論考

Thesis

日本を取り戻し、日本を護る

  • はじめに
  • 政治家が哲学・理念を語れない理由
  • まず正すべきこと
  • どう仕様もない現在の日本社会
  • 若者に未来はあるのか
  • なぜ、日本が忘れられているのか
  • 日本の国柄にあった政治を
  • 東洋的思考の重要性
  • おわりに
  • 1.はじめに

     今回の月例報告は入塾以来これまで考えて来た事、研修の中で考えて来た事を振りかえって、私の現在の日本に対する認識及び私が今後、日本が向うべきであると思う方向について書いておきたい。何故こういう事を書くのかというと、3年目の夏を期に入塾時点から私の考えが深まって来た事を確認しておきたいからである。したがって今回の月例は個別のテーマについて書くものではない。また、かなり抽象的な事から極めて具体的に今の日本の状況を見ていて問題だと思う事に至るまで広く書いておきたい。

    2.政治家が哲学・理念を語れない理由

     以前の月例報告(2002年6月度)で私は『政治家は哲学と理念・理想を語れ』というタイトルで、今こそあらゆる政治家は自分の言葉であるべき世の中についての理想を語るべきであるという事を書いた事がある。今も基本的にはこの考えをもってはいるが、あの頃からしばらく時間がたち私の認識は変わってきた。分かって来たことは、それは多くの政治家にとっては無理だという事である。理由は大きく分けて二つある。

     端的にいうとあるべき日本の世の中像に対して理想というほどのものをもっていない人が多いからというのが一つ、もう一つはあまりに世の中が固まって全てがシステムの中で動いており、全ての事に利権が絡まっており、社会そのものも煮詰まっているので、多少おかしいと思う事があっても、その事をどう仕様も出来ないと多くの人が思うのと同様、政治家にも何かを具体的に動かす力などというものは殆どないからではないかと思う。国会議員ですら大半はそうであろう。私は以前の月例報告で地方議員を含め、いまこそ政治家は自らの哲学・理念と理想を語れという旨の事を書いたが、地方議員が選挙などで日本の世の中のありようについての理想や自分の理念と説くなど出来るわけがないと思うように至った。それほど、何を言っても大概の事は大きな部分では動かない世の中になっているのである。

    3.まず正すべきこと

     私は今後の日本を再生させるには日本を「正し」「取り戻し」「護る」という三つのプロセスを踏んで行かなくてはならないと思う。「正す」中には、「取り戻す」部分と重なってくる部分もあるし、当然、「取り戻した」事はその時点で「護って」も行かなくてはならないと思う。正せるところから正して行かなくてはならないが、まずは問題がどこにあるのか考えなくてはならない。

     では、今の日本の問題とはなんだろうか。一番の問題は私は社会の崩壊だと思う。もう少し細かく見れば中間団体の崩壊である。日本社会で今、急激に起こっている事の一つで深刻な事は中間団体の崩壊ではないかと思う。国家と個人の間にあるものが次々に崩壊してしまった。地域社会・会社・業界団体・学校など様々な個人が所属し国家と個人の間にあったものが崩壊したのである。これらのものは個人個人がそれぞれ所属し、国家との間に位置するものだ、これらのものの崩壊によって、人々は不安で仕方がなくなった。人々は誰かに支配される事は嫌うが完全にバラバラになるとまた生きられないものである。したがって老いも若きも「つながり」を求めてやまない。

     私は「日本を取り戻す」という事がとても大事だと思う。真っ当な社会とは何かという事を考える事が重要なのだ。その為には、どういう社会が良いのか、人々の働き方はどうあるのが良いのか、いかなる中間団体が必要か、人々はそれぞれ所属する団体・組織のなかでいかに処遇され、どのように自らの人生を豊にする為に生きていきたいと思っているのかをお互いが明らかにしなければならない。今までの既存の中間団体(業界団体などの利権を伴うものや大組織)を守ったり、壊れようとしているものに固執する事が大事なのではない。今の日本の現状を見ていると壊してしまった方が良いと思われるものは非常に多い。硬直化したものを壊した後に、国家と個人(市民・国民)の関係が今後どうあるのが良いのかを各々が考えて、そこからあるべき社会が導き出されなくてはならないのだ。

     今の日本社会と統治機構に歪みがある事は確かである。まずはその歪みを「正す」という事が必要である。取り戻すにはまずは歪みを正さなければ始まらないからである。正さなければならない歪みの中には勿論、今、政治の議論の中で日夜問題になっている、特殊法人改革など、税金を無駄に使う組織にメスを入れる事なども大事であろう。エリート官僚の天下りなど特権階級の利権の剥奪も必要な部分はあろう。これら現在すでに論じられている改革を行わなければならない事は論を待たない。しかし、その歪みを制度的に正すだけではまだ不完全である。また、統治機構や制度の改革だけでは、社会は真っ当にはならないと思う。

     私のいう「真っ当」とは別に秩序が正しくあるという事ではない。秩序があまりに固まると世の中は窮屈で息苦しくなる。まさに戦後の官僚統制の日本などは秩序がありすぎた面があろう。秩序がどの程度あり適度にフレキシブルで社会に流動性があるのが良いのかは常に議論して中庸を探って行かなくてはならない。夢がいつも持てて、ある程度のバクチ的要素もありつつ、そこに生きる人間の根底にはある程度の道徳が備わって人々は人々を尊重するというのが私のいう真っ当な社会である。そして、私はそういう今後の日本を考える際には全く一からというのではなく、これまでの日本の文化や人々の生きよう、歴史などを振り返って何が大事なのか、何が世の中の軸になるべきで人々はどう生きるのが良いのかと言った議論をしなければならないと思う。これらの議論抜きに、新しい社会像をあてずっぽうに予想してそのライフスタイルに合わせるというような事では益々社会そのものが漂流し、漂流する社会の中の個人もまた漂流するという事が続くと思う。

     このような問題を考える前に、今の日本の病理現象を見ておきたい。私は今の日本をもうどう仕様もない状況になって来ていると日々認識しているのだが、どういう部分を私の感性がどう仕様もないと感じるのか書いておく。ここに書く事は直接、政治の問題として語られる事とは違った事である。何故、こういう事を書くかというとまさに、政治がなかなか話題に出来ない部分で社会が真っ当でなくなっているという問題意識が私にあるからである。

    4.どう仕様もない現在の日本社会

     ここに書く事は非常に多く面から問題があり、私は正直、ためらいつつ書く部分もあるのだが、今の私には何の利権もないし、思い切って書いておく。ここに書く事は、私が体制の中で生きる政治家であれば書けない事ばかりであるが今はまだ書く事による影響はないと思うの正直な考えを書きたい。私は日々日本社会の病理現象について考えているが、ここでは思いつくままに三つの事を問題としたい。

     例えば、消費者金融のコマーシャルの多さや街での看板の多さは一体どうであろうか。コマーシャルはまるで消費者金融でお金を借りるのが素晴らしい事のように宣伝している。借りる必要がないひとまで借りろといわんばかりである。これが真っ当な世の中なのかと思う。都会の駅前には必ず消費者金融がある。繁華街を歩いていて消費者金融会社のティッシュを配っているのを見ない日はない。私も受け取りはするが一体何故ここまで消費者金融がこの日本社会で盛んなのかと思う。ここに今の日本人の欲望の現実が現れている。個人の欲望だけが問題なのではない。歪んだ経済の仕組みが凝縮されているのだ。

     しかし、消費者金融の問題を問題として取り上げる議員はいない。せいぜいが、あまりにも酷い「ヤミ金融」事件が表面化してやっと泥縄式に対策を考えるという程度しか政治も動けないのである。「ヤミ金融」とて最近まで全くの野放しであった。消費者金融を「ヤミ金融」と同列に論じる事には勿論批判もあろうが、今の日本社会の経済の仕組みと人々の欲望が狂っている事は確かだ。しかし、こういう事はそう問題にはならない。おかしいと思っている人はいても政治の問題にはならない。いくら個人で破産する人が出てもそれは個人が悪いという事になるだけだ。理由は様々あろう。今の現職の政治家がそもそも大きな力に支配されている事も理由の一つではないだろうか。

     また、性風俗の乱れも目にあまるものがある。先頃、渋谷で少女監禁事件があったがこれも我が国の現在の性風俗の乱れと無関係ではあるまい。援助交際という言葉が少し前に話題になったが、今や女子高性の売春は全く不思議ではなくなった。全く「普通」の女子高性が普通に何のためらいもなく日常的に売春をしているのである。今や中学生も小学校の高学年の児童でさえも売春を始めている。こんな「先進国」があるであろうか。有史以来、売春は貧しい国や貧しい家庭出身の女性の問題であった。今や本当の意味での経済的な理由で(食べていくためにという、甚だ素朴な意味で)売春をしている高校生などいるまい。

     多くの売春している女子高生はよく言われるようにブランドものを買う為の金欲しさであろう。女子高生がルイ・ヴィトン等のブランドものをもつという事で何かが得られると皆が一様に思う世の中自体が実は異常であるがここではその事には言及するまい。勿論、売る女子高生だけが悪いのではない。「買春」する成人男性も悪いのである。援助交際が社会の耳目を集め始めたころ、作家や評論家などの文筆家、学者などが様々な意見を述べたが今やそう話題にもならなくなった。また、メールの出来る携帯電話が若年層に広まるにつれて、所謂「出会い系サイト」を巡る事件も後を断たない。

     私は別に風俗店の存在や風俗に通う男性を否定するものではない。また、風俗雑誌がない世の中、お上(警察当局)によって性的な表現が厳しく取り締まれている社会は不健全だと思う。私は決して、社会から性的なものが隠蔽されるのが道徳的良い世の中だというような考えをもっている訳ではない。江戸時代にも春画はあったし、性的なるものが社会にあるのは当然でその事自体に問題があるのではない。しかし、今の日本の乱れぶりはやや度を越しているのではあるまいか。電車の中の週刊誌の釣り広告をみても何かが病んでいるとしか思えないのは私だけだろうか。表現の自由などというものばかり尊重しているから留まる所を知らないのである。言論弾圧にならない範囲で少なくとも電車の釣り広告やコンビニで売る雑誌やビデオなどもっと強い規制があって良いと私は思っている。悪い情報が悪い社会の雰囲気を醸成しているのである。

     また、青少年による凶悪犯罪が起こるたびに問題となるのが残虐な映画やテレビゲームの問題である。以前、深作監督の『バトルロワイヤル』という映画が物議をかもした。今ではその続編も出来ているが、その時、私は中学校で教えていて、生徒たちがどういう考えをもっているのか聞いた事があった。大多数の子どもが案外まともな考えをもっており、その時は安心をしたがそれでも私は全ての中学生がある程度まともな感覚をもった上で見るとは到底思えず、やはり残虐な映画につての規制はもっと強くするべきではないかという考えをもった。

     いくら残虐な映画を作って子どもに見せてもおそらく圧倒的大多数の児童・生徒はすぐに凶悪犯罪を起こすという事はないだろう。しかし、これは数値ではかったり統計をとったりしようがないが、何某かの悪い影響を与える事は確かだと思う。一方的に受動的に情報を受け取る事に慣れている子どもも多くいるからだ。多くの子どもの脳を実験する訳にはいかないし、そんな事をするのは人権上も問題があるが、常識的に考えて残虐な映像を多くみれば、脳が影響を受け、心に影響を及ぼす事は想像に難くない。実際にナイフで人を殺したりという凶悪犯罪に及ぶ子どもがいくら極少数派であったとしても犯罪少年に対して心情的に理解を示す子どもが多く出てきて大人が驚く事は良くある事だ。何かが歪んでいるとしかいいようがないのだ。

     もう一つはテレビゲームである。個人的には私はテレビゲームというものは世の中に必要ないものとさえ思っている。さすがに一概に全てのテレビゲームを全否定するような極端な事はしないが、本来なくても良いものであったと思う。それが今は「なくても良いもの」から社会や子どもにとって「有害なもの」になって来ている。政府がテレビゲームを禁止するなど考えようもないことであるが、本当はこれくらい検討されても良いのである。これまた残虐な少年犯罪が起こる度にテレビゲームの影響が議論される。

     以前、行った「兵庫県立但馬やまびこの郷」という不登校児童が1週間来る施設では副校長の考えからテレビゲームを置いてなかったがこれは本当に素晴らしい見識であると思った。今はテレビゲームを置かないという事自体が難しいほどどの子どももテレビゲームをしているのである。はっきり言って異常である。しかし、大手電器メーカーが競って新しいテレビゲームを作っては発売しているのである。テレビゲームが無意味なものであるから規制しようというような事を唱える政治家は皆無である。民間企業が作る物を何人も作るなとは言えないし、売るものを売るなとも言えないが、こんな事で良いのかと思う。

     テレビゲームに関しては専門家から「ゲーム脳」についての研究や懸念が示されてはいるが、せいぜい、気をつけようという程度である。先日、解剖学者の養老孟司氏が、テレビゲームが流行るのは皆が、作り物の世界と分っているからではないかと言っていいるのをみたが、養老氏がそう思っているだけで、生まれた時からテレビゲームが身の回りにあった子どもが、果たしてテレビゲームは非現実の世界という事を認識出来ると言い切れるだろうか。私には疑問である。自由な世の中とは明らかに害毒を撒き散らしていると思われるものであっても規制も出来ないしいわんや世の中からなくする事等できないのである。

     今、思い付くままに消費者金融、性風俗に関する雑誌、残虐な映画・テレビゲームなどについて言及したが、他にも日本を悪くしているものは枚挙にいとまがないほどある。今の三つはたまたま思いついただけである。今の日本は政治的には自由民主主義体制で経済的には市場経済を採っているから、これらのものが世の中に害毒を流していると思う人が個人個人のレベルで多少いたとしても実際には誰も何も出来ない。個人の力は小さく全てはシステムに飲み込まれた個人がその中で生きて仕事をしている中で生み出されるからである。

     こういう問題は政権交代が起こってもなかなか何も変わらないだろう。旧態依然とした利権保守政治を批判する市民派が主導権を握っても今私が書いたような日本の状況は一向に変わるまい。それどころか市民派は根底に左翼のメンタリティーをもっており、伝統や古典を無視し、また政治レベルでは政府が何かを取り締まる事に批判的な感覚をもっている人が多いから益々世の中は乱れるであろう。実際、私は日本が今みたいな社会になってしまったのは、戦後民主主義の左翼の影響による所がかなり多いと思っているのだ。

     自由主義社会で経済体制は市場主義経済を採る社会が一番良いと私も考えてはいるが、それは社会の構成員たる人間がある程度キッチリとして欲望を自らコントロールしてこそ成り立つ社会体制なのであって、欲望のコントロールができなくなった自由主義社会はモラルが低下し、社会は堕落してしまう。要は人間がしかっりするしかないのである。私はいつもこれらの「社会」の風潮や雰囲気というものをとても重要なものだと思っているのだが、基本的にはこれらの事は政治には口出しも出来ないしもはやコントロールは出来ないのである。

     結局はひろく「教育」という方法によってしか世の中は正せないのかなと思う。私がここでいうのは広義の教育であり、狭義の学校教育、知識を与える教科教育に留まるものではない。

    5.若者に未来はあるのか

     これからの社会を創るのは老人ではなく若者である。では、今の若者に未来はあるのだろうか。私は最近の若者というものについて考える事がたまにあるが、率直に言ってダメだなと思う事が多い。全ての若者がそういうわけでもないのだろうが、押し並べて品性がなく、軽薄である。深くものを考えるという事をしているように思えないのである。実際に私は若者と交わる機会はないが、見ていて何となく感じる事だ。何も電車で座り込んでいる女子高生だけではない。社会では一応エリートとされ自身もそう思っているようなタイプの大学生もだ。10年前も悪かったが一層、悪くなって言っている気がする。今や益々、軽薄でないと生きられない時代になっているのかも知れない。そしてまた、今の若者はとても多くの事に心が囚われている。全体の中で、相対的にしか自分を評価する事が出来なくなっている。

     先月、政治や社会問題について考える高校生・大学生対象のイベントに講師役で参加をしたが、私は何かずっと違和感を覚えていた。違和感を覚える原因が自分の内側にあるのではないか、つまり、私が引っ込み思案で、人見知りをし、基本的になかなか人に心を割れない、自己防御の気持ちが強い人間だからだろうかなどとも考えてみたが、私は参加者の殆どの人に対して、馴染めなかった。まず、礼儀正しくないのである。そして、言葉が汚いのである。きれいな日本語を話すという感じの人が少なかった。勿論、中には礼儀正しく、また、今の若者特有の囚われが少ない人もいたのだが、多くの人とまた全体から受ける感じは、自ら社会的な問題に意識が高いと任じており、多くの若者があまり関心をもたない政治や社会の問題に関心をもっていて、これからの日本について考えるイベントに参加しようと思う若者をもってしても、所詮こんなものかと私は思わざるを得なかった。

     言葉の悪さや態度の悪さだけが問題なのではない。思考がみな小さく画一的であり、結局、決められた枠内での思考しか出来ないのだ。自分で自分を狭い枠に入れている若者がいかに多いかと痛感した。このイベントを企画した人の中にはこれを成功と位置付け、とても評価している向きもあるようであるが、私は、こんなものやっても仕方ないのではないかなと思わざるを得ない局面に多く直面した。参加者の雰囲気をみて、一体、何が問題なのだろうかと私は思った。これも以前書いたが、作家の曽野綾子氏が、自分は今の大人を全部諦めているというような事を言っておられたのを聞いた時、私も同感だと思ったが、今の若者は戦後教育を受けた世代の子どもで、益々、何も自ら本質的な事を考えられなくなっているのかなと思った。

     政治に関心のある若者が少なくなっている事も問題だが、私は実は政治に関心をもつ若者自体にも問題を感じている。つまり、政治に関心がある若者に私はあまり期待が出来ないのだ。政治を志したり、政治に関心があるならば、世の中そのものや人間とは何かという事について深い関心を払わなくてはならないと思うが、どうも政治に関心がある若者は、狭義の所謂「政治」にだけ関心があるというタイプの人間が多く見うけられるような気がするからだ。以前、私はメールマガジンに『若いだけで良いのか?』というタイトルで、最近の選挙に多く出てくる若い候補者に対しての疑問を書いたが、本当に若い候補の多くはみな一様に薄っぺらで乗りが軽く雰囲気が似ている。狭義の「政治」には関心があるが、世の中について、人間について、今の世界を突き動かしている原理についての洞察力が極めて薄いような連中が最近大挙して選挙に出てきている。これからの時代は必然的に若者が作って行かざるを得ないし、未来があろうがなかろうが若者しかこれからの世の中を作る事は出来ないが今の若者にはこのままでは到底良い社会を創れない気がしてならない。要はこれまでのような思考を続ける社会自体が問題なのだがこの社会の中での常識を身につけさせられた若者には期待出来るかどうか怪しいものだと思う。現在の常識に囚われない人間が出て来ないことにはダメであろう。

     とは言っても、いつの世の中もどれだけ社会の構成員の人間的な質が低下してもその世の中なりのリーダー・指導者というものが存在しない訳ではないから、一応日本社会は続いて行くかもしれないが、明るい未来は当面はないであろう。結局は大きく社会の価値観を変えるような何か仕掛けが必要なのだと思う。やり方は難しいが、日本に気づく事や東洋への回帰という方向で物事を考えて行かなくてはならないと思う。話が少しそれるが、日本を取り戻すという事が大事だからと言って、今の若者に最近広まっていると言われているプチナショナリズムから軽薄で排外的ナショナリズムの方向へ行くのは望ましい事ではないと思う。サッカーワールドカップの日本代表が勝った時にバカ騒ぎをする若者をみて愛国心をもつ国民が増えて来ているのは良い事だと評価する向きもあるし、また、逆に「ナショナリズムの台頭か」と心配する向きもあるが、私に言わせればただ、下らない騒ぎをしているだけである。評価できるものでもなく、また、懸念するほどのものでもない。左翼が気にするように、日の丸を振ってサッカー日本代表を応援して盛りあがる若者がいくら増えようが日本がまた戦争をする事などありえないし、単純な保守主義者が喜ぶほど、愛国心をもつ日本人が増えて来ているとも思えない。そんな現象どうこうより、根本的な問題を感じて考える雰囲気を醸成していくしか方法はないと思う。そうしなければ、社会に真っ当さが復活してこないと思う。

    6.なぜ、日本が忘れられているのか

     私のいう真っ当さとは別に特段難しいものではないのである。古くから日本人がもってきた日常的な素朴な道徳に潜んでいるものだと私は思っているし、もう少し思想的に遡ると神道・仏教・儒教の中から来ているものであろう。これらをまとめて私は今仮に日本的なものというが、この日本的なもが完全に忘れられている所に根本的な問題があると思う。ここでは細かい日本精神史について論じる事が目的ではない。神道と仏教の関係や、仏教の宗派の事や儒学(儒教)の与えた影響を事細かに分析するのが目的ではない。大雑把に神・仏・儒の三教が様々な階層の日本人に様々な時代に影響を与えて来た事さえ押さえておけばいいのである。

     私はこれらの思想を学んだり関心を持つ事によって、日本を取り戻すという事が大事だと思う。では、なぜ日本が忘れられているのであろうか。端的に言って、私はやはり敗戦のせいであろうと思う。多くの日本人にとって魅力的であった「戦後民主主義」が今の日本をここまで骨抜きにしたのだ。戦後、日本人は多くの物を得たが逆に多くのものを失った。得た物は物質的なものであり、失ったものは精神的なものであった。しかし、長引く不況で物質的な豊かさすら危うい状況である。

     なぜ、日本が忘れられたか。一言でいうと意識的に忘れさせられる力が働いたからである。ここの認識を強く持たねばならないと思う。私は日本の国柄というものへの関心、認識、理解を持たなければ、社会を復活させる事は難しいと思う。短に知識社会が来るから、皆、新しい学問(というか道具的な技術を身につけるための勉強)をどんどんして「知価革命」の時代を生き残れば良いというようなものではないと思う。根本がなく、軸がない社会でいくら新しい知識を生み、それを吸収してもスカスカの人間が多くなるだけだ。機会的な知のみが「知」と思われているところに今の日本社会の底の浅さがある。昨今の資格ブームなどを見ていてつくづくそう思う。使いものになる道具としての知識のみが重視され人間とは何か、歴史とは何かといった事を考えている人間は生きて行けなくなる。こういう人類にとって必要だが飯の種にはならないような事に関心を払う人間にたいして誰も敬意を払わないのが今の日本社会である、だがそんな事で良いのであろうか。

    7.日本の国柄にあった政治を

     私は人に人柄があるように、国には国柄があると思う。今、日本の復活に必要な事は日本の国柄とは何かという事について考え、日本の国柄にあった政治を行って行くことであると思う。今の問題点は日本が日本の中にあるものの良い側面に気付いていないか、無視をしている事だと思う。まったく忘れ去ってしまったという事もあるだろう。日本人が日本の中にあるもの、あったものに対してもう一度、それらの良さとそこから導き出される価値観を見直すならば、今後の政治(内政・外交)の進めたかも自ずと明らかになって来るのではないかと思う。我々は即急に我が国が捨て去った「日本」を思いだし掘り起こし見直さなければならない。それがでなきくては、それこそ、国際社会で名誉ある地位を占める事など出来る訳がないのである。

     個別具体的な個々の政策を先に出し、どちらが優れているのかという事を競いあうよりも、まずは向うべき道、正しいあり様とは何かという議論をしなくては、いくら単発の政策が出てきても全体としては整合性のない行き当たりばったりの政治が続く事となる。これは外交面でも内政でも同じだろう。内政の中にも様々な分野があるが、まず、どのような社会が望ましいのか、人々は何を望んでいるのかここから考えなくてはならないのである。松下幸之助塾主は、国家百年の計がない事を指摘され、政治が漂流している事に対してた大変な危機感を持たれて政経塾を設立されたが、今も日本は国家百年の計どころか、来年の計もないような政治が続いている。

     以前、メールマガジンに書いた内容と重複するが、私自身は極めて乱暴に斬ってしまうと、私は、これからの日本は「東京一極集中・アメリカニズム・物質主義・画一化・経済優先的な考え方」を今後も続けるグループ、思考と「地方の自立・日本的なるもののぼんやりとした復興・精神性に重きをおいた考え方、生活・多様化・文化に重きを置いた考え方」の対立に時代になると思う。対立というより、前者から徐々に後者に向っていく流れがいろいろな形で起くるという気がする。まずは人々の意識レベルでおこり徐々に様々な制度が変わって行くのではないかと思う。

     こう、書いてしまうとあまりに当たり前のように思われる人もいるかもしれない。また、前者の中で生きていることを当然と思って疑いすらしない多くの都会の人には、全く何を言っているのか分からないかも知れない。が、私にはより大きな視点でみると「文明の転換点」ともいうべき時代を日本と世界は向えつつあるように思う。重要なのは物質至上主義と世界のアメリカニズムとグローバリゼーション、そして国内でいうと東京一極集中、都市的価値観の一元化というものは、別のものではなく密接に底流で結び付いており、その考え方を前提としたシステムこそが限界に達しているという事である。

     よく、今の政治には対立軸がないと言われたり、自民党も民主党も違いがないと言われるが、その理由は今の多くの政治家が政党や世代を問わず、殆ど前者の価値観の中でしか生きていないからだと私は思う。だから政治の世界のレベルで今私が書いた考え方の対立が起こるのはまだもう少し先のように思う。今は前者の価値の中での旧勢力と自分さえグローバル化の中で生き残れば良いとする「改革派」の闘いが行われており、文明の転換点まで視野に入れた政治家が殆どいないからである。

     日本は今後、もっと自らの国柄についての議論、どう生きるのが日本にとって自然で持ち味を生かせ、国民も幸せで国際社会に対しても貢献が出来るのかという議論をしなくてはならない。アメリカがこうだからとか中国がこうだから、日本はこうしなければならないというのは二の次であって、まずは日本は自らのあり方を考えて今後の道を明らかにしなければならないと思うのである。国柄についての議論が進み日本が長期的に進むべき道についての積極的な議論が起こると、例えば外交問題やエネルギー問題・食糧問題についても今とは違った新しい考え方が出てくるかもしてない。ここに書く事はすべて机上の空論に近い、私の理想とする日本の一部ではあるが、例えば外交についても今のようなアメリカの力による一極支配に追随し続けるのが良いのかという議論が今とは違ったレベルで起こってくるだろう。今とは違ったレベルというのが重要である。

     イラク支援法案にしても、以前のテロ特措法にしても、私はいささか疑問をもってはいるが国会論議を見ているいる限り、私の視点からの疑問を述べている人はいなかった。社民党の土井党首に代表されるように「憲法があるから」「憲法9条に違反するから」という理屈以外に、反対論は全く出て来ないのだ。そもそもアメリカによってもたらせた憲法に一体いつまで執着しているのかと私は思っているが、現行の憲法を前提とした発想しか沸いてこないのである。もう一つは現実をよく分っているが故の現状追認論である。

     私は個人的には日本は「和」の国である事を世界に宣言して、自主憲法を制定し改めて、自ら独自に平和国家である事を宣言して、国際社会での役割の果たし方を提案すれば良いと思っている。つまり「9条があるから」ではなく、今の9条などあろうがなかろうが、日本は侵略戦争は絶対にしないという事と、国連の中でも特殊な生き方をするので、例えテロとの戦争に多国籍軍が組織されても戦闘行為には参加しないというような事を宣言してもいいと思うのだ。勿論、軍事問題の専門家からするとこんな事は素人の浅知恵に過ぎない。私だって現実的には今のような世界の力関係が続く限りはアメリカと同盟国としてどこまでも一緒にいくしか選択肢がないであろう事も分ってはいるが、それでもブッシュ政権のあまりにえげつないやり方と日本の追随一辺倒の状況を見ていると一体、このままでどうなって行くのかという疑問を持たざるを得ないのである。

     また、経済は発展し続けないといけないと思い込まされているが本当にそうなのであろうか。また国際競争力に打ち勝たなければならないと思い込んでいるがそうなのであろうか。皆、自明の事のように競走に勝利しなければいけないと思っているが私は、そうは思わない。経済は他国と競走して勝たなくても自立した経済圏を確保しそのなかで経済が循環すればいいのではないのか。食糧・農業問題など考えると特にそうであろう。勝手に競走に巻き込まれて不利な条件で競走させられている事自体がすでに敵のルールに乗せられているのである。負けるルールで競走させられる前に自前のシステムを作らなければならないのだ。そして、他国と共生できる道を求めるべきなのだ。今の世界を見ていると全てが力の原理で動いているのである。力の原理―究極的には戦争だが戦争に至るまでにも日常的に戦争的なる思考で動いている-以外の原理で世界を動かして行くべきだという事を私は日本が国際社会にもっと強く呼びかけても良いと思っているが、今のままでは無理であろう。

     今の先進国で食糧自給率が100%に満たないのは日本だけだがなぜこういうことになっているのだろうか。結局、食糧とは何なのかという問題が深く考えられてこなかったからではないのであろうか。工業生産品と農産物を同じ物とみるか別物とみるかここに思想の分かれ目がある。何でも安いものほど良いもので安くなければならないという考えを多くの国民が自然に持たされた時、日本の農業は衰退せざるを得ない。何故なら規模でもシステムでもアメリカには勝てるわけがないからである。しかし、自国民の食糧は出来るだけ自国でまかなう、例え非効率でも日本人が食べるものは日本人がまずは自力で作るという思想にたてば、国際競走などせずに、例え多少は高くて非効率的でも日本人が作ったものを日本人が食べるという状況になるであろう。勿論、私がここに書いている事は極めて極端な事である。考え方の基本をどこに置くかという事が問題だという事がいいたいので敢えて極端な例を出したのだが、今は全く考え方の軸というものがないのである。

    8.東洋的思考の重要性

     私が言いたいのは、要はどういう資本主義社会になるのかという事なのである。資本主義・自由主義経済体制を批判的に見ているのではない。根本的な思想にどういうものを据えてやっていくのかという事なのである。規制緩和か規制強化かという枠で考えるだけでは良い社会を創るかどうかという問題にはすべて答えられないのである。これもよく言われる事だが、日本ほど成功した社会主義国はないと言われる。勿論これは皮肉を込めてである。主にこういう言説を唱える人は規制緩和・規制撤廃論者やもっと日本を徹底した市場主義にしないと経済の復活はないと思っている人達だ。私も多くの志ある起業家が立ちあがり、活き活きした経済社会を創るには基本的にこの考えで行くしかないと思っているし、ある面、日本は「成功した社会主義国」であるという皮肉を込めた見方を支持してはいる。官庁が業界をまるごと面倒をみて護るかわりに厳しく指導をし、官僚に気に入られて認められないと自由に商売も始まられない国から日本がもっと自由に創意工夫を活かせる活き活きした社会にならなくてはならない事は論をまたない。

     しかし、それでも私は、気になる。日本資本主義の夜明け時代に我が国に初めて銀行を作り、様々な事業を経営した渋沢栄一翁は、「算盤」と共に「論語」の重要性を説いた。今の言葉にすると「算盤」は経済であり「論語」は道徳であろう。道徳なく資本主義経済は必ずや社会を乱すのである。私は社会主義者でもないし過度に福祉を充実させ更に社会民主主義の要素を今の日本に採り入れることを支持する立場でもない。体制が問題なのではない。一番自然なシステムである市場主義経済を本当に健全に機能させていくにはそこにそれぞれの国の国柄というものを深く理解した上で現実的な施策を採る事が望まれるのだという事が強調したいのだ。

     同じ資本主義国でもアメリカと日本は違うということなのである。それは政治についていえば民主主義の運用にしても同じである。制度だけ輸入しても木に竹を継いだような民主主主義になるのは当然である。実はこのような事を考えるのが松下政経塾の使命であり、塾主松下幸之助が望んだ事であると思うのだが果たして、今の塾の関係者がこういう根本的な事を考えているのか私はいささか疑問に思う事が多い。

     重要な事は、日本の国柄を理解し、日本が影響を受けた東洋のものの考え方というものをもう一度見直すべき事だと思う。私は本稿で「日本」にこだわって来たが、広く東洋に立ちかえる事が大事だと思っている。日本は東洋の国であるが今は完全に西洋化してしまい、日本を捨てただけではなく、東洋の英知も捨て去ったのである。こんな勿体無い事はない。東洋的なる物を復活する事は非常に社会が活力を取り戻す為に必要だと私は個人的に思っている。具体的には今の日本社会の全てから消えてしまったかに見える『論語』や『中庸』などを始めとする中国古典についての理解を広める事等も重要であろう。これも以前の月例で私は一度触れたことではあるが、責任感教育のようなものも必要だろう。私のいう責任感教育とは、単なる徳目の押し付け教育ではなく、子どもに人間とは、社会とは何かと考えさせる教育である。このままでは本当に精神が空白の日本人が今後も更に物質的な価値ばかり求めて生きていく。

     個人はバラバラになり社会に責任をもつ人はいなくなり国家は衰退する。個人と国家は決して対立するものではないのに、戦後さもこの両者は対立するもののように考え、国家などという古臭いものから自由に解放されて生きるのが個人の自立だという思想がかなり広まった結果、日本は中間団体が崩壊し、人々はバラバラになり社会自体が活力を失ってしまった。この今起こっている現象と古典を学ばなくなったことは直接の因果関係はないと思う人は多いかもしれない。しかし、私は決して因果関係はないとは言えないと思うのである。このような問題意識をもつものとして、私は今後ささやかな試みをしてきたいと思っている。

    9.おわりに

     本稿に書いた事は私が非常に重要な問題と考えつつも一朝一夕には解決出来ない問題ばかりである。ここで書いた事は郵政事業の民営化や道路公団改革などの構造改革の議論や、所謂、構造改革路線か積極財政による景気回復優先路線かという議論とはまた別のレベルでの問題である。しかし、政治が考えなくてはならない問題には違いない。大きくは日本の病んでいる現状、具体的には若者の現状、政治家の現状、教育現場の現状とそこで埋め込まれる価値観とそこから生み出される人間と彼らが作る社会のゆがみ具合、これらは一見、全て別の問題に見えるが通低する何かがあるのだ。その「何か」を克服し闘わなければならないのだと私は思っている。戦後の(いやある部分では明治以降の近代化の中で)社会の中で失ったものは何かという事を真剣に考えなくては解決されない事ばかりなのだ。何故、ここで敢えてこういう事を書いたというと、今のままの改革論議では日本は真っ当にならないないのではないかという懸念を私が非常に強く持っているからである。

     私は今後、一つの政策分野について深めるという形より、様々な政策について、これはどっちの方向へ日本を導く事になってしまうのかということについて具体的な政策について目利きができるような研修をしていきたい。よく、この政経塾では、「最終的に君は何を実現したいのか」というような事が問われる。極めて抽象的で大きな問いに対して具体的で実現可能性の高い回答を効率よく答える為に用意するのは難しい。

     私は一言でいうと「日本を取り戻し、日本を護る」役割を果たしたいと思うだけである。それは別に何か法律を作ったり改正したりすれば終わりという事ではない。また、何かのポストにつけば良いと言うものではない。先に見てきたように―これはあくまでも私個人の認識であるが―個人で大きな部分など動かせないくらいに今の日本は硬直して巨大化しているのである。それでいて様々なものが崩壊しているのである。巨大な崩壊というべきか。そうであれば、見識を磨き一つ一つの事象・政治の場であれば政策についての目を肥やす他はないのである。それは所謂「政策通」になる事とは違う。官庁に聞けば分る数字やインターネットで調べればすぐわかる数字を頭に入れて「政策通」になってもそれだけでは意味がないのである。あるべき社会についての思想をもって政策を判断するという事である。

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    吉田健一の論考

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    Kenichi Yoshida

    吉田健一

    第22期

    吉田 健一

    よしだ・けんいち

    鹿児島大学学術研究院総合教育機構准教授(法文教育学域法文学系准教授を兼務)

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