Thesis
今、世は「住専」、「薬害エイズ」、「TBSのオウム報道」など、金もうけ主義に犯された「魂」の欠如に起因する問題が吹き出している。
このような魂の無さは、なにも金融界、官界、マスコミ界に限られたものではない。
政治についても同様の指摘ができる。
目先の利益、最近では例えば次期総選挙での勝敗、つまり自分の議席維持のみにとらわれいる昨今の国会運営、議員の行動に、今後日本をどういった方向に持って行こうとしているのか、将来像をどのように描いているのか、つまり長期的なビジョンそしてそのベースになる魂が感じられない。
今から16年前、1980年4月に松下幸之助は、私財を拠出し、「財団法人 松下政経塾」を開塾した。
その目的は何にあったのか。改めて思い起こしてみる必要がある。
私はこう考えている。日本社会に魂を吹き込むことのできる革命家の育成。
松下幸之助が他界し今年で7年目を迎える。果たして、現在の松下政経塾はこうした本来の目的に沿った人材育成が為されているだろうか。3年目を迎える一塾生として考察してみた。
現在、松下政経塾の研修はフェロー制度という枠組みで為されている。松下幸之助他界後始まったものだ。入塾して1年目はアソシエイトという立場で、塾の研修担当がある程度設定した研修枠組みの中で共同で研修を行っていく。
テーマを絞った研究活動のほか、茶道、100キロ歩行、中国古典といったメニューがある。
2年目からはフェローという立場で個人研究に取り組むことになる。
フェロー活動に入る前には研究実践審査会が開かれ、1人1人の研究テーマ、アプローチの仕方などが審査されてランク分けされ、ランクに応じた活動資金が支給される。
以上のように、現在の松下政経塾の人材育成スキームは、基本的には、研究者が助成金をもらって自分の研究を行っていくという形になっている。
さて、そこで、このような現行制度が本来の目的に沿った人材育成になっているのかどうかといった議論が生じてくる。
直感的には疑問を感じないではないが、現実問題として考えて見ると、人に魂を吹き込むといった人材育成は一朝一夕にできるような簡単なものではなく、松下幸之助自身もそのような人材育成については、「自修自得で、自ら会得していかなあかんのやろね」と言っている。
現在の塾の塾生研修に関する管理体制が完璧であるとは言えないまでも、常に改善に勤め、管理可能な分野では以前と比べて相当程度良くなっていると思う。
魂つまりヒューマンの部分は、松下幸之助亡き後、塾としては管理不能、いや管理にそぐわない分野であり、むしろ塾生のパッション次第の面が強いのではなかろうか。
しかし、実際問題として、塾生の間でも、松下幸之助亡き後、松下幸之助をどうとらえていけばいいのか、自分を含めて迷いが有る。
そこで、自分なりに、松下幸之助の考えを塾生として自分の中にどう位置づけていけばいいのか整理してみた。
勿論、私の独断による考えであるので、先輩諸氏の御叱責を賜れれば思っています。
まず、松下幸之助とは我々塾生にとって何なのであろうか。松下幸之助が我々に託した想いを実現することこそが我々の使命であることに異論を唱える人はいないだろう。
では、塾主が我々に託した想いとは? 松下政経塾の設立趣意書を読むと、つまるところ「基本理念の探求、その具現」ということしか書かれていない。
勿論、松下幸之助はPHP活動を通じて、理想とする日本像を書物、講演等を通じてかなりの程度具体的に示している。
しかし、一方で松下幸之助は我々塾生に対して次のように言う。「あんたらは、わしより新しい時代に生まれたんやから、わしより偉くならんとあかんで。」 つまり、塾主を超えろというのである。
また、松下幸之助は言う。特定の師を持ってはならぬと。つまり、松下幸之助は、我々塾生にとって1人の師ではあっても、唯一絶対の師ではないのである。
その結果、松下幸之助とは、我々塾生に、「基本理念の探求、それを具現する人材」になるための研修の場を与えてくれた人ということで一応整理されてしまう。
しかし、それだけであろうか。勿論、違うと、私は考える。誤解を恐れず言うならば、松下幸之助とは、人生そして社会の真理を見極めるための最も便利で取り組みやすい学習教材ではなかろうか。
やや哲学的になるが、真に人々を幸福に導く人生そして社会の真理というものは、1つしか存在しないように思う。
松下幸之助を始め、実学を極めた達人が、その表現こそ違え、それぞれが一生を懸けてとらえた人生そして社会の真理はどうやら1つしかないようである。
ただ、その人の生きた時代、環境、そして持って生まれた性格などによって、この1つしかない真理を、それぞれの方向から描写し、表現しているにすぎないようである。
故に、我々がこの真理を学ぼうとするとき、その学習手段ないし教材は、なにも松下幸之助でなくとも構わないのだろう
。一から自らの人生経験のみに基づき自分で考えてもそれは可能であるかもしれない。
土光敏夫、本田宗一郎など他の実学者を教材に使っても構わないかもしれない。
しかし、松下幸之助ほど、後輩、後世のために、その人生体験に基づく考えを多くの書物に文字化して残した人はいないであろう。
自然科学が、先人の発見した法則を自明の定理として新たな進歩、発見への出発点とするように、人生や社会の更なる真理を極めるためにも、松下幸之助の残した考えを勉強しない手はないのである。この人類の遺産を有効に活用すべきであろう。
私のまだまだ浅はかな理解ではあるが、松下幸之助の人生哲学を、「人生とは、素直な心で、道に従い、日々新たに、生成発展する営み」であると整理している。
そして、幸之助の経営哲学、世界観、建塾の理念などは、この人生哲学がベースとなって形作られていると考えている。
人の理念なり哲学はその人の日々の生活の積み重ねに他ならないのだから、当然のこととも言える。基本は、その人の人生哲学にあるのである。
松下幸之助から直接の指導が得られなかった私たちの世代にとっては、直接接触したという経験を持つ世代の人たちとは、当然松下幸之助のとらえかたが違い、松下幸之助はもはや歴史上の人物でしかないというのは動かしがたい事実である。
しかし、私はそれを残念に思っていない。いや残念だが、逆に、松下幸之助を知らない第2世代として、松下幸之助が残した豊富な資料から彼の人生哲学を学び、それを自分の言葉に置き換え、自分オリジナルの哲学を創り、自分の魂づくりを行うことができる自由度を得たと思っている。
多くの人が、松下幸之助を始めとする実学の先人の人生哲学から、早く人生そして社会の真理を極め、社会に魂を吹き込む活動に参加されることを期待します。
Thesis
Koya Takahashi
第15期
たかはし・こうや
Executive Vice President, Panasonic Energy of North America
Mission
企業経営、管理会計、ファイナンス、国際経済