論考

Thesis

レニー・パン女史

私はこれまで5回カンボジアに渡り、主に援助の仕事に携わってきた。そして、NGOの指導者や政治家など、数多くの人々と話をする機会を得た。今回はその中から私の心を捉えて離さない一人の女性について紹介する。

 レニー・パン(注:カンボジアは日本と同じく姓名の順)さん、55歳。20年の内戦により崩壊した教育再興を目指すNGO、Cambodian Children’s Education Fundの代表である。昨年11月、4度目のカンボジア訪問の時、彼女と数時間議論したことがあった。カンボジアの未来について、文化論、宗教論、平和論を闘わせた。その時聞いた、おそらく生涯忘れ得ぬ話を2度に分けて紹介したい。

カンボジアは12世紀後半、インドシナ半島で最大最強の勢力を誇って以来、苦難の歴史をたどり続けてきた。極めつけは1975年に政権を握ったポル・ポトによる大下放政策であった。それによって200万人が死んだと言われている。

2年前、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)による総選挙が行われ、カンボジアは新たな道を歩み始めた。しかし、その道には汚職・失業・低賃金・未だ終わらぬ内戦等の障害が一杯である。そして今、カンボジアは食糧不足になやんでいる。ここ2~3年の森全国的な米不足に襲われ、餓死者さえ生じた。そうした歴史を敷衍しながら私は、

「指導者達は国民に対して今、一体どんな言葉を持つのか?」

と、問いかけてみた。そして彼女はこう答えたのである。

「私は地方に出かけ、こんな話をするんです。皆さん、私たちが信仰するブッダを思い起こしてみて下さい。ブッダはインドの小さな国の王子に生まれましたが、その身分を捨て出家しました。その後、何年にも渡って肉体的な苦しみと精神的な苦しみを乗り越え、悟りに至ったのです。今を乗り越えましょう。どんなに苦しくとも、信仰を失ってはいけません。」

 勿論、彼女がそう言ったところで飢えた人々のお腹は満たされない。しかし、心が満たされる人は必ずいると思えた。そしてその精神力は必ず苦難を乗り越えるだろう。これまでも苦難に耐えてきた民族である。

 それにも増して、果たして自分自身、苦しむ人々を前にして彼女と同じ事が言えるか、と自問せずにはいられなかった。彼女が言ったその論の正否など問題ではなかった。『生きる』という人間としての根本について、あまりに鈍感であったことをも思い知らされた瞬間でもあった。

 そして、彼女との話がポル・ポト時代に及んだ時、彼女は自らの体験を語ってくれた。彼女は、1975年に夫を失っている。当時の副首相兼教育相のパン・ソティ氏である。ポル・ポト派がカンボジアの首都プノンペンに侵攻してきた時、夫と共に海外に難を逃れようとポチェントン空港にたどり着いた時、パン・ソティ氏はこう言ったそうである。

 「おまえはアメリカに行きなさい。副首相としての私は祖国を捨てることはできない。」夫の最期言葉であった。私は思わず次の言葉を発した。

 「もし私が、自分の愛する人々を殺されたとしたならば、きっと相手を憎むでしょう。許すことはできないでしょう。」すると、彼女はこう答えたのである。

 「眼には眼を、歯には歯をでは何も産み出さないのです。私は彼ら(ポル・ポト派)を許しました。彼らは十分に苦しんでいます。更なる苦しみを与える必要はありません。 それに、私自身復讐すれば、来世では殺人者として生まれ変わるでしょう。」

 彼女がポル・ポト派を許すに至った経緯を、カンボジア通の藤田幸久氏(社団法人 国際MRA日本協会専務理事)よりお聞きした。

 1986年、彼女はスイスのコーで開催されたMRA世界大会に参加した。その時、彼女は第2時世界大戦後の独仏和解に功績を持ったイレーヌ・ロー夫人と会談し、祖国の再建のため、ポル・ポト派を許す決意をしたという。その後、タイにあったポル・ポト派の難民キャンプ(サイト8)を訪れ、並みいる難民の前で彼女は語った。

 「私は今まで、あなた方1人1人を憎んできました。八つ裂きにして、切り刻んでやりたいと思ってきました。しかし、私の憎しみは、祖国カンボジアにとって決して役立たないことを知ったのです。そして私はあなた方を許すことにしました。皆さんの中にも愛する家族を失った人や、何も知らず、自らが犯したことに苦しむ人も多いと思います。これからは、1人1人の悲しみを越え、一緒にカンボジアの未来のために頑張りましょう。」

 殆どの難民が声を失った。涙を流す人もいた。そして、リーダーの眼を恐れつつも、彼に歩み寄って握手を求めた人もいたとの事であった。長い間苦しんだことと思う。しかし、彼女は本当に許した。悲しみと苦しみを乗り越えて今、カンボジアの未来を子供達の教育に賭けている。

 ドイツのヘルツォーク大統領は戦後五十周年の式典(5/8)で、「ナチスが犯した犯罪を行ったのがドイツ人だったことに恥ずかしさと怒りに襲われています。今重要なのは若者たちがナチス犯罪の繰り返しに反対することは自分たちの責任だと受けとめるよう過去について語り、過去を仲介し、過去を記憶しておくことです。それが私たちの世代の重要な任務なのです。」と、語った。不戦決議を巡って時間を費やすわが国の政治家との差は大きい。

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堀本崇の論考

Thesis

Takashi Horimoto

松下政経塾 本館

第13期

堀本 崇

ほりもと・たかし

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