の架け橋として、いろいろな文化を繋ぐ事によって生きてきた。先にも触れたが、沖縄を日本の端と捉えるか、アジア・太平洋地域の中心と捉えるかではまったく違ってくると改めて思った。

1月30日(金)

 最終日のこの日は、沖縄の有名な泡盛メーカーである、瑞泉酒造の工場見学を行い、その後、首里城へ行った。瑞泉酒造では泡盛の古酒(クース)についての詳しい説明を受けた。この日は初めて、観光気分であった。最後に沖縄(琉球)のシンボルである首里城を訪問する事が出来たのは良かった。ここでは、琉球王朝から琉球・沖縄の歴史に触れた。建物の形や色使いなど首里城は非常に美しいものだった。わずか、5日間の沖縄滞在であったが、非常に充実したスタディーツアーになったと思う。

おわりに

 今回、沖縄で考えた事は、文化とは何かという事と、政治・行政に文化を活かしていくという事の重要さと素晴らしさについてである。これは言いかえるなら、地域中心に政治・行政を行っていく事の重要性である。と同時にもう一つは、日本国家として考えなければならない問題も厳然と存在するという事も今回強く感じた事である。周知のように、沖縄の近現代史は様々な面で悲惨な出来事の連続であった。古くは薩摩藩による侵攻を受け、そして、明治には琉球処分によって、無理やり「沖縄県」が設置された。戦争では日本の捨石となり、唯一の地上戦の舞台となり多くの犠牲者を出した。戦後はアメリカの統治下におかれ、更に復帰後は今までも続く、基地問題を抱えて来た。これは日本の一部分になった事によるもので、本来、沖縄からすると迷惑で不本意な事であったかも知れない。そして、経済の問題は一貫して深刻であった。

 にも関わらず、沖縄は何となく楽しくて明るい感じがする。不謹慎かも知れないが、敢えて書くと、失業率など数字では深刻な値が出ている事でも、意識においてはそれほど深刻な感じというのはない気がした。どう言えば良いのだろうか。とても明るく、どこに行っても楽しい感じがするのである。沖縄の魅力は、気候・風土とそれによって影響を受けた人々の明るさ、前向きさであろうし、まさにそういうものが文化なのだと思った。

 戦後の復興の中で、日本は、中央集権体制を進め、全国一律の街創りを推奨し、地域独自のものの価値をどちらかと言うと軽視してきた。そして、戦後の経済成長も終わり、中央からの補助金を地方にばらまき、公共事業を地方に引っ張るという形の開発型の成長の限界がみえて来たここ10年、地方分権・更には地方主権・地域主権が声高に叫ばれている。地方分権・地方主権について考える時、重要なのは、短に中央官庁のもっていた権限が地方の県庁や市役所におりて来る事なのではない。中央地方の役所間の権限委譲も重要ではあるが、根本的に大事なのは、地域そのものがもつ潜在的な力を引き出し、文化を活かした街づくりを行い、雇用を生み、何よりもそこに住む人々の地域への誇りと愛情を取り戻す事なのである。

 世界でグローバリゼーションがあたかも必然の事であるように起こっている反面、世界ではそれぞれの国の文化を見直す動きも出てきている。日本国内でも同じ事が起こっているのではないだろうか。東京一極集中志向をグローバリゼーション的な思考とするなら、地域の復興を念頭に入れた地方分権・主権を考える動きはまさに、その国の文化を見直すという事とつながる。私は京都の出身であり、よく、京都の文化について考える。また、日本文化について考え、文明の衝突が目に見える形で起こり始めている現在の世界情勢の中で、日本はどのように日本の文化のもつ独自性を出し、その文化の根底にある思想・心を世界に発信して行けるだろうかと考えている。日本国内においても、同じ事が言えるのだと思う。今後の分権社会は地域の強み(単なる人口規模や経済力だけではない)を活かす事によって日本全体を活性化して行かなくてはならないが、今回の沖縄訪問で、沖縄にこそ、その一つのモデルがあるのではないかと思った。これは、いうまでもないが、どこの地域も「万国津梁」の精神でと言うことではない。それぞれの良さを活かしてこそ、全体が良くなるという事である。

 日本という国として考えなくてはならない事の最も大きな問題はいうまでもなく、安全保障の問題だ。稲嶺知事が言われたように、「沖縄問題は日本問題である」という事は、本当は一人一人の日本人が真剣に考えなければならない問題である。沖縄に行くと、日本の一部分としての沖縄という視点と、沖縄以外の日本と比較しての独自の文化をもつ沖縄という視点から、様々な面から日本の問題を考える事が出来た。今回得た、問題意識をさらに深め、また沖縄を訪問したいと思う。

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吉田健一の論考

Thesis

Kenichi Yoshida

吉田健一

第22期

吉田 健一

よしだ・けんいち

鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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