Thesis
第1回七五三基金その推進方法として、1)プロジェクトへの投下資金を多くするため、2)カンボジア人のプロジェクトとするために、それぞれのプロジェクトにカンボジア人のパートナーを配置しました。合計4つのプロジェクトの内、2件をカンボジア王国国会議員のメアス・チャンリープ氏にお願いしました。彼らの協力のお陰で、子供達に学校を贈ることが出来ました。今月は、最大のパートナーであったメアス氏について書きたいと思います。
今回、現地にて開校式を終えて帰国した翌日、カンボジアより悲しい知らせを受けた。最大のパートナーであったメアス・チャンリープ国会議員が政争に明け暮れ国民を省みない政治に、抗議の自殺をされたのである。
メアスさんは在日経験20年に及ぶ親日派であった。在日本のカンボジア難民の父親的存在であった。在日初期の頃、日本で生まれた子供達が、クメール語を話せなくなることを懸念し語学学校を創った。また、彼らの就職に際しては、懸命に奔走していた。その為、脳溢血で倒れたこともあった。
1979年、元首相ソン・サン氏(現ソン・サン派党首、カンボジア王国最高顧問)が結成したクメール人民民族解放戦線の日本代表に就任。そして、1992年、21年ぶりの総選挙を期してカンボジアに帰国し、パリ会議にはソン・サン派の代表として第1委員会(ベトナム軍の撤退問題等、最重要課題を討議現第1首相のノロドム・ラナリット氏もFUNCINPEC[民族統一戦線])に参加した。
そして選挙(比例代表選挙)の結果、ソン・サン派は10議席を獲得。メアス氏はカンダール州選出の国会議員として活動の場を得た。その後自ら命を絶つまでの2年半、氏の心からカンボジア国民が消えることはなかった。党の内紛解消に懸命に取り組み、国民を省みないカンボジア政治に憤激し、時には身銭をはたいて農民にポンプ(潅漑用)を買い与え、共に土にまみれていた。私自身も助けていただいた。彼の存在がなかったなら、第1回七五三基金の成功など、思いもよらなかった。
メアスさんのことが想い出されてならない。『七五三基金』という組織名を聞いたメアスさんは、「七五三ですか、懐かしいですね!カンボジアの子供達にも、一日も早くそんな経験をさせてあげたいです。」と遠くを見つめつつ静かに語っていた。
ある日、チョチューニアン小学校でPTAを組織する話をしていたときのことである。喫煙家の私が、携帯灰皿を取り出して一服していると、不意にメアスさんは灰皿を手にとって村人にこう語った。
「皆さん、これを見てください。日本人は吸ったタバコをそのまま捨てないように、こんな灰皿を持っています。ところがわたしたちカンボジア人はどうでしょうか?ところかまわずものを捨てていますね。50年前、日本は戦争に負けて今のカンボジアのように苦しい時期があったのです。しかし、日本人は頑張って貧しさから抜け出しました。日本人にできて、カンボジア人にできないことはありません。どうですか、皆さん!」
そして、氏は4通の遺書を残した。私はこれまで、あれほど威厳に満ち、そして激烈な言葉に出会ったことはない。小乗仏教国であるカンボジアでは、自ら命を絶つことなど普通ではあり得ない。なぜならば、子孫に至るまで良い生まれ変わりをしないと信じられているからである。ましてや、氏は国会議員である。それだけでも国民に大きな衝撃を与えた。「私たちの国民は、もう十分に苦しみました。一日も早く政治闘争をやめ、国民の為に働いて下さい。(中略)もし、皆さんが私の願いを聞いて下さらなければ、私の魂が、皆さんの家族をも不幸せにするでしょう。皆さんのご健康をお祈りします。」
氏の言葉が、指導者達に届くことを祈らずにはいられない。私はメアスさんの墓前で更なる活動を誓ってきた。七五三基金は始まったばかりである。
Thesis
Takashi Horimoto
第13期
ほりもと・たかし
Mission
東南アジア 援助・開発・国際協力