論考

Thesis

七五三基金、2年間を振り返って

1993年、20年の余に及ぶ内戦を続けてきたカンボジアは、国連カンボジア暫定統治機構による国政選挙の後、新生カンボジア王国として生まれ変わった。
 私は政府派遣の選挙監視員としてその過程に参加し、これまでに12回現地を訪れている。
 カンボジアで見た現実は、5、60年前の日本とそう変わらないであろうと推察された。痛感したのは自らの歴史認識の欠如である。短期間に我が国を発展させた先人の奮闘に対する感謝の欠如を自省せずにはいられなかった。

 我が国が豊かであるのは間違いない。その恵まれた環境に生まれた私である。“小さいながらもカンボジアに何事か出来るはずだ。”と模索し、2年前にカンボジアの教育支援を目的に七五三基金という団体を起ちあげ、以下のプロジェクトを実施した。

●1995年度プロジェクト

  1. チョッチューニアン小学校建設
  2. トゥルヌムチュルン小学校改修
  3. ウドン中学校改修
  4. 教員養成プロジェクト支援

 3校の開校式を終え、次年度への意欲満々に帰国した翌日、カンボジアより悲しい知らせを受けた。最大のパートナーであったメアス・チャンリープ国会議員が自らの命を絶ったというのである。政争と汚職に明け暮れ、国民を省みない指導者達に抗議の遺書を残していた。

 氏は在日20年に及ぶ親日派であった。在日カンボジア難民の世話に奔走する余り、脳溢血で倒れたこともあった。
 1993年、国連カンボジア暫定統治機構による選挙で氏は国会議員となった。その後自ら命を絶つまでの2年半、氏の心からカンボジア国民が消えることはなかった。
 時には身銭をはたいて農民にポンプ(潅漑用)を買い与え、共に土にまみれていた。彼の存在がなかったなら、第1回七五三基金の成功など、思いもよらなかった。

 混迷を続けるカンボジア情勢の中、権謀術数が使える人ではなかった。余りに真っ直ぐに、祖国と子供達を愛したが故の悲劇である。

 そうした故メアス氏の、人生最後の仕事が七五三基金の学校建設であった。私に与えた衝撃は大きかった。それまで三月とおかず足を運んでいたのだが、情けないことに私の足は止まってしまった。

 8ヶ月後、私は夢を見た。
 そこは確かにカンボジアであった。
 私は土煙に撒かれながら通りを歩いていた。するとどこからか私を呼ぶ声がした。ふと、見上げてみるとメアス氏が、最後に出逢った時に着ていたサファリを身にまとい、「堀本さん!待ってますよ!」と言ったのだった。

 それだけの夢である。私はメアス氏に自分の不甲斐なさを詫びた。墓前で更なる活動を誓い、2年目へと突入した。

●1996年度 プロジェクト

  1. アンロンビル小学校建設(バッタンバン州:仏教のための開発の運営)
  2. サヤプール幼稚園児の為の宿舎建設
  3. 中古衣料7.2トンの送付(後援:日本救援衣料センター)
  4. 孤児院「スレアンピルの平和の子供の家」での里親活動
  5. カンボジアスタディーツアーの実施(11/19~、参加者10名)
  6. 放置自転車150台送付のコーディネート
  7. カンボジア最大のNGO「開発のための仏教、(以下、BFD)」との事業契約書締結

 1996年度プロジェクトの2.は、昨年8月にBFDより申請書を受けたものである。

 BFDでは帰還難民や孤児を対象に幼稚園を運営している。私自身何度も彼らの家に足を運んでみた。
 帰還難民の生活は今でも非常に厳しく、日々食するものはお粥である。副食物を口にすることは希で、道端に生えている草をお粥に入れているのがやっとである。
 BFDでは特に貧しい家庭の子供を生活させているのだが、幼稚園には園児用の宿舎が無く、コンクリートの床に茣蓙を敷いて寝かせる毎日であった。それが子供の身体に良い筈もなく、毎日のように発熱する子供が見受けられた。

 このプロジェクトには本当に多くの方に協力して戴いた。
 昨年、機会を得て京都梅小路小学校PTA総会で講演をさせて戴いた。その後、PTA会長さんより、全校を挙げて空き缶拾いをしましたよ、との知らせを受けた。1年生の生徒さんも「これでカンボジアの子供に学校建ててあげるんやろ!」と、空き缶を拾ったという。私自身どれだけ力づけられたか分からない。

 喫茶店を営むPTA副会長さんは、お店に募金箱をおいて協力して下さった。PHP総合研究所が進める「PHP思いやり運動」からも資金助成を得ることができた。

 建設費総額はUS$5,562(当時US$1=115.65円)であったが、多くの方々のご協力により2ヶ月で資金集めを終える事ができた。昨年、最も嬉しかったのはこの瞬間であった。
 しかしそれは私だけではない。それまで七五三基金より数倍大きい数カ国のNGOに援助申請をし、断られてきたBFDスタッフである。彼らの喜びはこのレポートで伝えきれない。

 昨年8月には、私の活動地カンボジア北西部バッタンバン州の貧困の現状に鑑み、朝・夕冷え込む乾期に備え、昨年8月、7.2トンの衣料品と毛布(日本救援衣料センター後援)を現地に送った。
 そして11月、七五三基金はアンロンビル小学校(バッタンバン州)の開校式と、スタディツアーを主催した。11名が参加したツアーのメインは衣料配布である。一口でいえば援助品なのだが、現地の人がどれだけ喜んで受け取ってくれるのかを実感してもらいたいと念願していた。

 そして20日にサムナーン村、21日にはコンピンプイ村で配布を行った。村人達は帰還難民が殆どである。しかし、爪に灯をともすような生活も、内戦や出没する盗賊の為に落ちつくことはない。彼らは移住を重ね、彼らは国内避難民となった。
 一家の主な現金収入は女性2人が3日かけて織る茣蓙である。市場で8ドルの値が付く。しかし彼女たちが手にするのは織り賃の4ドルである。1日の現金収入は1ドル程でしかない。

 藁葺きの家に7、8人が住む各家庭が口にするものはボボと呼ばれるお粥。それに道端で採ってくる草を入れるのがせいぜいだ。それを朝から晩まで食べるしかないのが実状である。我々が訪れたのはそんな村である。衣料配布の様子は、ツアー参加者が送ってくれた感想文を持って替えさせて戴く。

 “(前略)ひたむきに生きている人を見るにつけ、このツアーで予定されている衣料配布のスケジュールが、非常に不遜な行為ではないかということが心に募るばかりだった。国内避難民の村を訪れることには興味があったものの、当初古着の配布には心中斜に構える部分があった。
 だがその思いは、実際服を配っているときに吹っ飛んでしまった。古着を渡したときの老若男女の、訳隔てなく喜んでくれる有り様には、齢30を過ぎた私が不覚にも涙が滲んでしまった。

 我々が不要としているものが、これ程までに喜んでもらえるという事に、日本の飽食ぶりを反省するより、ただ素直に心の底から感激してしまった。中でも子供達の一片の邪気も感じられない喜びの顔は本当に胸に迫るものがあった。

 「子供は国の宝である」ということは、字面でなく一児の父親としてつくづく思う。未来を担う子供達が、戦火に晒されたり、戦災孤児になったが故の物乞いや、自活のために働く姿には、わが子のことを思うつけ胸が痛む。
 カンボジアで出逢った子供達の笑顔の輝きを忘れまい。そしてその素晴らしい笑顔が失われぬよう、自分の出来ることから行動していこうと思う次第である。”

 昨年度最大のプロジェクトは、バッタンバン州のアンロンビル小学校(5教室)校舎建設であった。
 北西部に位置するバッタンバン州は、蜜柑の産地として、長く続いた内戦では激戦地として、そして帰還難民が大量に戻った州として有名である。バッタンバン州のサンカール郡では最大のアンロンビル小学校(生徒数1,749名)の建設が、今年度最大のプロジェクトであった。BFDを事業パートナー本件を遂行した。

 これまでに訪問した学校は数知れないが、建設以前のアンロンビル小学校は最も老朽化が進んだ部類に属していた。5教室あるのだが、端から端まで一直線に見通すことができた。場所によっては空も見えた。所々、崩れそうな梁やドアを認めることもできた。
 その他、教師の質や村人の様子などのヒアリングを行い、今年度学校建設プロジェクトを当校に決定した。PTAは勿論、村人総出で建設を進め、11月16日に開校式を行うことができた。現在、当校は学校建設のモデルケースとしてカンボジア教育省に取り上げられている。

 開校式のその日、七五三基金のこれまでの活動に対し、カンボジア王国政府より国家建設功労第1等勲章を授与された。非常な名誉ではある。
 しかし私にとって何者にも代え難い勲章は、カンボジアの子供達の笑顔であることは今後も変わることはない。ささやかではあるが、やればできるのだ!という確かな自信を持つことができた。
 七五三基金は始まったばかりである。

Back

堀本崇の論考

Thesis

Takashi Horimoto

松下政経塾 本館

第13期

堀本 崇

ほりもと・たかし

Mission

東南アジア 援助・開発・国際協力

プロフィールを見る
松下政経塾とは
About
松下政経塾とは、松下幸之助が設立した、
未来のリーダーを育成する公益財団法人です。
View More
塾生募集
Application
松下政経塾は、志を持つ未来のリーダーに
広く門戸を開いています。
View More
門