論考

Thesis

北朝鮮収容所を通じて考える

先日、北朝鮮難民基金という団体の方とお話をする機会に恵まれた。本稿では、北朝鮮難民基金の活動内容、北朝鮮収容所に収容された人の話を見ていくことにする。

 北朝鮮難民基金は、東京に本部を置き会員からの寄付で運営している団体だ。会の目的は北朝鮮からの脱出者の生活を支援し、保護・難民認定をめざすことである。活動内容は、1、北朝鮮からの難民の安全確保、保護活動 2、教育援助プログラム 3、食料配給作戦 4、難民の移住・定住 5、NGO、国際機関との連携等である。

 簡単に言えば、難民をかくまう場所や衣類・医療の支援。孤児に対する里親教育制度、食料支援などである。食料支援などはWEPなどを通じて行われているが本当に必要な人に必要な量が行き渡っていないという現状を憂い独自のルートで北朝鮮への支援を行っている。この団体は2ヶ月に1度程度の頻度で中朝国境付近で聞き取り調査や食料支援等も行っている。

 北朝鮮が昨年の南北首脳会談によって大きな変化があったと見る人も多くいるのではないであろうか。韓国でもあの会談後、北に対するイメージが大きく変わった。しかし、後述の難民の話を聞けば今この時点でも北朝鮮の実状が何も変わっていないことが理解できよう。政府レベルにおいて変化がないことはこの月例において再三述べてきた。

 今回は、国民レベルで北の様子を見ることにしたい。以下は、北朝鮮難民基金発行の北朝鮮難民NEWSから抜粋させていただいた。私がなぜここで抜粋してまで掲載しようとしたかについてであるが、やはり北の実状を知っていただきたいし、現在日本政府が行おうとしている日朝国交正常化に対して厳しい目で見ていただきたいからだ。また、隣国にテロ国家があるにもかかわらず「のん気」に政治を行っている政治家そして、それを許している国民一人一人にしっかりと考えて欲しいからだ。皆さんがこれを読みどう思うかはご自身で判断していただきたい。しかし、このような現状が一面ではあることを忘れないで頂きたい。これは会津千里氏が朴忠日(パク・チュンイル)君の聞き取り調査を基に作成された報告文である。


 北朝鮮を脱出し99年末ロシア極東沿海州でロシア国境警備隊に身柄を拘束され、中国を通じて北朝鮮に強制送還された7人の北朝鮮人グループのうち、生き延びて再度北朝鮮の脱出に成功した朴忠日を、私たち北朝鮮難民救援基金は2001年5月初旬中国遼寧省で保護した。一方で中国の公安当局、中国国内で活躍する北朝鮮国家保衛部(政治警察)要員も彼を拘束するための捜索活動を開始していた。当局の動きを察知した私たちは、彼の安全のために身柄を緊急に中国国外へ移動する必要に迫られた。北朝鮮、中国側は彼の存在が明らかになってしまうと、難民条約を批准しているのにも関わらず、帰国すれば生命に危険の及ぶ難民の引き渡しを禁じた条約に違反した事実が、証人の存在によって明らかになるので、何としても国際社会から隔離(オリンピック北京開催、WTOなど)、拘束しなければならない差し迫った事情があった。

 こうした緊張した状況の下で私たちは、場所を変えながら彼からのインタビューを続けた。困難さはわれわれを取り巻く状況だけでなく、朴忠日君の健康状態、陳述の曖昧さ、集中力に欠ける傾向に振り回されがちの事情もあった。しかし救援基金は、中国の朝鮮族や韓国人、フランス人、ドイツ人の国際的な人権、人道ボランティア団体と協力しながら、彼の生命の安全を確保するため全力を尽くしたのである。したがって、私たちは移動を、静かに素早く、しかも隠密裏に進めなければならない。だからこの作戦の進行は極めて限られた人たちだけが関与する事にした。暗号コードは「機関車」と決められた。

 インタビューは最初から困難を極めた。「朴忠日君、君は本当にロシアで捕まった本人なのか?」私たちがロシアのテレビの画像を通じて知っている顔と目の前にある顔では、一見して同一人物とはとても思えなかった。インタビューした人の中で、意見は真っ二つに分かれた。「確かに本人に間違いない」「いや、本人とは違うようだ」外見上の差異はどこから来るのか、誰も確信をもって相手の見解を否定する事ができない。インタビューの中にヒントはあるのだが、それでは充分でない。外見上から同一人物かどうか判断することを一時棚上げにし、彼のインタビューを分析する事に、先ず専念する事にした。鑑定と解剖学的な分析は専門家に委ねる事を決め、日本、フランス、ドイツに照会した。

 インタビューでも、彼は北朝鮮で受けた拷問と健康状態の衰弱を理由に、長い時間座っていることができない。一時間もすると集中力が途切れる。すると、いらいらし始め、答えは短くぶっきらぼうになる。不機嫌に質問の意図と関係ないことを話し始める。早くその場から解放されたいという気持ちから、質問者が満足するように答える。その答えが以前と違っていると指摘しても、弁明もしないし、抗弁もしない。自分の主張にこだわりをみせない。時に応じて答えをカメレオンのように変える。ただその場から逃れたいという気分だけが、彼の対応、返事を決めるというのが、インタビューをした人たちの共通の認識だ。また時間の経過に関する記憶力は貧弱である。それなら、一体どのようにして「正しい答え」を得る事ができるのか?

 私たちは、絶えず質問の仕方を変えながら、彼の答の正確さを検証していった。例えば、ロシアに不法入国したの年代について、彼は最初「1998年11月」と言った。しかし、この事件は「1999年11月」に発生し、私たちが国際社会にこの問題の解決を訴えたのは同月の13日だった。そこで、「ロシアで捕まって中国を経由し北朝鮮に送還され、何度冬を越したか?」と尋ね方を変えてみた。このような方法で、事実と彼の証言の整合性を検証した。断続的におよそ30日間にわたってインタビューが行なわれた。

北朝鮮の拘留所へ

 1999年12月29日早朝、手錠をかけられたままロシア製のトラックでロシアの国境警備隊刑務所を出発しました。「私たちが韓国に行くのなら、なぜ手錠をかけられるのか」私は事態が悪い方に向かっていることを直感しました。直接北朝鮮に送られると思っていたのに、引き渡されたのはロシアとの国境に隣接した中国吉林省フンチュン(琿春)市の中国辺防隊でした。その時はもしかしたら、助かる道があるかもしれない、とかすかな期待を抱きました。「北朝鮮に送り還されたら殺される」「自分たちで北朝鮮に帰るからここで放してください」と懇願した。自殺しようと頭を壁に打ち付けても、中国の国境警備隊は私たちの訴えを無視しました。「殺されるような事はない。労働教化所でしばらく過ごせば釈放される。心配するな」警備隊の責任者は、そう我々をなだめました。中国側の取り扱いは乱暴なものでした。昼の食事もなかったし、タバコを吸いたいと頼むと、「犯罪人のくせに贅沢言うな」と殴られる始末でした。グループの中の女性が出血でパンツを赤く染め、公安に「トイレットペーパーを下さい」と頼んでも、「朝鮮に行けばもっとよいものがある」と拒絶されてしまいました。

 午後1時30分、10台以上の車に武装した北朝鮮の国境警備兵、高級将校が私たちを待ち受けているのが見えました。その時点で私たちは、「これで全員死んだも同然だ」と悟りました。武装して私たちを引き取りに来た北朝鮮の将校たちの姿を見た時、私は髪の毛が逆立っていました。「皆で、笑って死のう」北朝鮮領土に一歩足を踏み入れた時、誰かが言いました。中国側の手錠が外され、代わって北朝鮮の保衛部(政治警察)の将校が手錠をかけました。一人一人ばらばらに引き離され、目隠しをされました。もうただちに処刑されるのだと思いました。 しかし、処刑ではなく、どこか見知らない土地に運ばれて行かれました。3‐4時間目隠しをされ、ある建物に着くまで、トラックの荷台の上で額を狭い、床に圧し付けられていました。後で分かったのですが、連行されたのは咸鏡北道清津駅から徒歩10分位の所にある道保衛部(政治警察)の建物でした。

 私たちは到着すると、採血し、血液検査をし、指紋を取り、身長、体重を計りました。それから階段を降り、地下の監房へ入れられました。行き止まりに鉄格子のはまった鉄製のドアーの入口があり、廊下が続いています。廊下の左右に監房が分かれています。右側が男性、左側が女性用監房で、男の方は12の房がありました。そこは薄明かりの電球が一個あるだけで太陽光はありません。一度地下の監房に入れられると、昼間なのか夜なのか区別がつきません。一つの雑居房には9―10人が入れられ常時カメラで監視されています。監房全体には12人の看守がおり、「先生様」と呼ぶ事を強制されます。監房の中は、南京虫、虱、ノミがうじゃうじゃとわいていました。これらに体中を噛まれるのは耐え難いかゆさです。食事は三度出されましたが、ほんの少しの硬いとうもろこしと、うすい塩のスープだけでした。監房の中では話をする事も、体を動かす事も許されません。 もし囚人が死んでも、看守は全く気に懸けないのです。囚人が衰弱すると監房付きの診療所に運びますが、診療所に薬はないし、治療も受けられません。唯一受けられる治療は5パーセント塩水注射だけです。

 道保衛部に到着した翌日、私の素性を調べる予備審問のため、取調室に連行されました。お腹が痛かったので少し身体をよじると、取り調べ官がいきなり「この反逆者野郎、死ね」と叫び、顔面を蹴り上げられ、左下あごが砕け歯肉と共に歯も砕けました。左上のあごも砕けたのです。口の中も顔も血まみれでした。これはまだほんの手始めでした。正式の取り調べが始まったのは、私が到着して5日目からでした。これは多分新年の休日にかかっていたからのようです。取り調べはいつも夜間に行われ、殴る蹴るの暴行を加えながら執拗に訊問するのです。「中国で何処に行ったのか?」「誰と会ったか?」「なぜロシアに行った?」「なぜロシアで記者会見をし、韓国に行きたいと言ったのか?」私の取り調べ官は、清津市国家安全部の安全員のリジョンブ(李鐘富)と国家保衛部から派遣された保衛(政治)将校のパクソンイル(朴成日)でした。取り調べはとても激しく、厳しく耐え難いものでした。彼らは、私が決して言わなかった事でも「言った」と、決して会った事のない人にも「会った」と認めるように強制しました。もし、「違う」と否定でもしようものなら、残虐に殴りつけるのですから、決して「違う」とは言えません。私は椅子に幾晩も縛り付けられ、目の前に電球の強い光を当てられ、自分の罪を認め、自白用に新しい罪を作り出さなければなりませんでした。私は何度も気を失い、その度に冷水を顔に浴びせられました。ある時、鉄のチェーンで頭の後頭部をひどく殴られ、血が噴き出しました。最初は麻痺して少し痛みを感じただけでしたが、頭から肩に血が噴き出ているのを感じたとたんに激痛を感じました。その時の傷が、今でも頭に残っています。

 私がいた監房は地下で、取調室は地上にあり、拷問室は地下の監房に行く途中にありました。取り調べ官が囚人の答えが気に入らないと、囚人は拷問室に送られます。拷問室はバスケットコート位の広さがありました。ここにはあらゆる拷問用の道具があります。革製、ゴム製のベルト、鉄のチェーン、大きな木製の棍棒などです。拷問室の中は照明が暗く、スポットライトの下で拷問を受けている、他の囚人の姿を目のあたりにしました。囚人の泣き叫ぶ声、拷問者の罵声、殴りつける音が、室内に響きわたります。囚人たちは拷問室の入り口で既に、恐ろしい雰囲気に飲まれて、死んだも同然になってしまいます。

 7ヵ月の間、咸鏡北道保衛部に拘留され、その間ありとあらゆる拷問と、人間性を失う取扱いを受けました。最初の1ヵ月、夜間の厳しい取り調べで眠らさない日を幾日も続けられ、眠るために自分の房に戻されたことがありました。その時私は歯ぎしりをしてしまいました。看守は同房の者を起こし、歯ぎしりをしたという理由で私を殴らせるのです。もし、同房の者たちの殴り方に手心が加わっていて充分でないと看守が思えば、同房の者への罰はもっと恐ろしいものになるので、激しく殴り蹴るのです。全員でしこたま、私を殴り蹴るの制裁を終えると、看守は私に便所掃除を命じました。看守は便器を舌でなめてきれいにするように命令したのです。30分にわたって舌でなめつづけ、排泄物を吐き出す事は許されず、飲み込まなければならなかったのです。文字どおり私は人糞を飲んだのです。このような処罰を7ヵ月間の拘留生活で、3回も強制されました。

 拘留されて1ヵ月後、50歳くらいの年長の人が入ってきました。咸鏡北道ファソン(化城郡)の党の宣伝部長でしたが、便器の穴を舌で5日間もなめさせられました。一度咳をして背中を少し動かしたら、その時看守が鉄格子の間から手を外へ出せと命じました。すると、看守はピストルの銃床で私の手を激しく殴りつけて、私の手は1ヵ月以上ボール玉のように腫上がってしまいました。この事件で受けた傷は、右手に今も残っています。

 一般的に行なわれている拷問には、次ぎのようなものがあります。 ハト縛り:ハトの羽のように両手を後ろ上にあげたままロープで縛り、身体を固定する。時計:両手を伸ばし片足で立ち、その時の時間と分を手で示す。もう一方の片足は振り子をさせる。もし途中で倒れれば激しい殴打が加えられる。棍棒打ち、電気棒拷問のほか、自転車拷問というのがあり、自転車拷問は、中腰で自転車に乗る姿勢をして、時間に際限なく座る姿勢、立ち上がる姿勢を取らせます。

 監房の中では囚人に名前はありません。4号監房12番という番号でしか呼ばれないのです。私の房では9人の囚人に4枚の毛布があてがわれました。私の房のリーダーは45歳のユンデイル(尹大日)と言って、ムサン(茂山)郡の国家保衛部の情報責任者でした。彼は親切な人で、私を自分の子のように扱ってくれました。私の房にいた人は全員が政治囚で、彼の身に一体何が起きるのか誰も何も知りませんでした。政治囚たちは家族を失い、これから処刑されるのか、それとも政治囚収容所に送られるのかも知らされません。房の角に監視カメラがあり、囚人たちの動きをモニターし続けています。許可なく房の中で動いたり、話をする事は禁じられています。だから停電の時などは、囚人は大喜びです。足や手の指を自由に動かし、背を伸ばす事もできるからです。もし動いたのが発覚したら、鉄格子に縛り付けられ、何時間も監房規則を読まされます。もし読み間違えたり、ゆっくり読みすぎると、看守がゴムのベルトで厭と言うほど殴りつけます。規則は大変厳しいので全部を守るのは難しい。それに一人の過ちは、集団全員の過ちとして二列に並ばせ、向きあわせてお互いに激しく平手打ちをさせたり、ポンプ拷問500回の罰で立ったり、座ったりする動作を繰り返させるのです。

 ここに来て3ヵ月ほど経ったある晩、訊問から戻ると、ロシアで捕まった7人のうちの一人リ・ヨンチョルが反対側から二人の看守に抱えられてやって来るのを見かけました。訊問室に連れて行かれたようでした。彼はひどく消耗していてみすぼらしく、みじめで、まるで別人のようでした。私も全く希望の無い状況だったので、例えお互いに言葉を交わすことはできなくても、手錠をかけられ、ゴムの靴を履いた彼の姿を見ただけでも嬉しかったのです。その時彼はまだ生きていました。彼の姿を見て、ロシアで捕まった残りの5人の仲間が恋しくなりました。彼らは一体どうしているだろう。彼らは今でも生きているのだろうか、それとも殺されてしまったのか。私が幼い子どもなので拷問を加える側が手心を加え、それに比べると大人の場合、はるかに手荒く残虐に扱われていたからです。

 囚人が拷問で死ぬと何の前触れも無く、近くの山に葬り去ります。監房生活はすごく惨めで、希望の無い状況で、私はとうとう病気になってしまいました。ほんの少ししか与えられなかった食糧も食べられなくなってしまったのです。痛みがひどく身体を支えている事ができなくなりました。そして小便でズボンを濡らしたため、気絶するまで殴られたのです。意識を取り戻すと監獄の診療所にいました。両腕、両足はベッドの四隅にくくりつけられ、腕には静脈注射がしてありました。安全員が私の隣で私を見張っていました。意識を取り戻すと、安全員が怒鳴りつけました。「この反動分子め。お前が仮病を使って我々を騙している事ぐらい分かるんだ。起きろ」ただちに手錠をかけられ、監房に連れ戻されました。監房に戻ると、「私が生きていた」と皆が驚いて見つめました。徐々に体力を回復するうちに、尹大日の姿が監房の中から消えていました。監房から彼が連れ出されて、その後どうなったのか、誰も知りません。

 保衛部の私の家族への調査によって、祖父が名の知られた抗日パルチザンで、伯母が対南工作部の幹部であると分かりました。「お前はあんなに成分の良い一族なのに、どうして韓国に行くなどと言う悪質反動の考えを持つようになったのか」 取り調べ官は執拗に訊問するのです。私は「韓国に行くつもりはなかった。中国で金儲けをしたかったが、上手く行かなくてロシアに行った」と嘘の答えを繰り返しました。「それなら、どうしてロシアの新聞記者たちのインタビューに韓国に行きたいと答えたのか」と問い詰めるのです。「私は記者会見で、そんな事は一言も言っていません」事実、記者たちは私にそんな質問はしなかったので、最後までこの答を繰り返しました。 監房では訊問が引き続いて行われ、惨めなくらい殴りつけられました。

 夜は蚤、虱、ダニなどあらゆる虫にかまれ、眠る事ができません。虱探しすら許されないのです。看守の許可なく、少しでも身体を動かすと、激しい制裁が待っています。身体の手の届く部分に手を伸ばして、たまらなく痛痒い所を掻くだけでした。皮膚が破れて血が流れ出ました。虫にかまれ、殴打で体が本当に弱り、病気になってしまいました。栄養失調が進み、肛門が開きっぱなしになり、排泄物が身体を伝わって流れるのが全く感じられなくなってしまいました。

 2000年8月、保衛部の幹部たちが集まっている部屋に運び込まれ、私の年令と家族のバックグラウンドを考慮して、病気釈放を認めるというのです。私に一枚の書類を渡して、「読んで署名しろ」と言いました。この拘留所での体験や見聞きした事を公表してはならないことを遵守します、という念書でした。もし秘密を漏洩した場合は、北朝鮮憲法10条1項の違反によって罰せられると言うのです。6ヵ月の病気釈放が決まったのですが、栄養失調でぼろぼろになった身体では、一人では起き上がる事も、歩く事もできなかったので、私を車で伯父の家に送りました。家に着いても、保衛部要員が私の体を家の中まで運び込むほどでした。皆が私の状態を見て、いつ死ぬか残りの日数を数えていたほどでした。私は伯父の監察保護下にありました。その理由は、伯父が熱心な労働党の支援者で純朴な北朝鮮式社会主義の信奉者だったからです。毎朝保衛部に、私の状態を報告するために出かけて行きました。伯父は、このような状態では何を与えても死んでしまうだろうと言いながら、1日3回グラス一杯の豆乳を私に飲ませ、トイレのたびに私の体を運んでくれました。数日しても私は回復しませんでした。一人しか家にいない時、台所に這って行って辛みと塩分の効いたキムチを食べました。すると次の日、体中がむくみ始め、瞼があかなくなってしまいました。私のやせ細った足は倍位太くなり、指でむくんだ脚を圧すと半分くらいまで指が埋まってしまいました。むくみが収まると元のサイズに戻りましたが、私の顔は9カ月前ロシアのテレビに映った顔とは似ても似つかない、全く違った現在のような顔になってしまったのです。

 始終病床にいて、他の6人の脱北者、中国での生活、北朝鮮の拘留所の状態を知らせる事などを考えると気が狂いそうでした。 絶望的な気持ちと、またいつか逮捕されるという恐怖感とでいっぱいで、自殺を図りました。伯父の引き出しにあった鳥を捕らえる毒薬を見つけ、スプーン一杯を水と一緒に飲みました。それは自分が死ぬのに充分な量でした。喉と腸が焼けるように感じて気を失いました。目が覚めると安全員(警察)と伯父に囲まれて病院のベッドの上にいました。病院に3日間入院していましたが、自殺を断念する事はできませんでした。一週間後に安全ピンの平たい部分を取り去り、針のとがった部分を曲げ、尖った部分は紙で包んで飲み込みました。紙は体内で融け、ピンが胃の内部を引っかき始めました。すごい痛みが襲ってきました。異変に気づいた伯父は、ただちに薬草を煎じ、私に飲ませました。私をベッドに縛り付けた上で二回、その漢方薬を飲ませ、吐き出させたのです。次の日のX線検査でピンが体外に出たのを確認し、5日後に退院しました。数日後、冬の衣類から作った丈夫なロープを自分の首にかけ、一方の端を壁の釘にかけ、窓から飛び降りて自分の首を吊るそうとしたとたんに、伯父が部屋に入って来て、私を止めました。

 とうとう精神に異常をきたし、精神病院に入院させられました。20数日間後自分を取り戻し、病院から逃げ出して伯父の家に戻りました。それでもまだ死にたかったのです。家の中で殺鼠剤を見つけ、再び逮捕されたらそれを飲もうと、ポケットにいつもそれを隠し持っていました。トラブルになったら何時でも死ねると思うと、少し救われた気持ちを持つようになり、幾分大胆に外を歩くようになり、人にも会い始めました。その時街の人々がひそひそ話で、国家保衛部の監房で一緒だった私の故郷の前国家保衛部の最高幹部・尹大日氏が韓国に亡命し、記者会見を開いたと知りました。彼の家族は姿を消し、どうなったのか誰も知りません。もし彼が韓国に逃れたのなら、一体どのようにしてかと疑問に思いました。再び中国に脱出し、韓国人に会って私の身に起こった全ての事を話したいと思いました。中国に脱出する機会を狙っていましたが、私を監視している目があるということも分かっていました。

 2000年9月私は伯父に、北朝鮮国内で別に住んでいる姉に会いたいと嘘をつきました。伯父は許してくれませんでしたが、私は午前2時密かに抜け出し、豆満江を泳いで渡り、ナムピョン(南坪)まで歩きました。そこで親切な朝鮮族に会いました。私に同情してくれ、衣類と移動に必要な少しのお金をくれました。それで近くのホロン(和龍)市までタクシーに乗り、イェンジー(延吉)市までバスで行きました。私の知っている韓国人に会おうとしましたが、いつでも身を隠していなければならない立場で、市内を動き回るのは大変恐ろしかったのです。キリスト教会に行き200元(1元約15円)をもらい、以前快適な日々を過ごした事のある、遼寧省の省都のシェンヤン(瀋陽)行きの汽車に乗りました。私は死に対する恐れはありましたが、もし逮捕されても、いつでも殺鼠剤で死ねると確信していました。北朝鮮の監獄に再び戻るくらいなら、死を選ぶと考えていたのです。北朝鮮の社会のシステムには辟易していたし、制服を着た人間が視界に入るだけで恐怖のため飛び上がるほどでした。瀋陽に着くと、自分の故郷に帰ってきたように元気な気分になりました。コリアンタウンで路上自転車の修理をしているで親しかった友達を見つけて近寄ったのですが、彼は私が余りに違っていたので、誰なのか分かりませんでした。彼が最後に、私だと分かると握手をして喜び合いました。

 でもすぐにここも安全な場所ではないことが判り、8日間の瀋陽滞在で北朝鮮に戻る事を決意をしました。北朝鮮に帰ると、伯父はいつものように大変怒って、一体どこに行っていたのか糾しました。「北朝鮮のあちこちを回って、乞食をしていました」と嘘を言いました。消耗していたので、再びベッドに身を横たえたのですが、いつ安全員(警察)が私を連れ戻しにやってくると思うと、死の恐怖にさいなまれました。どうしたら生き残れるのか考えつづけ、何度も自問自答しました。「確かに韓国に行けば安全だ。しかしどうやって行くのか?」最終的にもう一度、中国で試してみよう。もし逮捕されたら、そこで殺鼠剤で死のう。神様に自分の運命を預けようと決心したのです。

 2001年4月9日、私は再び国境の河を越え中国に入りました。瀋陽に4月20日に到着し、以前からの北朝鮮人の友達に会いました。彼は私が戻って来たのを大変喜んでくれました。友達の一人が、私を捕らえようとしている北朝鮮の諜報員から貰ったという、私の写真を見せてくれました。友達は、北朝鮮のテロリストグループと中国の公安が、1万米ドルの懸賞金を私につけて追っている、と教えてくれました。別の友達は、市内の北朝鮮レストランの壁に、私の指名手配写真が貼ってあると知らせてくれました。韓国の諜報部のために働いている人も、同じ情報を確認していました。すると、北朝鮮人の友達の一人だと信じていたクワンジンが、中国の公安に私の居場所を密告してしまいました。公安が私の部屋のドアをノックした時、窓の外は狭い逃げ場しかありませんでした。やっとのことで建物の隙間に身を入れて小さな門をくぐり抜けました。夜になって私はコリアンタウンを抜け出し、別の地区に移動しました。偶然に、私に新しい希望を与えてくれるという国際的なボランティアの人々の保護と援助のもとで、ようやく安全な場所に移動できました。

 一緒に強制送還された6人の消息は今も分かりません。

 1999年11月ロシアに密入国した時、私の体重は56kgでした。ロシアの国境警備隊で1ヵ月の拘留生活の後、北朝鮮国家保衛部に着いた時は53kgありました。北朝鮮国家保衛部の拘留所から釈放された数ヶ月後に計った時は31kgしかありませんでした。中国でおよそ1ヵ月、良い栄養のある食事のおかげで48kgにまで回復しました。1年半前の56kgまで回復するには、まだ8kg必要です。残念な事に私の身長は158センチメートルです。もう少し大きくなりたかったのですが、私の成長は、北朝鮮の暗い監房の中で止まってしまったようである。


 以上が会津千里氏の記事である。これを読まれどのように感じたであろうか。「本当にこんな世界があるのか?」「可哀想だ。何とかしなければ。」「どこかのでっち上げだ。」さまざまな考え方があろう。人間というものは疑い深い動物である。素直に読める人もいればそうでない人もいる。また、ただ単に鵜呑みにすることも危険なことではある。しかし、このような証言をしている人がいるのは事実だ。

 北朝鮮が友好への道を歩んでいると容易に考えることができるであろうか?国民は食うものもなく生活している状況だ。日本の政治家・官僚は何としても日朝国交正常化をしたいと考えている。それは、名誉と利権のためとしか考えられない。国民レベルの動きが日本の政治を変える唯一の方法だ。我々が変わらなければならないのだ。

 北朝鮮難民基金 http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/toppage.htm

 救え!!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/

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五味吉夫の論考

Thesis

Yoshio Gomi

五味吉夫

第20期

五味 吉夫

ごみ・よしお

三得利(上海)投資有限公司 飲料事業部 事業企画部

Mission

日本の対アジア政策を考える

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