論考

Thesis

修験道 奥駆け修行記 ~日本海から太平洋まで~

今回は、8月8日(金)から17日(月)まで行ってきた修験道の修行「奥駆け」で感じたことや学んだことを報告する。

◆修験道について

 まずは、修験道・役行者・修行・奥駆けについて説明する。

1.修験道
 修験道とは、日本古来の山岳信仰に、神道や外来思想の仏教・道教などが混合して成立した、我が国独特の民族宗教である。修験道は「修行を積みて験徳を顕す道」と表現されるように、霊山幽谷に分け入って、命がけの修行をし、霊力、験力を開発する道である。
 この修験道は、7世紀の飛鳥時代に実在した役行者(えんのぎょうじゃ)もしく役小角(えんのおづぬ)を開祖とした日本独特の民族宗教である。
 (修験道の根本道場 金峯山修験本宗HP説明より引用)

2.役行者(えんのぎょうじゃ)or役小角(えんのおづぬ)
 日本の正史『続日本紀』によると、役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生した。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられている。
 やがて修行の高まりと共に、強固な精神力と、煩悩を克服した境地に達し、呪術家としての名声は天下に鳴り響った。
 699年(文武天皇3年)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言によって伊豆大島に流罪になり、701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻られた。同年6月7日68歳で、箕面の天井ヶ岳にて入寂されたと伝えられている。しかし、異説も多く、「昇天した」「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されている。その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られている。
 1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)が贈られた。
 (修験道の根本道場 金峯山修験本宗HP説明より引用)

3.修行
 修験道の開祖として尊崇される役行者に「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」という聖句が伝えられている。修験道は自ら修して、自らその験しを得るところに真髄がある。
 修するとは、役行者の教えの道を修するのであり、験しを得るとは、単に験力や神仏の加護を獲得するのではなく、究極は自らの心の高まり(菩提心)を得ることに他ならない。
 自らの身体でもってそれぞれに体験し、その精神を高めていくことが修行なのである。
 修験者は古来より峰々に分け入り、山や岩、滝、樹木、動物などの自然に宿る神霊を拝むというものであった。これを入峰(にゅうぶ)修行という。
 この入峰修行の内容は、木食行(栽培された穀類を絶ち、山野の木の実を食料とする)・窟篭もり・山林トソウ・不眠不動・水行・火生三昧とあり、はては土中入定・捨身にいたるものである。
 修行を支える重要な考え方に、「擬死再生」がある。これは峰入りし、一度死んで、苦行の中で罪を滅ぼして、新たに生まれ変わるという考え方であり、再生を繰り返しながら修験の道を極めていくのである。
 (前半部分:金峯山修験本宗HP説明、後半:修験道の本引用)

4.大峯奥駆け
 奈良県吉野から和歌山県熊野を走る大峯山系を踏破する修行である。
 この山系には、「七十五靡(なびき)」と呼ばれる拝所があり、それらを巡拝しながら、大峯山系の峰々を踏破するものである。
 この奥駆けは、全行程180キロに及ぶものであり、大半は木の幹や枝にくくりつけられたビニールテープをたよりに山の稜線伝いに踏破するものである。ところによっては垂直に近い岩場を命綱なしで鎖一本で登ったりということや、間違った道を行くと死んでしまうこともあるとても危険な修行であり、この修行をやるに当たっては生半可な覚悟ではできるものではない。

◆私と修験道の出会い

 私自身、「~道」というのは、日本の長い年月を駆けて培われてきた精神が凝縮されて、体系化されたものだと思っており、何か一つは「~道」に取り組んで、その精神を理解し、そこから日本というものを理解したいと願っていた。加えて、自分の精神を強くしたいとも願っていた。
 そんなときに、20期生の二之湯塾員から、修験道を誘われたのであった。
 日本人に生まれてきたのだから、日本のことを知らなければいけない。
 政経塾生として卒塾後にリーダー的存在として行動するのなら、人間力をもっと磨かないといけない。という誘いを受けた。
 二之湯塾員が修験道の修行をやっていることは知っており、修行を始めてからその言動や行動が変わっていく姿や日本といったものへの理解の深さに驚きを感じ、自分も何かを感得できるのではないのだろうかと修験道に取り組む決心をした。
 そして、二之湯塾員から表先生を紹介してもらい、表先生と接するうちに非常にスローなペースではあるが、神晃講に属しながら、私なりのペースで修行を積んでいくこととなったのである。

◆奥駆け日記

 ここからは、今回の奥駆けについて書く。
 私が属している神晃講の奥駆けは、非常にハードで、福井県小浜から和歌山県那智山の青岸渡寺までの行程を9日間で踏破するものである。
 (途中、滋賀県朽木村と大津市の境から奈良県吉野までは交通機関を使用)
 実は、昨年も参加したが、昨年は途中の弥山で左ひざがパンクして下山し、完遂していない。今回は昨年の雪辱を期しての参加である。
 山に入る際には、必ずしも水分が補給できると限らないので、常に4リットルの水を備え、途中からは泊まる場所は単に寝泊りするだけとなるので非常食も5~8食分積み込んで歩く。したがって着替えやテーピング等を入れると荷物は軽くても6キロ以上の重さになる。その重さを背負って山道を歩く。

1.日程
 予定では、9日(土)早朝、福井県小浜の日本海で禊をして、16日(土)に那智勝浦の太平洋で禊をして締めるというものであった。
 しかし、8日夜から9日にかけて大型の台風10号が上陸し、その足止めを食らうとともに、自分のスピードから日程を一日延長する形をとった。
 ※日程を延長したのは、弥山~玉置神社のところで当初では2日間で踏破を、3日間とした。

2.日記

~8日(金) 現地入り~
 夕方、京都駅に集合し、一路、福井県小浜市に向かった。
 明日から奥駆けが始まると気持ちが高ぶってきていたが、大型の台風10号が近畿から北陸にかけてを8日夜から9日にかけて通過するとの情報を得て、明日出発できるのかと心配をしながら床に就く。

~9日(土) 台風により足止め~
 天候は、雨
 台風10号上陸により、参加者5人で相談した結果、出発を明日とし、明日は二日分を一日で一気に進むこととした。この日は、非常食等の買出しを行った。
 9日宿泊予定の滋賀県朽木村に連絡を取ると、台風で崖崩れが起こって道がふさがってしまっており、10日に復旧してバスが通れるかどうかは分からないとのことだった。

~10日(日) 福井県小浜から奈良県吉野へ~
 天候は、晴れ、日の出とともにスタートした。
 福井県小浜の浜で、奥駆けのスタートとして禊する。若狭彦神社・若狭姫神社を参拝し、鯖街道に突入する。
 オーバーウェイト気味だったせいで、仲間達とどんどん離れていってしまうが、自分のペースを守りながら、朽木村を目指した。
 朽木村についたときには、すでに15時を過ぎており、仲間から大幅に遅れていることに焦っていた。どうにか追いつこうと思案の末、ヒッチハイクをすることにした。一台目でヒッチハイクが運良く成功し、車で20分走ったところで、仲間達と合流できた。
 朽木村と大津市の境から奈良県吉野までは交通機関を使用し、吉野の旅館に着いたときは夜11時を過ぎていた。風呂に入ったりマッサージをしたりで就寝は1時を過ぎていた。
 この日は、歩行時間約13~14時間で、歩行距離は50キロ超の長丁場であった。さすがに一日で50キロ歩くのは堪えた。

~11日(月) 奈良県吉野から山上ヶ岳へ~
 天候は、曇り(すこし晴れ)
 6時旅館を出て、まずは吉野の金峯山寺を参拝する。その後、金峯神社を参拝し、一路、今日のゴールである山上ヶ岳(1,719m)を目指すもので約24キロの行程である。途中、3つの山を越えて歩く。
 この日も、オーバーウェイト気味なのがたたり、仲間から遅れることとなる。ただし、道自体は初めてではないため、それほど不安はなく、自分のペースを守りながら歩いていった。
 山上ヶ岳までの3つの山が段々と高くなり、それを越えなければならず、背中や腰に背負っている荷物の重さと体の重さに苦労する。
 山上ヶ岳の入り口に着いたときはすでに7時を過ぎており、暗闇の中ヘッドライトをつけてゴールを目指した。
 山上ヶ岳自体、3度登っていてある程度感覚をつかめていたため、暗闇の中のヘッドライトでも道が分かったが、明後日以降は初めてのため暗闇の中で道を探すのは困難だと判断し、ここで、明後日以降の2日の日程を3日に延長しようと決断した。
 12時間以上かかってどうにか宿につくことができ、食事を摂ることができた。ご飯、お味噌汁、昆布の佃煮、豆の煮物、高野豆腐といった質素な精進料理ではあったが、とてもおいしく感動しながら食べた。
 講長(今回のリーダー)に延長のお願いをしたが、結論は明日の弥山に持ち越しとなった。
 夜から強い風が吹きはじめ、雨が降り出した。

~12日(火) 昨年リタイアした弥山へ~
 起きると雨であった。朝5時過ぎに宿舎を出て、目的地、弥山(1,800m級)を目指すこととなった。
 午前中は、雨風ともに強く、目を開けるのがつらいときもあるくらいであったが、午後にすこし弱まり、夕方には止んでくれたが、ずぶ濡れになりながら約12時間かけて弥山についた。
 この日、女性が合流し一緒に那智を目指すこととなった。計6名を相談の末、2つに分けることとし、私は2日日程を3日日程に変更する班で歩くこととなった。
 初めて参加の二人が、足の状態が思わしくなくリタイアする可能性が出てきた。
 昨年は、私はこの手前で左ひざをパンクさせてしまいリタイアしたが、今年は歩くペースは昨年よりも遅いとはいえ、マイペースを守ったこともあり、ひざは痛みもなく順調な感じであった。とにかく昨年の山場をほぼ無事で越えることができた。

~13日(水) 一人であるく~
 天候は曇り(すこし晴れ)5時半ごろにスタートする。昨日の決定通り2班にわかれることとなる。
 今回は、近畿最高峰、八経ヶ岳(1,900m級)をはじめ、釈迦ヶ岳・孔雀ヶ岳・仏生ヶ岳を歩き、深仙宿のお堂で宿泊するコースである。
 この日、初めて参加の二人がそろってリタイアを表明し、3日コースは私一人で歩くことになった。
 ここまでのおかげか体重がかなり減り、体が軽くなった気がしたせいもあったが、この日は7時間程度で目標に達することができた。
 途中、行者らしき人と出会った。その人は鈴をつけて歩いており、その音にしたがって歩いていくと実は道に迷っていたらしく、私も一緒に迷ってしまった。斜面を無理やり登るとコースを見つけることができた。その人も深仙宿に泊まるということで、一緒に過ごすこととなった。
 深仙宿で行者と思っていた人は実は古武道家であった。呼吸を長くするために山道を鼻からだけ呼吸する方法で歩いており、ところどころで剣の型を奉納しながら、場所場所でお茶を立てたり、和歌を詠んだりしながら自分と向き合いながら、最終目的地の熊野本宮を目指しているとのことであった。深く内省するためには、世間とはなれる時間が必要だそうである。
 深仙宿のお堂で、お茶を立ててもらい、この日は早く着いたので泥汚れを湧き水を使って洗濯したりとのんびりとした一日を過ごし、日没とともに就寝した。

~14日(木) 古武道家とともに~
 天候は雨、夜中3時過ぎ、雨と風の音で目を覚ます。5時に出発しようと考えていたが、どうしようかと思案に暮れてしまう。古武道家も4時に出発予定だと言っていたが、この風雨ではととにかくお互いに弱くなるまでまとうと、お茶を飲みながら待っていた。
 夜明け頃に風雨が弱まったので、私が先行する形で出発した。
 この日は、石楠花岳・奥守岳・般若岳・涅槃岳・行仙岳等の8つ以上の山を越えて行仙宿までのコースで全行程約10時間歩いた。8つともなると大変で、大峯山系が大変なのは、一度その山のてっぺんまで登らせておいて、またある程度下らせてから、もう一つの山を登らせるというアップダウンの激しさにある。特に最後の行仙岳の登りはきつく、15分以上は四つん這いでないと登れないきつさで、このときはまだなのか、まだなのかと非常に苦しんだ。
 雨と濃い霧の中、目印となるテープを探すのに苦労しながら、終日雨であったためびしょぬれ状態で宿に着いた。
 宿に着くと、先行していた3人のうちの2人が休んでいて、私と一緒に歩くことになった。この日は、古武道家と私達3人以外にも鍼灸師も加わって宿内は会話に花が咲いた。

~15日(金) 玉置神社へ~
 天候は晴れ&曇り夜中、昨日同様に強い風雨で目が覚める。鍼灸師は下山しバスで熊野へ移動することを決めて早々に山を降りていった。
 古武道家は、宿に残って和歌を詠んだりするということで、ここでお別れとなった。いろいろ教えてもらっていただけに残念だが、内省のために来ているので邪魔になるのも悪いので別れた。
 3名で6時過ぎに玉置神社目指して歩き始めた。この日はとても快調で、昼の3時くらいにはつけそうな勢いだった。しかし、落とし穴が待ち構えていた。
 木のテープを目印に歩いていた、あと1時間くらいで到着という状態で、林業で管理している木のテープを目印と勘違いしてしまい、山の中に迷い込んでしまったのである。
 林業の管理テープを目印にどんどんと山を下っていき、木々の中にどんどんと体が入っていった。正直、数日後に行方不明とかで新聞に載ってしまうかもと不安になったが、山の斜面を強引に這いつくばりながら登って、もとの道に戻ることができた。結局、3時間くらい3人で玉置神社まであと1時間くらいのところをさまよいつづけ、夜7時に到着した。
 玉置神社に着いたが、ご飯はなく素泊まりですぶぬれのドロドロ状態で寒さの中、やり場のない怒りとひもじい思いをしながら眠りについた。

~16日(土) 熊野本宮へ~
 天候は小雨&曇り,この日も雨音で目がさめる。夜明け頃には止んでくれることを祈りながら過ごしていると、どうにか止んでくれたので6時ごろスタートした。
 この日スタート前に先発隊から玉置神社と熊野本宮間で熊が出たとの情報が届いた。熊は危険なので、なるだけ3人はなれずに歩こうということにした。
 この日も快調だった。しかし、この日も前日同様に落とし穴が待ち構えていた。
 本宮まであと少しのところで、下に下りるコースと上に上がるコースがあった。ここで3人とも下に下りるコースを選択した。するとなぜか山の中に突入してしまい、熊野川が見えていたので、沢を下れば熊野川とコンパスで確認せずに沢下りをしてしまい、結局まったくの逆方向に下りていくというミスを犯してしまった。
 このときも斜面を強引に這いつくばって登ることにしたが、今回の斜面は崩れやすく、女性が転落してしまい、一瞬シマッターと思ったがかすり傷で終わりほっとした。この斜面で足でも折られると助けるのも非常に困難なので、転落した瞬間は本当に血の気が引いた。
 結局2時間近くロスし、上に上がるコースを選びなおして、12時間かけて熊野本宮についた。
 途中、国道に出ることができた。実は、昨晩から食べるものが底をつきかけており、ろくに食事をとれなかった。焼肉屋を発見して、そこでご飯と味噌汁と漬物を食べ、オレンジジュースを飲んで一息、飴以外食べていない状態だったので、このときのご飯はとてもおいしく、一口目を食べたときは思わず涙が出そうだった。3人ともおかわりをし、がっつくように食べてから、熊野本宮でお参りをした。
 一緒だった女性は、仕事の都合上、ここから那智勝浦の民宿の車が迎えで那智勝浦に向かうということで日程終了となった。
 男2名は、この後宿探しということであったが、那智勝浦の民宿の方が協力してくれて探してくれたおかげで川湯温泉でどうにか一室だけ空いていて泊まることができ、温泉に入ることもできた。湯船につかりながら「地獄に仏」とはこのことだと思った。明日最終日は雨が降らないことを祈りながら11時ごろに就寝した。

~17日(日) 熊野古道で那智へ~
 天候は雨(時には激しく)、結局、小浜(最初)から那智(最後)まで雨だった。
 この日は熊野古道で熊野本宮から那智山の那智大社・青岸渡寺を目指すもので、2人だがお互いのペースで歩こうということで別々に歩くこととした。
 朝、熊野川で禊を済ませ、7時半過ぎに熊野古道を歩き始めた。小雲取・大雲取と二つの大きな難関が待ち構えており、大雲取は標高60mから一気に870mまでを上がらせる難所である。ちょうどこのいつ果てると知れない登りに悪戦苦闘しているときに大雨となり、登り道が小川の状態になっているのをドロドロになりながら2時間かけて上り詰めた。何度も何度も座り込んでしまいたくなったが、登りだけの坂はないはずだといいきかせてやっとの思いで登りきった。
 11時間後の夜6時半、ようやくゴールの青岸渡寺に着いた。
 ゴールした瞬間、昨年のリタイアした悔しかった思いや、これまでの雨の中の苦闘が思い出され、達成感で感極まって、寺の境内で人目をはばからず泣いてしまった。
 那智大社はすでに閉まっていたが、青岸渡寺はその日法要が夜8時から行われる予定だったらしく、僧侶の方もいて、5人くらいの僧侶がゴールした私を迎えてくれ、雨の中よく眠らなかったなと声をかけてくれ、お寺の職員の方が疲れきっているからこれで元気だしなと、法要のお供えを分けてくれた。お供えのみかんと饅頭はとても甘くあっという間に平らげてしまった。
 その後、民宿の車で那智の浜に行き、太平洋で禊をして本当のゴールを迎えた。
 奥駆け修行、満行である。

◆学んだこと・感じだこと

~支えられていること~
 奥駆けで思ったことは、自分は支えられて生きているんだということが一番大きかった。
 まず、奥駆けの道は、新宮山彦グループという団体が山道に生える笹を刈ったり、行者が泊まるための宿を立てたり、水を汲んだり薪を集めたおいていつでも使えるようにしたりと支えられている。他にも天理大のワンダーフォーゲル部等が標識を立てたりと、こういった支えがあるから、奥駆け修行に専心できたといっていい。
 また、熊野本宮では泊まるところがなかったのだが、宿泊先を一緒に探してくれた勝浦の民宿の方や、急にドロドロ状態にもかかわらずいやな顔をせず止めてくれた川湯温泉の民宿の方等々、本当にこういった人たちの支えでゴールできたと思っている。
 山道を3人で歩いていて、2度大きく迷ったが、2度とも心の中でもしかしたら数日後に新聞に行方不明と出るのかなーと思って気弱になったこともあった。しかし3人だからがんばろうと斜面を戻り、復帰できた。もし、ひとりだったらパニックになってしまっていたかもしれない。仲間の支えがあったから冷静に斜面を上がろうと提案もできた。
 そういった意味で、修行は私自身の成功でもあるが、この成功には大きな支えがあったからできたことだと感じなければいけないだろう。
 支えられて生きているということを強く実感した修行であった。

~困ったときこそ楽するな~
 「山を登る・山を下る」
 一体どちらが楽だろうか?私にとって楽なのは、「山を下る」である。恐らくほとんどの人がそうではないだろうか?
 今回、山で迷ったときに共通していることが、下りで、迷ったかなと思ったときにさらに下ってしまった結果、本当に迷ってしまったことである。
 2度の迷いとも、迷いから脱する方法は下ることではなく斜面を登ることであった。斜面を登ることは大変疲れる。滑ったりしたこともあり、体力の消耗も激しい。しかし、そのおかげで迷いから脱することができたのである。
 これは人生でもいえるのかもしれない。
 困ってなくてもそうかもしれないが、困ったときこそ楽な方法を取るのではなく、その困った原因を根本から取り除くしんどい方法を取らなければいけないのである。
 これを山で迷い、そこで回復できたことから学ぶことができた。

~逃げ場のある場での修行こそ難しい~
 奥駆けをなぜ貫徹できたのだろうか?
 この理由を考えたときに、確かに昨年のリタイアの雪辱もあったが、基本的にはゴールする以外は助かる道がないと思っていたからである。実際に行程の半分くらいは逃げたくても逃げ場はないし、山で迷ったときも自力で斜面を上がる以外は基本的に助かる方法はない。
 この山の修行を終え、実生活に戻ったとき、実生活においては逃げ場は多くあるし、命を取られることも山で修行をしているときと比べたら格段に少ない。
 こういった中でいかに自分を高める修行を積むことができるのか?
 奥駆けのような特殊な状況なら、やらざるを得ない状況であるためやることとなる。
 しかし、そういった状況ではない場合において自分をどう高めるのかがこれからの自分の課題であると、奥駆け修行の成功の興奮から覚めてそのように考えている。
 人生自体が修行である。
 「道」は、毎日の積み重ねで極められていくものである。
 実生活の中でどのように自分を磨いていくか、困ったときこそ楽をするなをどのように実践していくのか、それができなければ、この命がけでやった奥駆けの修行は修行ではなく単なる体験に過ぎず、苦労したという思い出にしかならないだろう。
 逃げ場のある実生活の修行についてもしっかりと考え、実践していきたい。

◆参考資料・引用

  • 修験道の本(学習研究社)
  • 修験道に学ぶ 在家仏教のこころ(朱鷺書房 五條順教著)
  • 金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺HP http://www.kinpusen.or.jp/

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海老名健太朗の論考

Thesis

Kentaro Ebina

松下政経塾 本館

第22期

海老名 健太朗

えびな・けんたろう

大栄建設工業株式会社 新規事業準備室 室長

Mission

「ノーマライゼーション社会の実現」

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