Thesis
7月9日(火)~12日(金)の日程で、場所は軽井沢プリンスホテルにおいて財団法 人社会経済生産性本部主催の「軽井沢トップ・マネジメント・セミナー」に参加した。
私が普段お世話になっている経営アカデミーは、産業経済事業本部の部課であるが、同 じ事業本部の経営開発部が事務局として運営している。経営アカデミーから部長と、お手 伝いとして私も出席した。
今年で第41回をかぞえる軽井沢セミナーは産業界の経営者・役員クラスを対象にして おり、昭和40年のセミナーには松下幸之助も講師として招聘している等、伝統あるセミ ナーである。そもそも「セミナー」と言う単語を使い始めたのは軽井沢セミナーが最初らしい。
今年の講師陣は次のメンバーである。
7月9日-亀井正夫・社会経済生産性本部会長:牧野昇・三菱総合研究所相談役:堺屋 太一・作家:田中秀征・経済企画庁長官
7月10日-福川伸次・電通総研社長兼所長:小倉昌男・ヤマト福祉財団理事長:吉田 和男・京都大学教授:斎藤精一郎・立教大学教授:稲盛和夫・京セラ会長:日下公人・ソ フト化経済センター理事長
7月11日-藤村靖之・カンキョー社長:村井勝・コンパック社長:増田宗昭・カルチ ュアコンビニエンスクラブ社長:向山孝一・KOA社長:浜田広・リコー会長
7月12日-西部遇・発言者主幹:牧野昇・三菱総合研究所・相談役
紙面の制約のため全ての発言内容を報告することはできないが印象的な話を1つ紹介したい。
小倉昌男ヤマト福祉財団理事長は前ヤマト運輸会長であり、クロネコヤマトの宅急便を 始めた男だ。昭和50年代当時、運送市場のパイが広がらなかったため大和運輸は、じり 貧状態にあった。ところが当時、個人向け運送業を取り扱っていた国鉄、郵便局のサービ スの悪さに多くの消費者が不満を抱いていた。ここに小倉氏は目を付けた。
小倉氏は、今までの主要な顧客であった三越・松下電器との取引を中止し、社内の雰囲 気を一変させ、社運を宅急便事業にかけた。荷物を運ぶだけの運転手は全て解雇し、「サ ービス・ドライバー」としての意識を持った運転手を育てていった。この様に社内改革を 行って事業にかけた小倉氏であったが、難問は社外にあった。それが運輸官僚による規制 だった。
宅急便を行うためには全国展開が必要だが、「需給調整条項」があり免許が下りなかっ たのだ。つまり運輸業界の適度な需要と供給のバランスをとるとの名目で免許を出さなか った。しかし、実際問題、どのくらい需要があり、どのくらい供給があるのか実態は運輸 省さえもわからない。知らないのに規制をしているという。小倉氏が運輸官僚から実際に 聞いたことに、適切な需給関係とは新しく参入した業者に対して既存業者が反対するかど うかで決まるそうだ。この程度の知識で規制していることに対して憤慨した小倉氏は、運 輸省に対して行政訴訟を起こし、やっと免許をもらったという。
まさに新規事業、創業に対する障害としての「規制」の典型例であるが、小倉氏は実際 に規制を突破し、消費者に対して「宅急便」という新しいサービスを提供した人物だけ に言葉には重みがある。
では規制を突破し、新しい事業を興す、その力の源は何か。
稲盛京セラ会長は、第二電電を設立するにあたり6カ月間に渡って思い悩んだそうだ。 『「動機善なりや、私心なかりしか」と何度も自問自答を繰り返した。不遜な言い方かと 聞こえるかもしてないが、このことを厳しく自分に問いただした上で第二電電を始めた次 第である』
松下幸之助は「企業は公のものと考えれば、自ずと力強い経営ができる」と何度も発言 しているが、松下幸之助、稲盛会長に会い通じているのは「公」からの想いであろう。
小倉理事長はその当時の国鉄、郵便小包のサービスの悪さに怒りを覚えていたそうだ。 自分が出ていって改善しなくてはならないとの「公」の想いがあったからこそ10年にも 渡って官僚と戦い続けられたのだろう。
現在、規制緩和が遅々として進まない。おそらく力強く規制を撤廃していくためには松 下幸之助、稲盛会長、小倉理事長のように「公」からの想いをいかに強く持つか。この点 が重要なのだろうと感じた。
Thesis
Naruhiko Toyoshima
第16期
とよしま・なるひこ
公認会計士・税理士
Mission
リーダーのための公会計