Thesis
栃木県の中学生が教師をナイフで刺殺した事件以降、ナイフを使った少年犯罪が頻発しています。
私自身も、学校の子どもたちと接している立場から、意見を求められる機会がとても多くなりました。
特に子どもを持つ親御さんたちは、殆どパニック状態です。マスコミが
「今、子どもたちが危ない!」
「どの子どももそういうことをする可能性を秘めている」
とあおるお陰で、多くの親御さんが、
「うちの子は大丈夫か、うちの子育ても間違っているのではないか!?」
と、とてつもない不安におそわれているのです。
今の子どもは昔に比べてそんなに大きく変わったのでしょうか。結論から言えば、私の答えはNO、です。
私たち大人は、自分が子どものときにどんなことを感じて生きていたのか、もう一度よく思い出す必要があると思うのです。
昨年私は、ある公立小学校で小学五年生に化けて二ヶ月間一緒に学校生活を送る、という貴重な体験をしました。子どもたちは、
「この人、大人じゃないの?」
と疑いながらも、私をクラスの一員として扱ってくれました。
私にとっては、子どもになりきることで「子どもの頃って、こんなことを感じていたんだ。こんなことですごく傷ついたりしたんだ。」
と子どもの感覚を思い出すよい機会になりました。 そのときに感じたのは、子どもというのは、大人が考える以上に色々なことを感じ、色々な矛盾に気づき、色々なことに傷つきながら、それらを必死で消化して、真剣に生きている、ということです。
ただ、彼らはそうして感じたことを言葉にするすべがないのです。感じたことを言葉にするための語彙が足りないのです。
そこで、子どもたちは、「ムカつく」「キレる」といった、今現在世間に氾濫している言葉に自分の気持ちをあてはめます。
「人を殺したい、と思ったことありますか?」
と問いかけられれば、
「そういえば、一瞬、そんな気持ちになったこともあったかもしれない」
と、「はい」と答えるのです。年がら年中「人を殺したい」と思って暮らしている子どもなんて、そうはいません。
昔と違って子どもたちが、「ムカつく」などと大きな声で言うようになったのも、今その言葉が流行っているから、そしてそう言っても許されると思うからです。
大人たちは、「今の子どもたちが危ない」と騒ぐ前に、もう一度、自分が子ども時代にどんなことを感じて生きていたのか、どんなことに傷ついたのか、思い出すべきです。
子ども時代のことと言うと、晴れの舞台とか、楽しかった思い出とか、陽のあたる部分ばかりを思い出しがちですが、しかし、陰の部分では、先生にこんなことを言われて殺してやりたいほどアタマにきたとか、大人にこんな誤解をされて死ぬほど傷ついたとか、そんな体験、本当は誰にもあるはずです。
それを思い出して、今の子どもたちの置かれている状況を理解してほしい、と思うのです。「今の子どもたちはこわい」なんて、大人たちが言うような土壌をつくってはいけない、と思うのです。
その意味で、私にとってショックだったのは、あの事件の後、文部省が真っ先にしたのが、中学校でしばらく行われなかった「所持品検査」を容認するという処置だったことでした。
子どもは敏感です。
学校や先生が、子どもたちの命を守るために、あるいは子どもたちを犯罪者にしないために、緊急避難として所持品検査をする、というのであれば、まだ理解できます。
しかし、所持品検査が出てきたのは、そういう文脈ではありませんでした。
「こわくて学校に行けない」という一部の教師の声から、また学校でこれ以上事件が起こっては困る、という事情から出てきたのです。
「子どもたちがこわい」と言明することは、即ち子どもたちを拒絶している、彼らを理解しようとしていない、ということの表れです。事件が起こっては困る、と言うのは、大人の保身のため、と受け取られても仕方がないでしょう。
子どもたちは、大人たちのそうした態度に、「拒絶された」「理解してもらえない」と敏感に感じ、でもそれを表現するすべがなくて後から後から「キレる」のだと思うのです。
あの事件以後、少年がナイフを持つことが問題視されているようですが、本当に問題なのは、ナイフを持っているかどうかではなく、その使い方がわかっているかどうか、ということのはずです。いくら少年からナイフを取り上げようが、学校には、バットだって、ハサミだって、人を殺せる道具はいくらでもあるのです。問題の本質はそこにはありません。
今必要なのは、なぜその子どもが「キレた」のか、原因を冷静にとらえ、子どもたちに何が必要なのか、彼らは何を求めているのか、考えることだと思うのです。子どもたちが感じていながら言葉にできないこと、って何でしょうか。
私は、子どもたちは生きていく上での原理原則を求めているのだ、と思っています
。「大人たち、しっかりしてよ!生きるってどういうことなのか、見せてよ!」
ということだと思うのです。
その責任は、先生や親だけではなく、社会に生きる、もっと言えば子どもたちの目の触れるところにいる大人ひとりひとりが負っています。彼らは、私たちがどんな行動をしているのか、どんな風に生きているのか、本当によく見ているのですから。いくら口できれいごとを言っても、言っていることとやっていることが違えば、彼らは大人が考えている以上に敏感に見破るのです。
私たちひとりひとりの大人が、子どもたちを育てる責任を自覚して、しっかりと自分なりの(必ずしも、いわゆる「立派な」生き方でなくてもいいのです)筋の通った生き方を見せること。教育の根本は、多分そういうことだと私は思うのです。
Thesis
Tomoko Shirai
第16期
しらい・ともこ
NPO法人新公益連盟 代表理事
Mission
教育・ソーシャルセクター