昨年から、私は、「ノーマライゼーション社会の実現」をテーマに活動をしている。ノーマライゼーション社会にとって、障害の有無にかかわらず社会参加できることはとても大切なことである。
しかし、現実に社会参加するためには、いろいろなバリアが存在している。段差・階段・トイレなどいろいろなバリアがある。そしてそれを許容できるものとして受け入れている社会がある。
私は、老若男女や障害の有無を問わず社会参加を保障するために、このバリアを国や行政は責任を持って排除しなければならないと思っているので、その点でバリアフリーというのはすばらしいと思っていた。
だが、これまでの活動を通じて、私はバリアフリーに対して疑問を抱くようになった。そして、疑問を抱いているときに、その疑問を解く鍵としてユニバーサル・デザインに出会った。
今回は、バリアフリーへの疑問とそれを解いたユニバーサル・デザインについて書いていきたい。
◆私が疑問を抱いたわけ ~特別な対応、特殊な存在~
1.背景
私には、鎌倉で市議会議員をしている友人がいる。彼は脳性まひで障害者一種一級という日本では一番重度な障害の分類に入っている。彼は生活全般や電車等での移動には介助が必要である。移動については、電動車椅子を自らの左足で運転しながら行う。私は活動の介助でときどきではあるが、彼に関わっている。彼との関わりの中で、交通機関を使って移動するときに抱いた不快感から、バリアフリーに対して疑問を抱いたのである。
私は、バリアフリーの理念に対しては疑問を抱いているのではない。バリアフリーの理念が具現されたものや方法に疑問を抱いているのである。
2.私が抱いた疑問の瞬間 その1
はじめに、私が介助の経験を通して、実際に体験したことからのバリアフリーへの疑問を書いていきたい。
電動車椅子の彼にとって、エレベーターがあれば、エレベーターを使えばいい。しかし、それがない場合、どうやってこの階段の段差を乗り越えるのだろうか?
この場合、駅員を呼んで、階段の片側につけられている昇降機で上がるか、エスカレーターで上がるかになる。
この昇降機やエスカレーターを使って階段を上がるとき、私はバリアフリーへの疑問を感じたのである。
まずは、昇降機の場合について書く。JR等で階段の横に白い機械がついている。それが昇降機である。これを使う場合は、車椅子利用者はそこに乗り、駅員は落ちないように処置を行った後、ゆっくりとその昇降機を駅員が動かす。
この動かしている間、階段を利用するほかの人たちは立ち止まり、そしてその様子をじっと眺めている。車椅子利用者は昇降機を使って、階段を上り下りする姿を見られることになる。私も一緒に乗ったことがあるが、この見られることが正直とても不快だった。
ちなみに、この昇降機は、車椅子利用者以外は希望しても利用できないことになっているそうで、川内美彦氏の著書「ユニバーサル・デザイン」の中で、車椅子利用者である川内氏が駅員対応を受けているときに足に不自由な高齢者が利用したいと希望したが、車椅子以外の方は利用できないと断られる内容の話が掲載されている。
次に、エスカレーターの場合について書く。駅員にエレベーターの対応を受けるとき、駅員はまずエスカレーターの両側をロープのようなもので仕切る。それから駅員はエスカレーターを止めて、車椅子対応用に変更を行い、車椅子利用者を乗せたら、後は自動で上り下りする。
この対応をしている間、このエスカレーターは、その車椅子利用者以外は利用できなくなってしまう。したがって、普段利用できていたはずが、急にできなくなってしまうため、利用者達は不機嫌そうに階段へと足を向ける。場合によっては、仕切っただけで、エスカレーターが止まっていない段階だと、仕切りを乗り越えて強引にエスカレーターに乗り込む人もいる。そして使用している間、そのエスカレーターを興味深そうに覗き込んで見る人もいる。私にとってこの覗き見られている様子を見るのはとてもいやな気持ちだった。
この不快な感情を抱くたびに、私はバリアフリーの実現のされ方について疑問を抱くようになった。
3.私の抱いた疑問の瞬間 その2 ハートビル法や交通バリアフリー法の制定によって、バリアフリーへの関心が高まり、街中のいろいろなところで車椅子のマークを見かけるようになった。逆にそのマークをよく見かけるようになって抱いた疑問について書きたい。
二枚の写真は、駅等でよく見かけるものであるが、
横長の写真は、ある駅のトイレで車椅子専用のトイレとなっている。
縦長の写真は、ある地下鉄のエレベーターであるが、これは「車椅子専用エレベーター」とデカデカと張り紙がしてある。
なぜ、車椅子専用としてしまうのだろうか?
車椅子専用のトイレは、一般のトイレよりもかなり広い。例えば、小さい子を連れた人が、自分自身がトイレをする際にこのトイレを使うことができれば、自分がトイレをしている間でも子供を近くに置けるので安心してトイレができるのではないだろうか?オシメ交換のときにも役立つだろう(これはすでにできるところも結構ある)。
エレベーターも、車椅子利用者だけではなく、例えば、トランクを抱えている人や、ベビーカーを利用している人、車椅子利用ではないが足の不自由な人にとっても助かるものであり、使いたいものである。しかも、この場所のエレベーターは、もともと業務用を車椅子専用に転用したため、車椅子専用であっても、車椅子利用者は自由に使うことができない駅員対応のエレベーターである。
私は、この限定された表示を見るたびに、必要性を感じながらも、なぜ、限定しないといけないのかと疑問に感じるのである。
4.抱いた疑問とは 急速な高齢化の進展や、ノーマライゼーション理念の浸透から、高齢者・障害者の社会参加を保障することが求められている。しかし実際に社会参加するためにはバリアが存在している。社会参加を実現するためにそのバリアを取り除くという意味でバリアフリーは当然やるべきものであり、その理念はすばらしいものである。しかし、現実にバリアを取り除く方法として、特別の対応をしているというのが問題なのである。
階段の例では、階段を上り下りするという、ごくありふれた行動でさえも、その特別な対応のために、特殊な存在として見られてしまうことになっているのである。
写真で例を示したトイレやエレベーターについても、同じである。単に車椅子利用者だけでなく使えれば助かる人はいるのである。それを車椅子専用としてしまうと、他にそれが使えれば助かる人がいても使ってはいけないということになるのである。
私は、バリアフリーの理念は大切だと思っている。ただそれを実施する上で、いままでバリアで困っていた人たちだけを特別に扱ってしまうところに疑問を感じるのである。それは特別な対応をした結果、その人たちは特殊な存在として社会に出てきているだけになってしまうのである。だから、当たり前の行為も、人たちは奇異の目でその行為をしている人を見ることになってしまうのである。すなわち、心の部分については、バリアはフリーにはならず、場合によっては特殊な存在としてバリアを再生産している可能性もあるのではなかろうか?
これでは、本当に社会に溶け込んでいると言えるのであろうか?
バリアフリーという言葉自体は80年代からすでに日本に導入された言葉だと聞いている。確かにはじめの頃は、バリアをなくすために特別な対応をするということで仕方がないことだとは思うが、そろそろその価値観を変化させるときなのではないだろうか?
◆だからこそ、ユニバーサル・デザイン ~みんなのニーズ・多様なニーズ~
バリアフリーの実施面で悩んでいるときに出会ったのが、この「ユニバーサル・デザイン」である。私は、このユニバーサル・デザインの思想を聞き、そしてその実現方法を聞いて、これこそバリアフリーによる特別対応から新たな方向に導くものだと実感したのである。
ユニバーサル・デザインとは、「すべての年齢や能力の人々に対し、可能な限り最大限に使いやすい製品や環境のデザイン」というように言われている。バリアフリーと同じように聞こえるかもしれないが、バリアフリーは、社会に出て行くことにバリアがある高齢者や障害者をターゲットにしている。ユニバーサル・デザインは、バリアフリーのように高齢者や障害者をターゲットにして対応をするというのではなく、みんなにとっていいものを考えようという発想であり、ターゲットは人間一人一人であり、一人一人のさまざまなニーズを取り組んで対応することなのである。
社会にはいろいろなニーズをもった人間が生きている。そのニーズは年齢・性別や障害の有無だけで変わるのではなく、そのときどきの自らの状態によって多様に変化する。ユニバーサル・デザインは、バリアフリーのように障害者・高齢者に対する特別な対応・配慮ではなく、社会全体の要請に応えようとする思想なのである。
そして、その多様なニーズに応えるには、必ずひとつの方法でなければならないとは唱えていないのである。多様なニーズに応えうるだけの選択肢を利用者に提供し、利用者がそれぞれのニーズに従って選択可能にするデザインを言っているのである。
左側の写真は、車椅子表示もついているが、「どなたでもお使いください」と表示されている。すなわち、必要に応じて誰でもつかっていいのである。利用者を限定しているのではない。また、これは先ほどのエレベーターと違って、利用時に職員を呼ばなくても使用できる。
右側の写真は、エスカレーターとスロープと階段があり、どれを使うかは利用者の選択に任されており、スロープは車椅子利用者専用のような表示はなされていない。
どちらも高齢者・障害者に限定した特別な対応のものではなく、多様なニーズに応えるための対応を行っており、高齢者・障害者も他の人たちと同じように(特別な形でなく)利用できるのである。
ユニバーサル・デザインとは、このように特定の人間のための特別な対応ではなく、多様なニーズに応えることを前提に対応するデザインなのである。
私が目指すノーマライゼーション社会は、障害の有無や年齢・性別など関係なく、誰もがごく普通のことを普通にできるようにすることである。
確かに、まだ特別な対応・配慮が必要なことは認めるが、障害者や高齢者に特別な対応・配慮さえすればいいという考えを前提に社会の整備をするかぎりは、いつまでたっても本当の意味での社会参加は実現されないであろう。なぜなら、特別な対応を受けている人を見て、その対応を受けない多くの人は、意識的か、無意識的かに関わらず、特別な対応を受けている人は自分達と違う存在であると思うからである。だからそのような場面に出くわすと奇異の目で見てしまうのである。
ユニバーサル・デザインの考え方は、いろいろな人の多様なニーズに応えようとする取り組みであり、障害者・高齢者に対する限定的な対応ではなく、すべてを包含して考える対応なのである。
そういった点で、私はバリアフリーという考え方から、ユニバーサル・デザイン的な考え方に社会が変わらなければならないと考えている。
次号では、この出会い、考えを新たにしていく過程で参加した国際ユニバーサル・デザイン会議で学んだことを中心に、より詳しい形でユニバーサル・デザインについて述べてみたい。
◆参考資料・研修活動
・障害者の社会的生活を良くするネットワーク 宿泊ボランティア
・障害者政治ネット 神戸例会同行介助
・佐世保 全国都市問題会議同行介助
・ユニバーサル・デザイン(著者:川内美彦 学芸出版社)