Thesis
政経塾に入塾して約3年間、私は「ノーマライゼーション社会の実現」をテーマに活動してきた。塾生最後の月例として、もともとの問題意識を抱いたところ、3年間の活動、そしてこれからについて書いていきたい。
1.幼き頃
私の小学校には養護学級があった。そして、私と同じ年の知的障害の子が記憶の中では二人いた。その子達と同じクラスになることが結構あり、その子達と一緒に遊んでいた。その子達の家に行くと必ず、どの子の母も、お菓子に、ケーキに、ジュースにと豪勢に私たちをもてなしてくれた。そのもてなしは、とても良かった。もしかしたら私はもてなしを目当てに遊びに行っていたのかもしれない。中学校に入ると、私は普通の中学校に、その子達は養護学校にと別れ別れになってしまった。その後、大学からは神戸から神奈川県に移動したため、その子達と会う機会はなく、思い出の一ページになってしまっていた。
2.漫画「どんぐりの家」との出会い
思い出となっていた経験が私の問題意識へと変わったのが、この「どんぐりの家」という漫画との出会いであった。この作品は、ろう重複障害(耳が聞こえない障害に加えて、他にも知的障害などのさまざまな障害があることを意味する)の人が生まれ、育っていき、その過程の本人を含めた家族の話と、ろう重複障害者のための入所授産施設「ふれあいの里 どんぐり」を作っていく運動を描いた作品である。ろう重複障害で生まれたがゆえに、周りからいじめや差別を受ける話や、そういったいじめや差別で家族が崩壊しかけるような話などが書かれていた。
大学1年生のときにバイトの休み時間に読んでいた漫画雑誌にたまたまこの漫画が掲載されていた。この漫画を読んで、私は幼きころのことを思い出し、そしてそれが自分の問題意識へとつながっていったのである。私と同じ年の知的障害を持った子どもの親が、私たちを豪勢にもてなしてくれたのは、そうやって子どもと私たちをつないで置きたいと願っていたからなんだということを分かり、こういった漫画のような悲劇的な話や、私たちを豪勢にもてなしてくれた親の苦労をなくしたいと願ったのが始まりであった。
ただ、その当時はまだノーマライゼーションという言葉には出会っておらず、こういった状況をなくしたい。そんなことしなくても仲良く生きていける社会にしたいんだという願いだけであった。
1.「ふれあいの里 どんぐり」での研修
一年目の7月に3週間の現場体験実習の期間が与えられた。このとき私は漫画で読んだ「どんぐり」で研修をさせてもらおうと決心をし、ろう重複障害者入所授産施設「ふれあいの里 どんぐり」で3週間の住み込み研修(注)を行った。
利用者と同じフロアで寝食をともにし、利用者とともにペットと缶の仕分け、缶についてはアルミとスチールの仕分けを真夏の炎天下の中で行った。夏の暑さで蒸された甘くさいにおいの中の作業はつらく、しかも時給に直すと80円程度と、いろいろな意味で悪条件の仕事であった。コミュニケーションについては、私は手話ができなかったので、筆談で話をしたり、ワープロでお互いに文章を打って話をした。ただみな手話で話をして笑ったりするので、それが分からないで困ったりもした。
3週間研修をしていくうちに、利用者本人から本人の人生の話を聞き、また職員から家族や本人、そして入所の経緯を聞くことができた。利用者本人からはもともと工場で働いていたが、リストラにあって、その後紆余曲折を経て入所したということで、「どんぐり」ではパン作りを仕事としているが、工場勤務時代は20万円くらい収入があったのが、現在では2万円しかなく、楽しむことができないし、やっぱり働きたいという話をしてくれた。職員の話からは、入所する人たちからは、やはり障害ゆえに差別を受けたり、場合によっては家族からも見捨てられるような形で入所するケースもあることや、今でのこの施設に入りたい人が30人以上待っていることも教わった。
漫画を読んだのはこの研修の9年以上前だったが、漫画での現状がそれほど変わっているものでないことを知らされた研修であった。この研修を通して私は、「障害があっても、社会に出て、働き、収入を得て、生活する。」これができる社会にしたいと考えるようになった。この研修を機に私は本気でこのテーマに取り組んで行こうと決心をした。
(注)研修の詳細は現場体験実習2001年度を参照
https://www.mskj.or.jp/kanso/ebinaout0107.html
2.ノーマライゼーションとの出会いと私の定義
(1)ノーマライゼーションとの出会い
その後、神奈川県や関西地区での作業所をめぐる現場研修をしていきながら、いろいろな文献・資料を読むうちに出会ったのが、「ノーマライゼーション」という考え方であった。
このノーマラーゼーションという考え方は、デンマークのバンク-ミケルセン氏が、知的障害者へのあり方に対して提唱したのが始まりといわれている。1959年法の中で「障害のある人たちに、障害のない人々と同じ生活条件を作り出すこと」と提唱した。その後、スウェーデンのベングト・ニィリエ氏が、ノーマライゼーションの原理を体系化し、プログラムを作成し、育て上げた。彼は、ノーマライゼーションの原理を以下のように定義づけしている。
「ノーマライゼーションの原理とは、生活環境や彼らの地域生活が可能な限り通常のものと近いか、あるいは、全く同じになるように、生活様式や日常生活の状態を、全ての知的障害や他の障害を持っている人々に適した形で、正しく適用することを意味している」 その後、この考え方は障害者政策の重要な考え方として世界に広まり、現在では、「障害をもつ人も、持たない人も、地域の中で生きる社会こそ当たり前の社会である」と定義づけされている。私もこの言葉だと思い、そしてテーマを明確に「ノーマライゼーション社会の実現」とした。
(2)私の定義
活動を展開していく中、障害者福祉の世界だけでなく、高齢者福祉の世界も見ていくうちに、「ノーマライゼーション」の考え方は、単に障害者福祉の問題だけにとどまるものではないのではと考えるようになった。社会から阻害されるのは障害だけでなく、さまざまな理由があり、年齢もその一つではないだろうかと考えたからである。そして、私なりの定義を考えなければいけないと思い出し、2年目の初めにあたった私は以下のように定義づけをした。
「生きていく上で、すべての人が自立し、自律できることによって、矜持をもつことができるように社会の諸条件を整えること」
私の考えについてもう少し補足すると以下のとおりである。
私の考える「自立できる社会」とは「障害があろうとなかろうと、また年齢や性別も問わず、すべてのひとが、お互いのことを一個人として認め、お互いを尊重しあい、支えあうことができる社会である。」
私の考える「自律できる社会」とは「障害があろうとなかろうと、また年齢や性別も問わず、すべてのひとが、自分がやりたいと思い、行動できる社会である。自らが選択できる社会である。」
私の考える「矜持をもつことのできる社会」とは「障害があろうとなかろうと、また年齢や性別も問わず、すべてのひとが、社会のために働き(労働だけを指すのではない)、社会の一員として、社会を支えているんだと感じることによって、自らが必要な存在であると認識できる社会である。」
この定義をもとに更なる現場実習を2年目以降は展開した。
3.活動報告
(1)投票所バリアチェック10,000ヶ所全国運動
すべての人が社会に出てくることができるようにするには、今あるバリアを取り除かなければいけない。バリアを具体的に検証し、そして取り除くために動く活動として取り組んだのが、この「投票所バリアチェック10,000ヶ所全国運動」である。
私は、投票は社会参加の基本的な権利だと考えている。この権利が憲法第15条で基本的人権の一つであり。すべての人(特に有権者)に保障されているものである。すべての有権者が確実に投票できることが保障の最低限である。もしそうでない場合、その状態は最低限の保障を守っていない状態であり、すべての人が投票を通して社会に出てくることができない“バリア”のある状態でといえないだろうか?
大阪の福祉団体とともに「投票所バリアチェック10,000ヶ所全国運動」実行委員会を結成し、私は事務局長として、2003年4月の統一地方選挙を題材に有権者から投票所の現状(バリア)をチェックする運動を展開した。残念ながら、10,000ヶ所とうたいながら、実際には全国から1,076ヶ所しか集めることができなかったが、その結果を集計し、総務省に結果報告を行い、現状の改善を要求した。この7月には参議院議員選挙が行われるので、どのように変化したのか検証したいと思っている。
(2)ユニバーサルデザイン活動
ア.バリアフリーへの疑問、そして、ユニバーサルデザイン
はじめのうち「バリアフリー」を学んでいたが、実はこの「バリアフリー」に疑問を抱くようになった。それは、考え方にではなく、その考え方の結果の対応についてであった。たとえば、車椅子専用エレベータのようなものだが、エレベータは何も車椅子専用である必要性はない。大きな荷物を抱えた人や妊婦、足の悪い高齢者にとっても助かるものである。しかしなぜ車椅子専用でないといけないのだろうか...こういった障害者だけへの特別な対応は、かえって障害者を特殊な存在としてしまい、他の人たちの心にバリアを作らせる結果になってしまうのではないだろうか?
この疑問にぶつかって悩んでいたときに出会ったのが、ユニバーサルデザインである。この考え方はアメリカの故ロナルド・メイス氏が提唱したといわれるもので、「すべての年齢や能力の人々に対し、可能な限り最大限に使いやすい製品や環境のデザイン」というように言われている。バリアフリーと同じように聞こえるかもしれないが、バリアフリーは、社会に出て行くことにバリアがある高齢者や障害者をターゲットにしている。ユニバーサルデザインは、バリアフリーのように高齢者や障害者をターゲットにして対応をするというのではなく、みんなにとっていいものを考えようという発想であり、ターゲットは人間一人一人であり、一人一人のさまざまなニーズを取り組んで対応することなのである。私は、この考え方に共鳴し、そして広めたいと考えるようになった。
イ.ユニバーサルデザイン体験IN茅ヶ崎のプロデュース
この考え方を知らない人たちにどうやって分かってもらおうか?そう考えたときに思いついたのが、ユニバーサルデザインに取り組んでいる企業や団体の食器や文具や家具を集め、一つの日常生活的な空間を作り、実際に体験してもらう中で自分の生活とユニバーサルデザインな生活を比較してもらう形で理解してもらおうということであった。
NPO法人日本ユニバーサルデザイン検定協会の事務局長として理事長とともにこのイベントをルミネ茅ヶ崎において、2003年9月22日・23日に開催をし、茅ヶ崎をはじめとする湘南地域の方1,000名以上に体験してもらうことができた。その後、茅ケ崎市社会福祉協議会からこのNPO法人にユニバーサルデザインの講座の依頼も来たように広めることができた。
1.人の願い
私は人の基本的な願いを以下のように考えている。
年齢・性別・能力・状態に関係なく、どんなバリアを感じようとも、人は社会の中で、力を発揮したいと願うのではないだろうか?」
しかし、今までの社会はこの基本的な願いが満たされた社会なのだろうか?
2.私の社会認識
私は違うと考えている。今までの社会は極端な言い方をすると、健康な成人男性を中心とする社会であったといえるのではないだろうか?
経済効率を追求するために、社会資本を整備する上で最小限のコストに抑えるため、一番配慮が少なくてすむ健康な成人男性に合わせて社会のさまざまな仕組みが作られた。そして、とても多くの配慮が必要な存在を社会的弱者とし、弱者保護の名の下に施設保護という形で社会から隔離するような福祉政策を採ってきたのが日本社会である。確かに前提として人口が増加する(成人男性の人口が増える)というのがあったがゆえに、この社会の仕組みは成立していた。しかし、少子高齢化の時代、成人男性が増えない時代に突入している。前提は崩れ、健康な成人男性だけでは社会が支えられないのである。
加えて、この経済効率を追求しすぎるがあまり、自分たちがやっていたことをどんどん外部化し、社会化していき、その結果として地域コミュニティが崩壊してしまった。
また、家族制度についても大家族から核家族、個の時代へ、そして、高齢者の孤独死、蔓延するうつ病、子どもの理解不能な犯罪などのように、その個の時代も孤独の“孤”の時代に変わっている。
以上のように、成人男性中心で展開されてきた社会、経済効率の結果、地域コミュニティが崩れ、人のつながりが希薄になってしまった社会というのが私の認識であり、それゆえに人の日本的な願いは満たされていないと考えている。そしてこれを解決するには、すべての人がともに働き(協働)、ともに地域・社会を創る(共創)が必要だと考えている。
3.私の「ノーマライゼーション」の再定義
3年間で形成された社会認識をもとに改めて私の「ノーマライゼーション」を定義しなおすと以下の通りである。
「年齢・性別・能力(障害)・状態(疾病・傷害・妊娠等)に関係なく、その違いを認め、すべての人がともに働き(協働)、そしてともに社会を創る(共創)できるようにすること」
そして、私はこの定義をもとに取り組むべき要素は以下の3つだと考えている。
私は3年間の活動で定義づけた私流の「ノーマライゼーション」の定義を胸に、その実現をするために、「誰もが社会へ」「コミュニティの復活」「働くことのできる仕組み」づくりにまい進していきたい。「投票所バリアチェック10,000ヶ所全国運動」についても今年は参議院議員選挙があるので、全国で展開していくつもりである。ユニバーサルデザイン普及活動についても講演や体験イベントの実施を通じてやっていくつもりである。年齢問題については、「生涯現役推進協議会」の発足に関わっているのでここで、年齢に縛られない社会や定年の自由のある社会を目指して活動していきたい。「障害者就労」については、神奈川県でNPOと大学の先生とともに取り組みを始めている。一つのロールモデルとなるものを作り上げることができればと思っている。「地域コミュニティ」の復活については、地域通貨を使っての活動を展開しようとしている。
3年間、本当に社会を変えるという意味ではまだまだ何も果たしてはいないし、果たすこともできなかった。実際には学ぶ一方の3年間であったが、これからは少しでも形にしてロールモデルを作っていき、「ノーマライゼーション都市モデル」を作り、それを国に、そして世界へ広げていくように努力していきたい。
最後に、私が卒塾式の決意表明で述べたことを書いておきたい。本番では原稿なしで望んだため、一瞬空白になって飛ばしてしまったところもあるので、抜けているところもあるが、全文を掲載し、読者の皆様への決意表明としたい。
<3月7日 卒塾式 決意表明>
私は思っている。
人は、いくつだろうと・男であれ女であれ・障害があってもなくても・怪我や病気であったとしても、みな社会の中で生き、力を発揮したいものであると私はそう思っている。
私は信じている。
これら年齢・性別・能力・状態の違いを互いに認め、ともに働く、協働と、そしてともに創る、共創による共生社会ができることを、私はそう信じている。
日本は、戦後、お金に極端な価値を置き、発展を目指してきたのではないだろうか?
それはあくなき経済効率の追求・スピード化であった。その結果、そのスピードに対応できないものを社会的弱者として弱者保護の名の下、社会から隔離してきた。また、あくなき追求は、自分たちのやるべきこと(治安・消防・水道・ゴミ・はては子どものしつけまで)を社会化・外部化し行政にゆだねた。その結果、人と人のつながりは希薄になり、地域コミュニティは崩れてしまった。そして家族制度も大家族から核家族から個人へ、そしてその個は、今や孤独の孤に変わってしまっているのではないだろうか?高齢者の孤独死、子どもの理解不能な犯罪、引きこもりなど、まさに孤独の孤になってしまったのではないだろうか?
私はこのような社会をどうにかしたい。すべての人がその基本な願い、社会の中で生き、力を発揮することをかなえられる社会にしたい。そのような想いから松下政経塾に入塾した。
3年間の学びの中で、行き着いたのは、社会の中の様々なバリアを取り除く(バリアフリー)・新しい仕組みについてはできる限り始めからバリアのない状態にし、すべての人が使用可能とする(ユニバーサルデザイン)、そして人と人とのつながりを地域のかかわりの中で蘇らせること、“働く”ことの再確認とその環境整備であった。
3年間、長いようで短かった。このような思い、志だけのスタート、始まりの期待と、できるのかという不安交じりの中、本当にいろいろなことを学ぶことができた。それは本当に多くの人の助けや導きのおかげであった。私の研修・生活を支えてくれた松下政経塾職員の皆様、私を磨いてくれた塾の先輩・同期・後輩の皆様、私を指導してくれた先生の皆様、私を育ててくれた塾外の皆様、それぞれに感謝をしたい。そして、このようなチャンスをくれた松下幸之助塾主に感謝したい。それ以上に、私の思いを、わがままを支えてくれた両親・家族に感謝したい。
卒塾にあたり、初心に戻り、新たな出発としたい。
私はこんな社会を創りたい。
一つ、子供たちが自分たちの将来に対して夢を抱き、希望をもてる社会
一つ、大人たちが生き甲斐・働き甲斐を大いに感じて働ける社会
一つ、老人たちが自分たちのやってきたことに十分な達成感を感じ、老後を楽しく謳歌できる社会
一つ、障害者たちが保護されるだけの対象ではなく、社会の一員としてともに働ける社会
3年間、私はこの想いに正しくあった。そしてこれからもこの想いに正しくありたい。
このような社会を創ることで、皆様へ、そして社会への恩返しとしたい。
ありがとうございました。
Thesis
Kentaro Ebina
第22期
えびな・けんたろう
大栄建設工業株式会社 新規事業準備室 室長
Mission
「ノーマライゼーション社会の実現」