Thesis
1. はじめに
日本の安全保障に関する次の議論の核心は、「集団的自衛権」である。集団的自衛権は、集団防衛(同盟)を支える国際法上の概念であり(注)、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃に対して、自国が直接攻撃されていないにも関わらず、実力でそれを阻止できる権利」のことを指す。国連憲章第51条の規定では「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛権の固有の権利を害するものではない」とされ、国際法上も認められている権利であるが、我が国では内閣法制局が「国際法上、国家は集団的自衛権を持つ。わが国も主権国家として当然、それを有しているが、しかし憲法第九条に照らしてその行使は許されない」との解釈をとっており、集団的自衛権の行使は憲法上禁止されているとされてきた。この解釈のため、周辺事態の際も、自衛隊による米軍への後方支援は戦闘地域と一線を画する地域に限定され、PKO活動でも、武力の行使と武器の使用に制限が設けられて、停戦監視などの本体任務に参加できないことになっている。
このところ集団的自衛権が問題になってきているのは、特に日米同盟との関わりにおいてである。集団的自衛権は、「同盟」を支える概念なので、その行使を認めるかどうか、あるいはどのように認めるかによって、同盟間の協力のあり方はかなり大きく左右される。
集団的自衛権の問題は、ある意味非常に技術的な問題なので一般の議論を呼びにくいところであるが、実は日本が世界でどのような安全保障上の役割を果たしていくことになるかをかなりの部分決定する大きな問題である。年来の研究・研修テーマである同盟比較や太平洋地域における安全保障共同体の可能性とも密接に絡むので、本報告ではこの問題を整理して論じることにしたい。
2. 集団的自衛権をめぐる議論の高まり
このところ政界では集団的自衛権をめぐる議論が高まっている。10月に、民主党の鳩山代表がテレビ番組で「集団的自衛権をいっさい認めないという発想だと、国際的な貢献が十分に行えないことになりかねない。憲法にもしっかりうたった方がいい。」と発言したことを皮きりに、12月になって、自民党でも江藤・亀井派がや橋本派が、集団的自衛権の行使を容認する方向性を打ち出した。
こうした動きの背景に、米国のアーミテージ元国防次官補ら超党派のアジア専門家のグループが発表した次期政権の対日政策の指針となる報告書のインパクトを読み取ることはうがちすぎとは言えないだろう。同報告書は、日本重視の姿勢や沖縄に駐留する海兵隊の訓練をアジア太平洋全域に分散する方向性を打ち出す一方で、日本政府が集団的自衛権の行使は現行憲法下では許されないとの立場を取っていることが「同盟協力の制約になっている」と指摘し、政策転換を求めている。鳩山代表が集団的自衛権にはじめて言及したのは、2000年10月15日であるが、アーミテージ報告書は2000年10月11日に発表されている。鳩山氏は先の代表選では集団的自衛権行使には消極的な姿勢を示しているので、10月15日の発言は氏の路線変更を示すものであるが、それがこのタイミングで出てきているのは、アーミテージ報告書をふまえたものであると見るのが自然であろう。
このようなことを指摘するのは、鳩山氏や自民党の一部の動きが、米国と口裏を合わせたものであるとか、米国にコントロールされたものであるというようなことを言いたいためではない。鳩山氏や自民党の一部の動きは、アーミテージグループからのブリーフィングの有無はともかくとして、自発的になされたものではあろう。そもそも、アーミテージ報告書は突然現れてきたものではない。というのは、日米安保において日本の軍事上の貢献を阻害しているのは集団的自衛権の問題である、ということは、数年前から日米の一部の識者の共通了解になっており、アーミテージ報告書はその延長上に出てきたものでしかないからである。そうした流れは、有体に言えば、憲法改正は大ごとなので、その一歩前段階の集団的自衛権の解釈をゆるめることで日本が軍事的に協力できる範囲を広げようということである。憲法の解釈権は、集団的自衛権の解釈を司ってきた内閣法制局にではなく国会にあるから国会が解釈変更を行えばいいという具体的な手続き論もかねてから議論されている。
ただ懸念されるのは、日米安保協力を含む日本の安全保障政策にとって何が必要なのか、何が今後の我が国の安全保障の基本方針であるべきなのかという本質的議論が行われないまま、とにかく国際貢献や対米協力の障害になっているらしいからさしあたり集団的自衛権を認めましょうという議論になっていないかということなのである。集団的自衛権を認めることは、従来は制限されていた広範な範囲の安全保障上の活動ができるようになる、ということである。新たに可能になる広範な活動領域を、従来の安全保障政策の体系の中に位置付けるのはかなり無理がある。当初はPKOの本体任務への参加や日本への侵略や周辺事態における米軍の護衛、合同演習といった既存の安全保障政策実施上の懸案が処理されるだけであろうが、次第にそれでは収まりがつかなくなる可能性がある。集団的自衛権行使を認めるかどうかも問題であるが、どのようにそれを運営していくかはそれ以上に問題なのである。
集団的自衛権解釈の変更が推進される背景には「日米同盟をいかに堅固に維持するか」という課題があり、その問題意識を自分は共有するものであるが、集団的自衛権解釈の変更は日米関係の調整にとどまらない幅広い影響力を持つものであり、適切に集団的自衛権を行使するための条件についての議論が必要である。以下それを論じていく。
3. 適切な集団的自衛権行使の前提条件
適切に集団的自衛権を行使するための条件は、「日本の安全保障政策に対する日米関係を超える地域的な支持基盤」と「意思決定における主体性・組織としての自律性の確保」であると私は考える。これらは、「日米同盟の維持」と並んで今後の日本の安全保障政策全般を貫くべき原則でもある。
<日本の安全保障政策に対する日米関係を超える地域的な支持基盤>
日本政府が集団的自衛権について「保持してはいるが禁じられている」という解釈をとった背景には、当然第二次大戦後における国内外での自衛権制限へのプレッシャーがあったことはいうまでもない。同様の立場にある独伊ではどうであろうか。ドイツやイタリアは、NATO加盟国として、他のNATO加盟国が攻撃を受けた場合には共同して防衛する義務を負っており、その意味では元来集団的自衛権行使は禁じられていない。イタリア憲法は「他国民の自由を侵害する手段として、また、国際紛争解決の手段としての戦争は認めない」という条文があるが、湾岸戦争におけるイラク空爆やボスニア派兵を行うなど、同盟の内外を問わずNATOの活動に参加している。他方ドイツは、従来基本法によって、NATO加盟国域外へのドイツ軍の派遣はできないことになっていたが、ソマリアへのPKO域外派遣要請やユーゴ危機を受けて、ドイツ連邦裁は議会の過半数の賛成という条件付きで派遣を合憲とした。
つまり、イタリアは同盟の領域の内外を問わず従来から集団的自衛権の行使が認められており、ドイツは同盟領域内については従来から、領域外については最近になって集団的自衛権の行使が認められている。そのため、両者の例は、集団的自衛権推進論者から、日本の特異性を示すものとして引き合いに出されることがあるわけだが、独伊の例が示していることは、両国とも第二次大戦によって不信感を与えた周辺諸国との同盟関係の中で、集団的自衛権行使をそれらの国々に承認され、またその行使のありようを抑制されている、ということである。つまり、独伊の集団的自衛権行使が認められている背景には、私の用語で言えば、独伊の軍事力行使を国際社会の中で「社会化」する地域的な安全保障共同体が存在する、といるという事情がある。
対して日本は、集団的自衛権は、日米関係の変数でしかない。近隣諸国からすれば、次解釈の変更は、自分達の全くタッチできないところで、日本の軍事的活動範囲が地理的にも内容的にも拡大するということである。米国がある程度日本を抑えてくれるだろうという期待があるので、それほど大騒ぎにならないかも知れないが、下手をすると新たな不信感の火種になる可能性もある。また、日本からすれば、近隣諸国の反応にいつまでも自信が持てないことにもなり、政策の一貫性が失われることになる。
結局のところ、問題は、日本が独伊とは異なり、アジア地域において米国以外の国との間に安全保障政策に関する支持を調達する地域的な共同体を今に至るまで生み出していないということにつきるのである。現在の同盟国である以上、米国との間で集団的自衛権が問題化するのは当然である。が、集団的自衛権は、本来、我が国が、「自国の軍事力を、他国と共同しながらどのように行使していくか」ということに関わっているのであり、相手国は米国だけである必要は全くない。集団的自衛権の可能性が日米同盟の枠内でのみ議論されすぎている。独仏の間に典型的に見られるように、不幸な過去を持ちながらも安全保障上の利害を共有する国との密接な軍事関係は、両国の間に不戦共同体を形成する契機となる可能性が極めて高い。かつて敵国同視だった日米の間に戦争が考えられなくなっているのも、経済関係や日本の反省などのためではなく、同盟があったからである。すなわち、経済的相互依存や謝罪ではなく、制度化された軍事協力こそが歴史問題を解決し、異なる利害をもつ国家間に共同体ともいうべき関係を創造することが出来る、ということである。だから、我が国が国土防衛を超えて自国の軍事力を地域の平和と安定のために使おうとすればするほど地域全般の不信感を招く、という悪循環を避けるためには、少なくとも地域の友好国(韓国、フィリピン、オーストラリア等)との間で、集団的自衛権の行使にあたるような任務の共有をどう進めていくかを真剣に考えねばならない。そうしなければ、いくら日本が地域への貢献と言っても、その行為は地域から浮き上がってしまうことになる。このことは、単に効率のよい防衛とか国際貢献というテクニカルなレベルにとどまるテーマではなく、アジア太平洋に、我が国が自らを位置づけ得る「運命共同体」を築くことを根底において発想すべきテーマである。
<意思決定における主体性・組織としての自律性の確保>
集団的自衛権行使を認めることによって日本には様々な活動が可能になるが、「可能になる」という言葉が喚起するイメージに反し、それが日本の自由をもたらすとは限らない。なぜなら、それはあくまで「集団」で活動する領域の増大を示すのであり、端的に言って、日米同盟や国連の「枠内」で、日本が行動を要求される領域の増大に繋がるものだからである。従来のような「国際貢献のため」とか「対米協力のため」という曖昧な方針では、増大する国外からの要求を、日本の国益を増進するような形で取捨選択することはできないだろう。
また、オペレーションレベルについても、従来自衛隊は(まさに集団的自衛権不行使という解釈のため)指揮系統や活動内容について米軍との統合性、共同性が低かったが、そのしばりがなくなるということは、共同作戦の相手の米軍に左右される度合いが強まるということでもある。もちろんこれについてはお互い様とも言えるのだが、日本側の現在の体制を考えると、自主防衛の能力が米軍との統合の深化によって侵食されないかやや不安がある。米軍がいないと何もできない、ということでは困るわけで、国土防衛については一定範囲で独力対処する能力を確保しつづける必要がある。
集団的自衛権行使を認めることによる国外からの要求や共同任務の増大にも関わらず、日本が安全保障政策における自律性や主体性を適切に維持できるようにするためには、両者をともに満足させるような意思決定や組織における変革が不可欠となろう。
4. 求められるグランドデザイン
集団的自衛権をめぐる論議は、それを認めるか否かというオ?ルオアナッシング的な議論に陥りがちであるように思われる。しかし集団的自衛権が認められるのだとしても、例えば他国に出ていって武力行使することのように、憲法上はもちろん、政策的にも適当とは言えない領域もあり、新たな線引きが必要になるはずである。そうした線引きは、我が国が今後どのような安全保障政策をとっていくのか、というグランドデザインがなければ、その都度の事情に引きづられてずるずると行われていくことになる。よしんば政策に柔軟性をもたせるために内容的な制限を行うことは避けたい、ということであっても、解釈の暴走を防ぐための制度を確立しておかないと、戦前の統帥権の(しかも貧弱な)二の舞になる。いずれにしても、結局は、我が国が今後軍事力をどのように、どのような安全保障秩序を目指して使っていくのか、ということを、きちんとした制約を織り込みながら確立していくことが重要なのである。
本報告では、そうしたグランドデザインを基礎づける条件として「日本の安全保障政策に対する日米関係を超える地域的な支持基盤」と「意思決定における主体性と組織としての自律性の確保」について述べた。これらの条件を組み合わせながら、「太平洋安全保障共同体」を構築していくことが日本の安全保障政策のメタフレームとなるべきだと、日本の国益を踏まえた上で考えている。このところ米軍太平洋司令部から提案されてきている同様の概念の検討とあわせ、塾報に試案を述べているので関心のある方はそちらを参照されたい。
(注) | 集団的自衛権は集団防衛(端的に言えば同盟)の基礎になる国家の権利であるが、集団防衛は集団安全保障とは異なる概念である。近年では、さすがにアカデミズムでは両者を混同するケースはみられないが、メディアや政治家の議論では混同されるケースが散見される。 簡単に言えば、集団防衛は、同盟国に対する外部からの武力攻撃に際して、それを自国への攻撃とみなして同盟国が共同して実力により阻止するものであり、集団安全保障は「国連軍」に代表されるように、多国間条約で加盟諸国間の武力行使を禁じた上で、違反国に加盟国が一致して制裁を加えるものである。 |
ちなみにキッシンジャーは『外交』の中で、集団防衛(同盟)と集団安全保障の概念を180度反対のものであるとして、以下のように述べている。
伝統的な同盟は特定の脅威に対するものであり、それぞれ国益を共有するかあるいは共通の安全保障上の懸念を有することによって関係づけられた特定の国家間の義務を正確に定義づけるものであった。これに対して、集団安全保障は特定の脅威を定義づけず、特定の一国に保証を与えるものでない半面、どの国も差別しなかった。集団安全保障は理論上、どの国によってなされようが、またそれがどの国に向けられたものであろうが、平和に対するいかなる脅威にも対抗するためにつくられるのである。同盟はいつも特定の潜在的敵国を仮定しているのに対して、集団安全保障は国際法を一般的に守るものであり、それはちょうど国内で司法制度が刑法を支えているのと同じように、国際法を支えようとしたものである。それは国内法と同じように、特定の犯人を想定しているわけではないのである。同盟においては、開戦理由は同盟国の国益あるいは安全に対する攻撃であった。集団安全保障の開戦理由は、世界のすべての国民が共通の利益を有しているとされる紛争の”平和的”解決の原則の侵害である。それゆえ、必要な軍事力はその都度その都度、平和維持に共通の関心を有する国家群から集めなければならないのである。
Thesis
Masafumi Kaneko
第19期
かねこ・まさふみ
株式会社PHP研究所 取締役常務執行役員/政策シンクタンクPHP総研 代表・研究主幹
Mission
安全保障・外交政策 よりよい日本と世界のための政策シンタンクの創造