論考

Thesis

政経塾で学ぶ基本は何か

いよいよ選挙戦も本番に入り、緊迫した日が始まっている。本来ならば選挙についてのご報告や政策を述べるところだが、今月はちょっと趣向を変えたい。
 ただいま私がお世話になった寺の日本人先輩僧が、タイから来日している。お寺の名前はワット・パー・スナンタワナーラーム寺、住職のアチャン・カウェーサコー師が開山されてから10年も経っていない新しいお寺だ。またカウェーサコー師はまずしいタイの子どもたちのために奨学金団体を運営しており、平成10年度は291人もの児童を援助している。
 そのお寺では平行して日本とタイの中学生の交流活動事業も行っており、今回は岩手県にある姉妹中学校の文化祭にタイの中学生を引率するため、先輩僧が来日された。

 お寺の近況を伺うと、私がいたころよりだいぶ発展している。
 もともと一般人への座禅会や住職さんの説法を本にして配布したり広く一般社会に開かれたお寺だが、今年は医学部・薬学部学生のために研修会を開いたり、中学校や高校生向けに麻薬・覚醒剤やエイズ防止のための研修まで始めている。
 さらには警察幹部候補生のための研修もタイ国内務省から依頼され、今年の4月から9月までにそれぞれ5日間合宿を15回、合計して約2400人の警察官を受け入れている。
 加えて副知事や市町村長の研修まで始まったのだからビックリする。これまでに合計約600人の参加者数。これは市町村長および副知事のための研修施設からの派遣で、イスラム教・キリスト教など他宗教を信ずる人を除く、タイ全国のほとんど全ての市町村長らが参加したことになる。(ちなみにタイの場合、バンコク知事をのぞいて、地方公共団体の首長は官選で、内務省地方行政局の国家公務員。)
 それだけタイでは公職者に対する精神的トレーニングが重要視されているのだろう。

 私は「何を自分は政経塾で学ぶべきか」を求めながら研修をしてきた。
 そのよりどころとなったのは塾是・塾訓・五静だ。塾訓には「素直な心で衆知を集め、自習自得で事の本質を極め、日に新たな生成発展の道を求めよう」とあるが、「何が素直な心か」「衆知を集めるとは何か」を問い続け、答えを求めて悩み迷い、不確かな足取りながら前に進もうとし続けた。
 振り返れば、もっと効率よく学べたかもしれない、もっと深く掘り下げるべきだったかもしれないと悔やまれることがある。自分がうまくいかなかった部分は、これからの人にはうまくクリアしてほしいという願いがひしひしと湧いている。

 せんだって私の先輩僧からお寺のニュースレターを頂いた。その中で住職の説法を見つけた。お寺では奨学生にも合宿研修をしており、そこで話された講話だ。非常に重要な内容を凝縮しているので、抽象的でわかりにくいかもしれないがとぎすました心で読んで欲しい。
 私が「政経塾で何を学ぶのか」などの根本的なテーマについてご報告するチャンスはこれが最後だろう。これがこれからの塾生諸兄の研修活動に万分の一でもご参考になればこれに勝る喜びはない。

 

 「合宿で何を学ぶか」 アチャン・カウェーサコー師

 きょう、こうしてわたしたちはまたワット・パー・ポング寺に集まりました。マーヤー・ゴータミー財団の生徒のみなさんにとって、寺で生活するという大切な機会です。
 最近は、就学年数も長くなり、学校ですごす時間が長くなり、また、経済の発展・拡大をひたすら進む時代の中で人々はお金儲けのことをまず考えます。ですから、財団のみなさんがこうして合宿することはたいへん意義あることです。仏教の教えや人生の生き方については学校でも学びはするのですが、身をもって修するのはやはりこうして寺にいるときです。

 それはまずルールを守ることから始まります。みなさんも知っているように、パーリ語ではシーラと呼ばれ、寺の中では八つの戒を守ることです。戒などというと、無理に我慢しなければならないし、どうも苦手だという人も多いでしょう。しかしそれでもいいのです。
(注:日常生活のための五戒<殺生をしない、盗まない、夫婦間以外の性関係をもたない、嘘をつかない、酒や麻薬などをとらない>に、一切の性的な行為を離れ、正午以降の食事をやめ、テレビ・音楽や化粧などを慎み、簡易な床で就寝する、という項が加わり、寺の中での基本ルール、八戒となります。)

 ブッダの伝記に出てくる有名な富豪のアーナータビンディカは敬虔に教えを信じていましたが、その息子はまったく仏教には興味もありませんでした。父に頼まれて、お金をもらうかわりにはじめて寺で一日を過ごしました。何もしないでただ寝て過ごすような形でしたが、それでも殺生をしないなど、八戒は守られました。そこで父は、さらにお金を与えるかわり、次の日はブッダの言葉を何か覚えてくるように言いました。息子は今度はブッダの説法に耳を傾けざるをえなかったのですが、約束を果たすため一生懸命言葉を追ううち悟りを開いてしまいました。もちろん父からの報酬も必要でなくなりました。
 この例が示すように、お金めあてで強制されていくような場合でも真理を悟ることができるわけです。八戒はたいへんだ、つらいなあというようなことは、いわば当たり前のことであり、気にしなくてもいいのです。

 タイ国内外には奨学金を出す財団は数多くあります。しかし、マーヤー・ゴータミー財団が奨学金だけでなくこうして合宿を行うのも、ふつうの知識だけでなく、人生を正しく生きる智慧があって、その二つが支え合ってはじめてほんとうの役に立つと考えるからです。
 政治家であれ、経済界の人であれ、たとえ高い学歴があっても、道徳心を欠いているため賄賂をとったりというケースはあとをたちません。だからマーヤー・ゴータミー財団では、ふつうの知識と正しい人生の智慧の両方をみなさんに与えたいのです。正しい生き方をすることを学び、心を平静に保つようつとめます。できるだけ苦しみを減らし、満足できるような人生が送れるように、-これがわたしたちの願いであり、またブッダの教えでもあります。

ひとりひとりの立場

 わたしたちのこの合宿では、中学生や高2くらいまでの年下の学年は、僧侶の方々や先生方の教えを一生懸命聞いたり、瞑想を習ったりする形で参加します。最も基本的な、直接的なトレーニングです。
 年長の奨学生のみなさんはこれまでも何度も合宿を経てきました。こんどは兄貴分として、合宿を支える仕事をすることがつとめです。そのためには注意深く気をつけて、正しく判断することが要求されます。しっかりとした心でないとできません。

 台所の仕事であれ掃除であれ、またスタッフを補佐する時であれ、状況を見て自分から判断して動いていくことが要求されます。自己を犠牲にすること、つまり自己中心的な都合や欲望を越えて行動するということはとても大切なことです。仕事をとおして、自らを高めるというわけです。
 そして、先生方、財団のスタッフといった人たちもいます。さらには日本からはるばる参加する人もいます。こうしたみなさんにとっても、さまざまな立場の中で、我を捨て、自分を鍛える機会といえます。
 合宿の経験の少ない年下のみんなにとっては、よくわからないことも多くいろいろと不自由もあるでしょうが、忍耐することを学んでください、その中で心はきたえられ、苦しみをこえる力になるのです。このことは先輩である上級生や大人の人たちも忘れてはいけません。この新人たちの苦労は全て苦をこえるためのものであり、だから励まし合って欲しいと思います。
 上級生たちのトレーニングは別のやり方です。ただ話をきいて学ぶというのではなく、現場の仕事をうけおう中で、賢明に行動することを勉強します。

何のために、誰のために

 しかし、ほんとうのところは、こうして合宿に集まったのもすべて自分自らのためです、誰かを助ける、何かを手伝う、とかいうのは外面のことで、ひとりひとりが自分の心を汚れなく正しく純粋にたもち、自らのために行うということです。
 それは教える立場の者にとっても同じ。わたし自信にとってもです。
 ここにいるのは、他でもない、自らを高めるためだということ、そのことをよく自覚することです。とりわけ、多くの人間がいっしょに生活するときには、ひとりひとりが自分自身をよくふりかえりみつめることが大切なことです。

 自分の心を正しく保つ、平静に保つ、それを「戒」、シーラというのです。(注:ふつうわたしたちは「戒」というと、殺生しないなどといったルールの各項目の意味で使いますが、ここでアチャン・カウェーサコー師は戒の本質について語りはじめています。すなわち、戒律の各項目は外に現れる言行の上での規制・基準ですが、その真のねらい・内容は心のあり方にあり、したがって心を正しく制することが戒<シーラ>というわけです。)
 たとえ何か気に入らないことがあっても、怒らないこと、心を動揺させないで平静に保つことです。ただただ自分をみがくことです。自分の気分・感情は抑制して、何を考え何をしゃべり何を行うにしても正しく心を保つこと、それができれば、たとえたいへんな困難の中にあっても、心には静かな満足感がともないます。苦しいことに出会っても、智慧があれば心には満足感があります。

自分をきたえる

 心を正しく保つこと、ここで合宿して修行することの基本です。
 立つ、すわる、歩く、寝る、いずれの姿勢にあるときでも、何をしゃべっているのか、何を行っているのかを見つめ、よく自覚します。心を平静に保ちます。心が平静であれば、その言葉、行いもまた正しく、たとえば他人を傷つけたりということがありません。正しく考え、正しく語り、正しくふるまうということを学びます。仮に、いやなことに出会ったとしても、その感じにまきこまれず正しく考えることができるよう自分をきたえます。

 自分をみつめ、何をするにつけても自分の内へとかえり、心を平静に保つことがつとめです。ともすれば、わたしたちの心は外へ向かい、いっしょに生活する仲間の誰それを非難したりします。他人を中傷しけなすことで時間を無駄遣いするのではなく、自分の心をみつめ正しい状態かどうかチェックすることです。何か他の人にアドバイスしなければならないとしても、まず自分の心のおだやかであることを確かめたうえで、やさしい心で、ていねいに伝えることです。
 自分の心の上下動をおさえ心を平らかに保ちます。そうしていれば心は軽やかで幸せです。たとえつらいことがあっても、こだわらないようにして心を守っていけば、いやな感じ・考えは消えていきます。目から耳からいろいろな刺激がわたしたちを喜ばせたりがっかりさせたりします。しかしこれは気分、心の状態にすぎないとしてこだわらないことが大切です。なかには、いらいらする心、怒りの心、緊張した心に始終苛まれていて、平静な心からほど遠いという人もいるでしょう。辛抱強く自分の心をみつめ、こうしたさまざまな気分をまずよく自覚します、少しずつ、さまざまな気分と平静な心を分かつことを学びます。

正しい実現へ

 心を平静に保つといっても、手をこまねいていて何もしないのではありません。やるべきことはしっかりと行います。仏教ではただ静かに傍観することを教えていると誤解する人も多いようですが、そうではなくて、やるべきことを正しく成就していくことを学ぶのです。
 「目標を正しく捉え」、それに向かって「精進努力」し、そのことに「集中」し、状況を「吟味」するという四つの要件が必要です。
 「目標を正しく捉える」には、自分を解し、自分の立場を知り、その能力程度をわきまえていることが大切です。「精進」するところに成就あり、とはみなさんの知るタイの格言です。
 「集中」-過去や未来をあれこれ考えず、あるいは他人のことにふりまわされないで、自分のつとめに心を注ぎます。「吟味」には偏見やこだわりから離れた心、智慧が必要です。そして。成就のためのこの四つの要件のいずれにも、まず平静な心が基盤として重要なのです。
 心を守ることはほんとうに大切なことです。今日の今からこの世を去るそのときまで欠かすことのできないつとめです。自らの心に安らぎが訪れ、他の人とも調和できます。多勢の人が集まっても幸せに過ごすことができます。
 いかなる問題・困難の中にあっても、心には平和な気持ち、満足感がなければなりません。もし正しい智慧があればそうあるはずです。このことはみなさんひとりひとりにわかってほしいことです。このことがわかれば人生もずっと楽になります。

 世の中で幸せを求めるときにも正しい智慧に支えられていれば問題ありません。一般の知識とダンマ(教え)の智慧が支えあい調和しあっていれば過ちはありません。人生を正しくいきる人が求める幸福とはそうあるべきです。これからの人生を送るにあたってこのことはずっと心に刻んでおいてください。

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豊島成彦の論考

Thesis

Naruhiko Toyoshima

豊島成彦

第16期

豊島 成彦

とよしま・なるひこ

公認会計士・税理士

Mission

リーダーのための公会計

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