Thesis
この10月15日~18日、札幌で開催されていた第6回障害者インターナショナル世界会議札幌大会に参加してきたので、この札幌大会を通して感じたことを述べたい。
1.障害者インターナショナル(以降、DPI)について
(1)世界規模のネットワーク
DPI=Disabled People’s Internationalは、「われら自身(障害当事者)の声」をスローガンに国際障害者年である1981年12月に、シンガポールに世界53カ国の障害者団体が集まり結成された障害当事者による国際組織である。
このDPIが結成されるまで、障害者の生活にかかることはすべて、医師やリハビリテーションの専門家など、障害当事者以外の人たちが決めていたが、DPIは障害者のことは障害者自身が決めるという信念をもとに結成された団体である。
世界本部は、カナダのウイニペグにあり、現在、DPIには、全世界150カ国以上の団体が加盟し、アフリカ・アジア太平洋・ヨーロッパ・ラテンアメリカ・北アメリカとカリブ海の5ブロックにより構成し、それぞれの地域で様々な活動を行っている。
DPIの影響力は大きく、国連経済社会委員会(ECOSOC)、世界保健機関(WHO)および国連教育科学文化機関(UNESCO)の諮問機関であり、国際労働機関(ILO)でも協力関係にある団体として特別リストに掲載されている世界最大の障害当事者による非政府組織(NGO)である。
(2)クロス・ディスアビリティな組織
日本では障害者というと、「身体障害」「知的障害」「精神障害」という具合に大きく3つに分類される。しかし、DPIは、こういった「○○障害」といった枠組みを取り払い、障害を個人の問題や医学的な問題としてではなく、個人とそれを取り巻く環境との関係で捉え直して活動する組織である。すなわち障害種別を越えて、「クロス・ディスアビリティ(障害が交差する)」組織である。
2.DPI世界会議
DPIは、ワールドカップやオリンピックと同じく、4年に1度、福祉・人権・平和・環境・女性などの各分野が抱える課題について、世界の障害者の視点で考え、行動提起をするDPI世界会議を開催している。
開催国・参加者数・参加国数は以下のとおり
回 | 開催時期 | 開催場所 | 参加者数 | 参加国数 |
第1回 | 1981.12 | シンガポール | 350名 | 53カ国 |
第2回 | 1985.9 | ナッソー (バハマ) | 450名 | 不明 |
第3回 | 1992.4 | バンクーバー (カナダ) | 1000名 | 1000カ国 |
第4回 | 1994.12 | シドニー (オーストラリア) | 800名 | 1000カ国 |
第5回 | 1998.12 | メキシコシティー (メキシコ) | 14000名 | 76カ国 |
<14日 大会前日>
羽田にて
私は前日に羽田からAIRDOで札幌入りした。羽田でAIRDOの搭乗案内が定刻になっても始まらず、5分過ぎても始まらなかった。
添乗員の説明によると、車椅子の利用者がとても多いため、その方たちの搭乗が終わらないために案内できない。終わり次第、搭乗を開始するということだった。
私と同じように前日から札幌に向けて移動しているのだろう。どれだけの人が集まるのだろうかと期待に胸を膨らませながら、私も搭乗した。
注:車椅子利用者は、飛行機に乗るときは一般客より先に乗る。降りるときは逆に一般客の後に降りる。
新千歳空港から札幌にて
新千歳空港にてDPI札幌大会の参加手続きを行った。札幌大会参加者は、新千歳からホテルまで無料で送迎サービスがあり、私もそのサービスを使って札幌市内に移動することにした。
私を送ってくれたのは、千歳市内にある小規模作業所の職員の方だった。約1時間の間、その職員の方と北海道のことやこの送迎のことについていろいろと話をした。もっとも印象に残った(というよりも頭を殴られたというほうが適切か)のは、小規模作業所の親やその職員の方もせっかく北海道で開催されるわけだから、参加したかったが、小規模作業所の苦しい状況では、参加料(合計40,000円)を払うだけの余裕もないので、参加できないという話だった。そして参加できないから、せめてもボランティアとして支えようということだった。
自分よりも本来なら、作業所の人たちやその親、そしてこの職員の人が参加したほうがいいのだが、参加料すら払う余裕がないという現状を聞いて、塾生として塾から活動資金をもらって参加する自分には冷や水を浴びせ掛けられたような気持ちだった。
札幌にて
ホテルに荷物を預けた後、札幌散策に出かけた。まずは大通りに向かった。明日から開催ということもあってか、街中には日本人だけでなく外国人の車椅子利用者が目に付いた。
大通りの百貨店の建物には、DPI札幌会議を成功させようという垂れ幕が飾られており、街として盛り上げようという雰囲気が漂っていた。
たまたま通りかかった商店街では、このDPI札幌会議への取り組みとして通りをバリアフリーにしたということでそのお披露目のパレードを前日の式典として車椅子の障害者たちと共に行っていた。
札幌会議が実施されるということで、バリアフリーの取り組みが札幌市内の各地で進んだということなのだろうと思いながら、そのパレードを眺めていた。歩いてみると、確かに歩道、歩道と店で段差が解消されており、この通りに関してはバリアフリーが整備されたことが分かった。
<15日~18日 大会期間中>
大会4日間の流れは以下のとおり
午前 | 午後 | 夜 | |
15日 | 開会式・基調講演 | シンポジウム | 歓迎レセプション |
16日 | 分科会(1) | 分科会(2) | 小グループによる自由討議 |
17日 | 分科会(3) | 分科会(4) | |
18日 | DPI世界会議議事 | 閉会式 | さよならパーティー |
私は、前日の14日から札幌に入り、そして18日の閉会式まで参加してきたが、この5日間で思ったことや・考えたことや感じたことを書いていきたい。
1.障害者の権利条約と障害者差別禁止法の制定を
シンポジウムの中で、世界人権宣言が宣言されたとき、その当時は障害者という言葉がなく、したがって障害者もこの人権宣言に含まれていることが想定されていなかったという話があった。だから、この世界人権宣言に基づき女性の権利条約や児童の権利条約といったものが制定されてはいるが、障害者の権利条約は制定されていないのである。
しかし、国連の統計によると現在、世界には障害者が6億人いるといわれている。全人口の約10%が障害者である。宣言の当時は分からなくても、今はDPI等で障害者自身が国内で、世界で自らの声を上げている。
世界の障害者が福祉の対象として保護されるだけではなく、人類の一員として活動するためにも、世界的には障害者の権利条約の制定が必要なのである。障害者の権利を明確にし、この条約に基づいた障害者差別禁止法を各国が制定する流れが必要なのである。
現在、障害者差別禁止法は世界45カ国で制定されている。しかし、日本では制定されていない。いわゆる先進国であるはずの日本が、障害者の人権を語る上では先進国ではないのである。
日本では、心身障害者対策基本法が1993年に障害者基本法に改められ、この基本法に基づき、ハートビル法や交通バリアフリー法、社会福祉法などの法整備が進んだが、いずれも障害者の権利の明記や差別を違法とする禁止規定がなく、努力義務を課す規定にとどまっている状態である。
また、障害者基本法では、基本理念(第3条2項)では「すべての障害者は(中略)あらゆる分野の活動に参加する機会が与えられる」と書かれている。すなわち障害者の社会参加の機会は、障害者の権利ではなく、「与えられるもの」として規定されており、社会参加が権利として保障されているものではないのである。
人間が社会に参加するというのは、だれかに許可されるものなのだろうか?人間が社会に参加するのは、人間として当然のことではないだろうか?そう考えたときにやはり、この基本法の基本理念では不十分なものである。
やはり、一日も早く障害者の権利を明確化し、そしてその権利に基づく社会参加を保障する障害者差別禁止法が必要なのである。
私自身としては、今後、障害者差別禁止法について学ぶと共に、この制定の運動に加わっていこうと考えている。
2.国政レベルでの関心の低さ
今回の大会で、非常に残念に思ったのは、DPI世界会議が札幌で開催されるにもかかわらず国政レベルでの政治家の関心の低さだった。開会式での挨拶において総理大臣・外務大臣・厚生労働大臣・国土交通大臣が挨拶をすることになっていたが、4名とも来られず、みな代わりのものによる挨拶だった。
確かに、この大会期間は全国で衆議院・参議院の補選が繰り広げられ、そして北朝鮮の拉致問題で家族の帰国ということがあり、総理大臣や外務大臣が代理のものを立てるのは仕方がないことだとおもった。しかし、厚生労働大臣や国土交通大臣はなぜ来なかったのだろうか?特に、国土交通大臣にいたっては、副大臣や政務官でもなく北海道の局長クラスが挨拶をするということで、国政レベルでの関心の低さを世界各国にさらけ出してしまう形になってしまった。
前回(メキシコ)の参加者に話を聞くと、メキシコでは大統領自身が挨拶をするだけでなく、近隣諸国の大統領も参加していたということで、メキシコ大会も参加した参加者からするとメキシコと比べると日本の国政レベルでの障害者問題の取り組みへの関心の低さがはっきりと分かってしまうものだった。
日本の障害者団体の中にも、このことに大いに嘆かれている方もいた。
日本において障害者差別禁止法の制定がなかなか進まないことが容易に推察され、国政レベルでの関心をいかに上げるかが大事であることが良く分かるとともに、それをどのようにしてやっていくのかが大きな課題であることが分かり、改めて制定の困難さを思い知らされた気がした。
3.平和の重要性 ~戦争で増える障害者~
私がDPIに参加してもっともショックを受けたのが戦争被害者の分科会だった。
正直に書くと、私にとって戦争はとても遠い世界での出来事であった。テレビの映像等で崩れた街、傷ついた人や亡くなった人を見て悲惨さは頭では分かってはいるが、それでも遠い世界の出来事に思う自分もいた。
今回、私は戦争被害者の分科会に参加したのは、自分にとって遠い世界での出来事と考えている戦争とは何か知ろうと思ってのことだった。
世界には、障害者が約6億人いるといわれている。全人口の約10%が障害者である。そしてその障害者の数は今でも増えている。
その大きな理由が世界各地で繰り広げられている戦争であり、繰り広げられた戦争の爪あとなのである。
スピーカーの一人は、アメリカ人男性だった。かれは、地雷除去の活動をおこなっているのだが、その地雷除去の活動で地雷を踏んでしまい、足を無くした障害者だった。
彼は、戦争の傷跡(地雷)が残す惨禍について話をした。
1900年代、戦争被害者というのは、そのうちの90%が戦争に従事している兵士だった。2000年、今では戦争被害者の90%が戦争に従事していない文民なのである。それは戦争が国家レベルで非常に大きくなったことと、もう一つは戦争終了後、平和な状態になったにもかかわらず被害が発生してしまうということだった。
武器はどんどん無差別化してきている。昔は軍隊同士や兵士同士を殺すレベルのものであったが、今や核兵器にいたっては人類全体を滅亡させるくらいに対象が無差別なものになってきており、兵士か文民なのかという違いが分からなくなってきている。
戦争終了後の平和な状態でも被害が発生してしまうというのは、主には地雷のことを指している。地雷禁止条約があるとはいえ、地雷除去よりも地雷が埋められるスピードのほうが早い状態だそうだ。今、世界では地雷で年間2万人が手足を失っている。22分ごとに1人の割合で地雷による犠牲者が生み出されているのである。
彼の地雷除去活動によって地雷を踏んで足を無くした経験の話と地雷の悲惨さにおもわず聞き入ってしまいながら、目の前で地雷で足を無くされている姿を見て、自分は初めて戦争の悲惨さを頭ではなく、また遠い世界の映像ではなく身近に知り、大変ショックを受けた。
障害者の問題から改めて、戦争の悲惨さや平和の重要性を学ぶことができた。来年度以降できれば私自身の目で戦争の被災地を訪れ、その現場を目にしたいと思った。
DPI世界会議札幌大会に参加して、世界中で障害者が自ら声を上げて活動していることを知り、そして、そういった人たちと語り合うことができて自分にとって本当に有意義な会議であった。来年度以降、この会議で知り合った世界各国に行き、自らの目でその取り組みを見て、ワールドワイドな視点を養成していき、私も微力ながら障害者の権利条約や日本の障害者差別禁止法制定の運動にかかわっていきたいと考えている。
Thesis
Kentaro Ebina
第22期
えびな・けんたろう
大栄建設工業株式会社 新規事業準備室 室長
Mission
「ノーマライゼーション社会の実現」