Thesis
そしてオーストラリアやオランダの小学校教育と比較した場合に一般的に目立つのは、
その結果、藤崎塾生も指摘しているように、コミュニケーション能力がなく、生きる力が弱い子ども達が増えてきています。
学校や先生によって教育内容、教育の質に大きな差があることは私自身が色々な学校をまわっていて実感することです。また、横並び主義が浸透した結果、所謂「ヤル気のない」先生により良い教育へのインセンティブがなく、ヤル気のある先生とない先生の差は広がるばかりだ、と訴える公立の小学校の校長先生もいらっしゃいました。
公立小学校における学校選択の自由の導入
が不可欠だと考えます。
そのための二本柱として96年度計画段階では学区の廃止と学校設立の自由を挙げましたが、それを修正して
学区の縛りの緩和
学校設立の自由
としました。
現在、教育界では学校のみならず地域で子どもたちを育てる、ということがキーワードになっています。現状では学区は必ずしもコミュニティの区分と対応していませんが、それを現実に対応させ、コミュニティによる学校運営ができるようにすることが肝要だと考えます。地域をベースとしつつ、教育を受ける側に学校選択権があるという大前提を認めよう、という考え方です。オランダやオーストラリアの実践例も斯様になっています。
また、現在事実上私立小学校の設立の自由はないのが現状ですが、例えば多様なニーズに応えるために多種多様の学校の設立資金を全て税金でまかなっているオランダでは、国家予算の18.5%が教育予算です。ちなみに日本では97年度の教育予算は国家予算の7.9%、オランダ並みの支出基準では財政的にたちゆかないことは明らかです。小学校の設立基準を整備し、私立小学校の設立を促進することが必要になると考えています。
また、学区の自由という概念は昨年の行政改革委員会小委員会の報告や今年初めの橋本首相の施政方針演説にも登場しました。しかし、これらの内容を見ると、行政改革と規制緩和の流れに乗っているだけで、本当に現場を見、それによって学校教育がよくなるのかという検証や研究をしているわけではない、という印象を受けます。
教育は経済とは違います。自由競争に任せているだけでは簡単に壊れてしまう価値があります。
実は私自身も、現状に選択の自由のみを入れても教育の質は良くはならないのではないか、という危惧を抱いています。
その理由は、この制度の中では学校がそれを選ぶ側、つまりの親の意識によってつくられるからです。PTAなどの会合に出ていると感じることですが、歪んだ民主主義が家庭の中に入り込んだ結果、好き勝手にさせることが子育てだと考えている親御さんや、自分のエゴで子どもを育ててしまう親御さんも少なくありません。「昔と変わったのは保護者会などで全く意見がまとまらなくなったこと。皆自分の家や子どものことしか考えていない」と言う先生もいます。失礼乍ら親や地域の教育力が低下していることは否定できません。
オーストラリアやオランダでは「子どもにとっては地域の中で近所の子どもたちと遊びながら育てることが大切」という考え方が浸透しているので、学区の自由はあっても「オラが学校を守ろう」という意識が働き、バランスが保たれていると感じました。
しかし、日本で事実上越境入学が黙認されている地域では、人気を集めているのは有名私立中学校への進学実績の高さを誇る公立小学校です。子ども同士に競争をさせないようなのんびりした学校は子どもが集まらなくて統廃合の危機にさらされています。
つまり、現状に選択の自由だけを入れても、子ども同士の競争に拍車をかけることになる可能性が大なのです。
この現状を考えると、教育ではシステム改革と同時に意識の改革が必要、という結論が導かれます。これは上からの改革だけでは不可能です。地道ですが、教育現場、親、コミュニティに直接働きかけ教育意識を高める活動、そして学校をよくしようという世論を高める活動が不可欠です。
世論を高めた上で政治家や官僚を動かして改革を行うことが重要なプロセスだと考えています。
そこで、選択の自由を導入する前に行うべき改革を短期的改革ビジョンとして4つ、提示したいと思います。これらは現状のパラダイムの中でも可能であり、またしなければならない改革です。
1と2は私立小学校の設立を促進し、さまざまな理念による教育を認める前提として是非とも必要なものです。「教育」という名のもとにどんなことでもできてしまうようになるからです。
どんな改革を行う場合でも、私自身は個人の幸福という価値を再優先に考えていますが、現在の日本では国家や社会の安定と発展があって初めて個人の幸せが成り立っています。
現在は国家としての教育理念はないも同様です。教育基本法第一条には、こんな人間が育てば文句はない、というような国民像が謳われていますが、その理念がどう学校教育に反映されているのかは疑問です。国家や社会としてはどのような子ども、国民を育てたいのか、或いは全く自由に任せるのか、という議論が必要だと考えています。
以上の仮説を検証し、実践する活動をしていきたいと考えていますが、如何せん、まだ説得材料を十分に集めたとは言えません。
仮説検証のため、今年度に引き続き、
にて調査活動をしたいと考えています。
1については昨年度は首都圏の都市部での調査が主でしたので、今年度は、いくら選択の自由を導入されても選択の余地がない、というような過疎地域の実情も調査したいと考えています。
3についてはレーガン政権以降、学校選択を導入してから教育が荒廃したと言われるケースを見る必要があると考えています。
4については注目を集めているコミュニティぐるみの教育の実践例としてキブツの学校を見てきたいと考えています。現在それが壊れかけていると言われている実態についても見てこようと思っています。(ただし、現在政情不安定のためアジアの学校に変更の可能性あり)
そして、この仮説の検証活動をしながら、徐徐に「地域からの草の根教育活動」の実践例もつくっていきたいと考えています。皆様のご指導ご協力をお願い致します。
追記
ここのところずっと、どうしても月例報告が書けませんでした。とても忙しく活動はしていたのですが、本当に書きたいことがみつかりませんでした。
理由は簡単です。小学校の現場にいなかったからです。
先年度の後半、特にオランダの学校事情を調査してから以後は、人前で発表をしたり、依頼されてものを書いたりする機会が増えました。また、自分の考えを実現するための第一歩として政治家や官僚の方々に提言の真似事のようなことをさせていただく機会も徐徐にでてきました。
そうした活動はとても勉強になりました。会いたい、とずっと思っていた人に奇蹟のような偶然で出会えたり、一人の人に会ったらそこからどんどん人脈が拡がって行ったり、それはそれでとても面白く思えるようになってきました。
でも、そんな毎日が長引けば長引くほど、自分の中で自分の言葉がむなしくに響くようになってくるのです。小学校に通いたくて、子どもたちに会いたくてしょうがなくなるのです。
人には向き不向きがある、やっぱり私は現地現場主義の申し子なんだ、机の上でものを考えていてもどうしようもないんだ、とつくづく実感したのでありました。
小学校の子ども達と一緒になって床に這いつくばって遊び、げらげら笑い、そして目の前にいる子どもたちのことで先生方と本気になって話し合ったりする中で初めて、「私にできることをしたい」という本気の気持ちが湧き、本気のことばが生まれてきます。
その本気のことばが読んでくださる方にも伝わるといいなあ、そのために文章を書く技術も磨かないとなあ、と思う今日この頃です。
結果として、3月、4月分の月例報告は自分としてはとても不本意なものになってしまいました。5月からはようやく埼玉県川島町の小学校に研修に入れることが決まり、ホッとしています。5月、6月分はもっともっとリアルな言葉でつづることができると思います。
こんな腑甲斐ない私を辛抱強く支え、月例報告の提出を待ってくださったみなさまに精一杯の感謝を込めて、、、。
Thesis
Tomoko Shirai
第16期
しらい・ともこ
NPO法人新公益連盟 代表理事
Mission
教育・ソーシャルセクター