Thesis
今回は初めての月例報告ということもあり、私のもっている根本的な問題意識についてはじめに書き、その後、私が今後の日本の復活の為に非常に大事だと考えている、道徳教育について書きたいと思う。
現在の日本の国民の精神は乱れる一方のように思える。今の日本人の精神は政治家・官僚などの社会の「上」の部分も小学生などの低年齢の「下」の部分も乱れているように思えてならない。責任階級(社会の上層部)の乱れはいうに及ばず、下は小中学生から乱れている。小中学校の「学級崩壊」は今や「学校崩壊」になり、大学でも授業の崩壊は進んでいると聞く。昨今、学校完全週5日制導入を巡り「学力低下」がマスコミを騒がせているが私はこの国で「人間力低下」がじわじわと起こっており、その一部分が「学力低下」という出方をしているに過ぎないと思う。「学力低下」は問題のほんの一部に過ぎないのだ。「感性低下」「倫理観低下」「共感能力低下」等いろいろな言い方が出来ると思うが、総合的に「人間力低下」が猛烈な勢いで子ども達に起きているのだ。そして、その原因は大人にあると思う。人間そのものをどう育てるか、自分たち自身がどう生き、どういう国を作るかを考え始めることなくして「学力低下」だけを問題にして、学習時間を増やせば「優秀な国民」を育てられるというような発想では何も良くならないと思う。こういう事すら今の日本人の多くは分っていないのではないだろうか。
このような総合的な「人間力低下」を生んだ原因の一端は戦後の価値観と戦後教育にあると思う。戦後、伝統精神や宗教は表向き全く日本社会から消えた。私は個人的にこれはGHQが日本人の精神を骨抜きにするために行った政策だと考えているが、戦前の日本の反省から致し方なかった面もある。日本人自身が古いものからの解放を望んだのだ。戦前、神道は国家神道に一本化され、仏教教団の多くも戦争協力の言説を吐いて国民をあおり、儒教の思想を一部基底とした「教育勅語」が教育現場で押し付けられ人工的な「天皇教」が国民全体に国家権力によって広められた。その反省から、社会が宗教や伝統的思想というものを忌避したり、まるでこの世にないもののように扱った事も分らぬではない。しかし、これは逆に大きな問題を引き起こした。精神が空白の無数の日本人を生んだのだ。哲学者の梅原猛氏も、戦後の公教育の現場から宗教と哲学を排除した事が今の日本の問題の全ての原因だと言っておられる。
戦後の日本社会では宗教・歴史が軽視されてきた。宗教は教育の場ではタブー視され、歴史はただの暗記物になった。活き活きと人物の生き方を学んだり、伝記を読んだり研究し、人と社会はどうあるべきかなどは全く考えられなくなった。その結果「歴史が得意」などという人も表層的に出来事を暗記しているだけで、深い部分で「日本とは何か」などとは考えなくなった。歴史は確かにイデオロギーを伴う。宗教は思想・世界観そのものなので、そもそも教える事は難しい。しかし、これらの人間の最も基本的な営みに関する事を全く無視してより良い社会ができるわけはない。
中曽根元首相は「政治家は歴史と宗教の両方をしっかりと勉強してこそ、自分自身の見識が出来あがる」と言っておられたが、これには私も同感である。中曽根元首相を政治家としてどうみるかというところは議論のあるところだが、政治家は国の歴史と宗教(日本なら神・仏・儒の三教)をよく知っていないといけないと思う。しかし、一体、今の日本の為政者にどのくらい、歴史・宗教の大切さを意識している人がいるだろうか。一般国民の間にも。戦後、「保守」も「革新」も全てが経済的価値観だけで走ってきた結果、バブル経済崩壊までは日本人は皆が一応同じ価値、より豊かな生活という一点だけで生きてきた。が、その後、どうして良いか分らなくなった。今頃になって「物の豊かさから心の豊かさへ」などとマスコミも言いはじめているが、実は「全ては心」だという事に気づいていないから、安易にこういう発想がまかり通るのだと思う。
戦後の日本人はこれまでの宗教・日本の伝統精神を捨てた結果、言わば「科学教」「経済教」になってしまった。科学技術の進歩への盲目的信頼と「カネ儲け」へのあくなき信仰。その結果、日本人はバブル崩壊後、生の目的さえ分らなくなった。今の中堅層は皆、戦後生まれだからだ。これまでの日本人が伝えられてきたものを拒否してきた世代が責任者世代になってしまったのだ。そして、彼らの子ども達の多くは初めから何もない。そして、その結果、今でも基本的に日本を突き動かしているのは「科学教」と「経済教」の物質絶対主義に基づく思想である。政治家も国民も一向に幸せでないのにカネの事しか語れないのは戦後の我が国が「経済教」に支配されて久しく、それしか価値基準を持ち得なかったからである。そして、このような日本社会を本質的に直感的に拒否する若者も登場し、彼らは「引きこもり」という問題を引き起こしている。以前、政経塾でお話しを伺った作家の曽野綾子氏は「自分は今の大人を諦めている」と言っておられた。曽野氏は中国の文化大革命で失われた世代と同じくらいだと今の日本の大人について厳しいことを言っておられた。私は所謂、戦後民主主義の世代より若い世代だが残念ながら、今の30代40代50代(戦後生まれの世代)のある部分には本当に諦めの気持ちを持たざるを得ない。
では、この状況を良くするのに、もう手の打ちようがないのだろうか。私は方法があるとするなら、これは「教育」という人間のソフト面に影響を及ぼす方法でしか解決は出来ないと考えている。これまでの教育でここまで悪くなったのだから、これからの教育で直すしかない。従ってこれは大変長い時間がかかる問題だ。戦後60年弱の日本が失ったものの大きさを正面から見据えないことには私はこの国民の危機は乗り越えられないと思っている。
教育の中でも特に大切なのは初等・中等教育(小中高)における「道徳教育」であると私は考えている。文部科学省も「教育改革国民会議」の報告を受けて、道徳教育に力を入れ始めた。この4月から生徒一人一人が自分の内面を振り返る時に使う『心のノート』が全小中学生に配布されたが、これなどはとても良い試みの第一歩だと思う。しかし、道徳教育というとまだ、何となく一般に胡散臭く思う人がいるのも事実であろう。この原因の一つは先に触れたように、戦前の「修身」が国家主義と結びつき、国家や公権力が子ども(生徒)への道徳・公徳心・価値教育を行った事へのある種の反発から来たものだと思う。
実際、多くの国々ではそれぞれ、多様な価値教育がなされている。しかし、日本だけは戦後あまりなされなくなった。これは戦前の修身教育が国家主義に行った事に対する反省から「羹にこりて膾をふく」結果になっていたからだろう。他律的な国家からの道徳への反発が、自律的な「人はどう生きるべきか」という問いを発することをも殺したのだ。しかし、国民精神の荒廃が叫ばれて久しい今日、我が国も、戦後民主主義の負の側面を反省して、精神に関する教育をし始めなければ大変な事態は今後更に深まっていくと思わざるを得ない。
現状では道徳教育はカテゴリーが分けられず年齢(学年)ごとに内容が変わっていくだけだが、私は道徳教育を大きく以下の4つに分けて考えている。今、私が日本で道徳教育に力を入れなくてはならないと思うのは問題意識が大きく2つあるからだ。1つは先に述べてきたように日本人の精神性全体が低下している事、もう1つは、その延長にあると思われるが責任意識をもった人々が社会に育たなくなってきていることだ。この2つの問題意識から私は今後の日本を立て直すにあたって「道徳教育段階論」を以下に提案したい。これは、先日、文部科学省の道徳科の教科調査官の方とお会いして、道徳教育についてのインタビューと意見交換をさせて頂いた時に提案をしておいた内容である。
第一のレベルの「道徳教育」は考えない道徳である。これは理屈以前のことを教える訳である。主に小学校低学年から中学年まで行う。規範意識をどう教えるかというのが一番難しいところだが、「理屈以前の事」をまず教えなくてはならない。今はこの段階でもう子どもが躾られていない事による問題が少年犯罪などが起こるたびに繰り返し議論になっている。戦後は全てが「理屈」になったために理屈以前のことが押さえられてこなかったのではないだろうか。本来これは家庭の役割であったが今や家庭は機能を果たしていないところが多い。家庭・地域・学校がもう一度、人間としての最低線を子どもに教育するという明確な意思を持たねばなるまい。
次の段階として「考える道徳」が来る。これは方法としては主にディベートなどを行い、世の中にはいろいろな価値がある事を考えさせるものである。この中には広義の「政治教育」をも含み、「良き市民とは何か」などを考えさせることをも私は想定している。今までこういう教育がされてこなかった事によって、社会と個人(自分)の問題について考えた事のない人間を大量に生んできたのだと思う。直接、道徳教育とは異なるかも知れないが「良き市民とは?」とこのある時期に考え始めることは大事な事だと思う。小学校高学年から中学生ではこのレベルである。特に中学生の時に自分を語り相手(他人)の語ることを聞くという事は重要なことである。これは教師の力量が問われる部分だが何としてもやって行かなくてはならないと思う。実際、これは志が高くすぐれた教師がその気になれば今のカリキュラムで充分出来る事なのだ。
同じ段階で「学ぶ道徳」も必要であると思う。この段階は古今東西の思想・哲学を学ぶ。中学・高校がこのレベルである。この「学ぶ道徳」と「考える道徳」はある程度交互に補完しながら行う事を想定している。そうすることで、古今東西の思想・哲学を通して実際の学校・社会の状況を見ることができる子どもを育てることができよう。そして、私は宗教思想も教えて良いと思っている。勿論、一宗・一派に偏った教育は為されるべきではないと思うが、私は宗教を教育現場でタブー視する事自体が戦後日本のもっとも大きな誤りだったと思う。どういう考え・世界観があるのかをまずは「知識」として教える(紹介する)だけでも取りあえずは大きな意味があると思う。この事については文化庁長官に就任された臨床心理学者の河合隼雄氏も提案しておられた。今の高校の社会科の「倫理・政経」の「倫理」みたいなものを教科として選択式で行うのではなく全員が学ぶイメージである。この段階で学校では「知識」として教えるのだが、それでも、この段階で霊性の高い生徒は目覚めてくるであろう。
これまでの段階が国民の精神全体に関るものとすると、この「責任感教育」は国民の精神の問題というより、社会と市民(公と私)の問題に関ることである。このレベルの「責任感教育」は中学くらいから始め、高校くらいで主に行うのが良いと思う。一部論者がいう「エリート教育」というのと重なる部分もあるが私はこの言葉は使わない。何故なら日本で「エリート教育」というと責任階級としての自負心を持つための教育とはまったく似て非なるものが行われてきたからだ。だから、敢えて私は「責任感教育」と言う。この「責任感教育」に来る前にすでに「考えない道徳」「考える道徳」「学ぶ道徳」(公民教育・宗教思想の勉強)も済んでいるので、ここまでの段階で社会全体や公共や自分の周りの人々や指導者や思想家に関心を持たぬものと持つものに分れていると思われる。ここまで一連の「道徳教育」に向いていた生徒は責任感教育を受ける素地のある人間と見ていいと思う。
私のいう「責任感教育」は日本で古くから武士も農民も商人もそれぞれの階級での指導者が『論語』などの儒学を学んで来たもののイメージである。社会の上層部をどこかで育てることを主張しているのではない。韓国の儒教は両班階級が他の階級を支配するための「支配の学」としての儒教あったが、我が日本では武士のみならず農民も町人も学問をしてきた。我が国の江戸時代の幕府公認の儒学「朱子学」もある意味では支配の学だったと思うが、日本には支配者の「朱子学」以外の儒学「陽明学」を研究した人もあったので必ずしも儒学は支配者だけのものにならなかったのが良かったと思う。様々な階層が学問をしたが、その中から商人では「石門心学」の石田梅岩などが生まれてきた。「責任感教育」を受けることが出来る権利は全ての人にある。何かの条件で「責任感教育」が受けられないというものではない。
その意味で私がいう「責任感教育」は所謂狭義の「帝王学」ではない。あるいは万人が一通りは「帝王学」を教育のなかで学べる条件だけは与えておくというイメージでもかまわない。大事なのはどんな条件でもきらないということだ。だれでも帝王学を受けるのでは「帝王」ではないではないかという事になるが、この成熟した市民社会である条件を最初に設けるのは実際上不可能だと思うし、私はまた反対である。それより、人間には自然にそれぞれ資質があるから、「責任感教育」を受けてもどれだけ自分のことと思えるかはわからない。この「責任感教育」を受けた日本人(子ども)の中から各界各層で自分の使命に覚醒した責任階級が生まれて行くのが理想だと私は考えている。選ぶほうも選ばれるほうも自然と倫理的・道徳的にすぐれた人になっていくというのが理想である。
政治家や官僚や財界人のみがこの社会の責任階級ではない。だから、特殊なエリート教育を受けた人間がこの日本を指導して行くべきだという考えを私はとらない。このような考え方は国民全体に教育を受ける人が少なかった時代には有効であったと思うが、今のような社会では歪んだエリート主義を生んでしまいかねないからだ。しかし、一方、今の「市民社会」の行く末は「総無責任社会」に向かっていると私は思っているので、封建社会のくびきから一人一人の人間を開放した「市民社会」の価値は大事ではあるが、同時に「市民社会」の中に「責任階級」も育てる教育を社会に埋め込んでおかなくてはならないと思う。大衆社会・市民社会の中で如何にして自然に公的責任をもった人を「生み出す」かが問題なのだと私は考えている。その為に一応全ての人間(生徒)を対象とした「責任感教育」(特に古典学習を中心としたリベラルアーツ)を強く推進すべきだと考える。
義務教育(公教育)から私のいうように段階を踏んだかたちでの道徳教育を施し、その最も上のレベルの「責任感教育」の結果、責任階級に相応しい人格と見識を身につけたと教師や周囲から認められる人間が自然といろいろな分野で指導者になってきたら日本は自然に良くなると思う。私の提言する段階を踏んだ道徳教育が徐々に実施されると人を選ぶ側も「責任階級」としての目をもった人が増えてくるからだ。こんなことは本当は人為的にできることではないのかも知れない。しかし、社会のシステムのどこかにこういうものを入れておくと、長い時間が経つと教師の質自体も変わってくるであろう。教師になる人間も今の教師の質が変わらない限り良くならないと思う。この辺りはまた文部科学省に考えを聞きたいし、提言する事を考えている。これは急に結果は出まいが、50年くらい先をみて始めるべきだと私は思っている。今後はより具体的な方法を考えて文部科学省や自治体の教育委員会の方々とも意見交換をしていきたい。
『政治と哲学』中曽根康弘・梅原猛著 PHP
『梅原猛の授業 仏教』梅原猛著 朝日新聞社
『心のノート』文部科学省編
「教育改革国民会議」中間報告
「日本的経営者の精神としての儒学の復活」―エリート教育による精神の継承 吉田和男――『季刊 松下幸之助研究』2002年 冬季号 PHP 他
Thesis
Kenichi Yoshida
第22期
よしだ・けんいち
鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)