松下政経塾 The Matsushita Institute of
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1998年1月

塾生レポート

唯物史観について考える
豊島成彦/卒塾生

 
広辞苑によると唯物史観は「マルクス主義の歴史観。物質的、経済的生活関係をもって歴史的発展の究極の原動力と考える立場。これによれば、社会的・政治的及び精神的生活過程一般は、究極において物質的・経済的生活の生産様式によって規定され、しかもこの物質的基盤そのものはそれ自身の弁証法的発展の必然性に従って展開するものとされる。」
なんだか、わかったようなわからないような説明であって、恐らくこれを読んだだけでは全く唯物史観について理解できないだろう。概してマルクス系の学者や論文は同じような難解な単語が繰り返し登場し、一文節が極めて長い。文章を追うだけ、話を聞くだけでも辟易する場合が多く、それがまたマルクス思想そのものを取っつきにくくしている。
幸い私は早稲田大学の川勝平太教授の講義を聞く機会があった。教授は日本経済史が専門で、江戸時代の鎖国の意義を世界経済のダイナイズムの中でどう捉えるのか独自の説をうち立てて注目された気鋭の学者である。先だっては「文明の海洋史観」と題打って、海洋アジアが近代誕生に果たした役割について川勝理論を縦横無尽に展開している。興味のある方は書店に足を運ばれたい。中央公論社から1700円で発売されている。
話は少しそれたが教授はマルクス思想の本質のみを精選されて解説され、私の長年の疑問が氷解する衝撃的な講義だった。これから述べることは川勝教授のマルクス解釈に私なりの考えを付け加えたものだとあらかじめお断りしたい。
マルクスはもともと哲学者で、博士号は哲学で取得したことは知られている。彼の興味は人と自然の関わりにあり、経済分野は当初素人であった。その彼がライン新聞の主筆として、森林盗伐と土地所有の分割についてのライン州議会の討議、当時のライン州知事フォン・シャーペル氏がモーゼル農民の状態についてライン新聞に対しておこした公の論争、自由貿易と保護関税にかんする議論に関わり、やがて経済問題に没頭するようになった。
従来、人間とはなにかを考え続けた彼は、現状の問題にぶつかることで更に法とは国家とは何かを考え始め、その理解のために経済学の研究が不可欠であると考えるのに至ったのである。
そして彼は次のような結論を導き出した。「経済学批判」序説からそのまま引用する。マルクス特有の読みにくい文章だが、是非目を通して欲しい。彼の人間観・歴史観・革命理論がそこに込められている。
「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形作っており、これが現実の土台となって、その上に、法律的、政治的上部構造がそびえ立ち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」
「社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、いままでそれがそのなかで働いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現に過ぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期が始まるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。」
初めの文章は、言ってみれば人や政治、法律の定義をしている。
人間は生きていく以上、必ず働かなければならない。そして働けば、かならず何か生産する。作物にしろ、工業製品にしろ、サービスにしろ必ず。
どういった立場で生産するのだろうか。例えばパン屋の店員としてだとか、農家としてだとか、鉄工所の労働者としてとか、造船所の所有者等の何らかの職業について生産をする。そして、作ったものを売ったり買ったりしてお互いに結びつき、それが経済的な社会を構成している。
その上に法律的、政治的な構造が存在している。例を挙げれば、例えば生産者が奴隷が多い社会では、奴隷を使う事を認める法律が存在するだろうし、政治は封建的な仕組みとなっているだろう。また土地を持たない農民(水呑百姓)を、一部の土地を持った農民が使って農作物を生産するような社会は、土地持ち農民に絶大な権限を認めるような法律が存在するだろうし、政治体制も土地持ち農民や、農民を統括する人々に権力が集中した仕組みになるだろうという考えたかただ。
世の中の良い悪い等の価値観はこのような土台の上にある。
そして人間の考え方は、自分が決めたり、歴史、伝統、宗教や道徳教育によって決まるのではなく、その人間が社会でどのような生産を生み出す立場にいるかによって決められ る。例えば、土地を持たざる農民の価値観は、自分で決めるのではなくて、土地を持たざる農民としておのずと決まるという仮説だ。
最後の一説は歴史観について述べている。歴史は発展的に進化するという立場から、人間の生産力が次第に高まって行くにつれて、従来の生産関係との矛盾がおきて、それが経済構造の上部にある政治・法律の構造の矛盾を引き起こし、限界に達すると革命が起き、新しい歴史が始まるとしている。マルクスは引き続いて「アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的」生産様式の歴史があって、最終的には社会主義社会の到来を予言しているのだ。
ここまで読んでこられてどうだろうか、マルクスの主張に同意されるだろうか。私は「NO」である。心の奥底に違和感を感じざるを得ない。
特に人間観、人間の心は経済的な立場で決まるという考え方は、確かに理論的かもしれないしある程度生活実感に合うかもしれない。しかし、社会の中の経済的関係で人間の心が決まるなどとはとても私は同意できないし、それほど人間関係は冷たいものだとは思えない。彼の考えの中には「暖かい人間」が感じられない。
マルクスの人間観・社会観にもとづいた歴史観は、彼の冷酷な人間観ゆえに、また同意できない。
人間を「生産的機能」として捉えるマルクス思想は、薄気味悪さすら覚える。私はそこに先月報告したトゥールスレン収容所で感じた、人道の喪失と同じ思考を見る思いがする。
翻り、私たち日本の歴史教科書は彼の唯物史観の多大な影響を受け執筆されている。しかし、彼の非人間的な人間観に基づいた歴史観をこのまま受け入れていて良いのだろうか。
そこに私は現在の日本が抱える、閉塞感の原因の大きな一つを感じる。
私たちは21世紀の未来に向けて、新しい日本像を語らなければならない。唯物史観を超えて、温かい人間観に基づいて、新しいドラマを求めよう。
1998年1月 執筆
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