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1995年5月

シュペングラーと『風土の会』
黒田達也/卒塾生

 
 オスヴァルト=シュペングラーの『西洋の没落』を読了した。我々は塾生、塾員の有志でアーノルド=トゥインビーの『歴史の研究』の輪読を行なっているが、トゥインビーが「文明の比較研究」という視点を得たのは、この『西洋の没落』からであった。私がこの本を読むに到ったきっかけは、昨年5月、米国へ半年程研修に行くことになり、『歴史の研究』輪読の指導を受けている小島直記先生にご挨拶に伺ったところ、是非向こうで読むといいと紹介されたことだった。結局、在米中は日本語訳上下2巻のうち、上巻しか読めなかったが、先日ようやく下巻まで読み終えた次第である。

 この本のコンセプトを手短に紹介しよう。 「文明とは、文化の歴史的過程の終焉である。たとえ非常に知的な技術的形態、あるいは政治的形態が存在しているとしても、すでに生命はつき、未来に向けて新しい表現形態を生み出す可能性はまったくない。文明の象徴は世界都市であり、それは自由な知性の容器である。それは大地から完全に離反し、あらゆる伝統的文化形態から解放されたもっとも人工的な場所であり、実用と経済的目的だけのために数学的に設計された巨像である。ここに流通する貨幣は、現実的なものにいっさい制約されることのない形式的・抽象的・知的な力であり、どのような形であれ文明を支配する。ここに群集する人間は、故郷をもたない頭脳的流浪民、すなわち文明人であり、高層の賃貸長屋のなかでみじめに眠る。彼らは日常的労働の知的緊張をスポーツ、快楽、賭博という別の緊張によって解消する。このように大地を離れ極度に強化された知的生活からは不妊の現象が生じる。人口の減少が数百年にわたって続き、世界都市は廃墟となる。知性は空洞化した民主主義とともに破壊され、無制限の戦争をともなって帝国主義が完成されてゆく。文明の終末である。」

 この本が出版されたのは第一次大戦も終ろうとする1918年だったが、草稿がまとまったのは大戦勃発間もない1914年であった。当時はまだ戦争に飛行機も使われておらず、また大戦もすぐ終結すると思われていたことを考えれば、「無制限の戦争」を予感した彼の先見性には驚くべきものがあろう。その後の第2次大戦、核開発競争、はたまた昨今の新興宗教の終末思想まで彼の思想の延長上にあるように思われる。「空洞化した民主主義」は後にナチスを生んだが、現在の日本の政治状況はどうだろうか。「不妊の現象」は現実に不妊率の増加、精子濃度の減少という形に現れている。仮に子供を産めるにしても産まない社会的理由の多くが都市的生活環境によるものであるから、彼の思想の範囲内で「人口の減少」は現実のものとなっているといえる。「貨幣(経済)」が伝統、文化から離れた「文明を支配」するというのも現在では多くの事例を挙げることができる。

 シュペングラーは歴史を巨大な生命過程とみる。ギリシャ・ローマ文化、中国文化等さまざまな文化が生まれ、成長し、成熟し、死滅する。そしてこの西洋文化の運命も例外ではない。「経済が思想(宗教、政治)を支配」し、「西洋文明は21世紀で滅びる」と断ずる。こうした世界史の比較形態学をさらに発展させ、完成させたのがトゥインビーであった。

 さて、「世界都市化」した社会では、あらゆるシステムが分業化・専門化され、個人にしろ地域にしろ国家にしろその得意な一部分のみを担当することを要請される。効率を求める社会では、「貨幣」により非効率な部分は駆逐される。子育ての好きな主婦は、高い税負担により保母としてより多くの子供を見ることを要請され、ねぎの生産に適した産地は片手間に米をつくることを許されず、ねぎに特化することを余儀なくされる。個人も地域も国家も社会システムの一部を専門的に担当し、経済的相互依存関係(それは決して心情的なものではない)を深めるかわりに独立性を失って行く。そこで戦争が起こったり、国際関係が悪化した場合に、その国家は立ち行かなくなる。天災が起こればこうした地域はもろさを露呈する。病気等で収入が激減した個人は誰からも助けを得られないだろう。

 こうした非常時態が起こらなくても、「世界都市」は「没落」へと徐々に向かう。社会の一部に特化した個人・地域・国家は、他の部分とは間接的接触とならざるを得ない。そして他の部分が増大すればするほど、情報は2次的、3次的となる。野菜を買うのに直接手に取ってみるのではなく、カタログの写真を見て注文する。近所の誰べえさんのトマト、八百屋の親父さんの見立ての信頼度の代りに、カタログの米国産のオレンジには農水省の検査証がつく。近所の農家や町の八百屋は価格と利便性の競争に敗れ、消費者は実物を手に取る機会を失い、選択する能力も失う。そして実際の栄養価が落ちていようが、新種の有害農薬が使われていようが、カタログ上見てくれの良い野菜が売れていく。

子供達は森でカブトムシを捕ることをやめ、サッカーで汗を流すのもしんどく、ファミコンのサッカーゲームを楽しむ。ファミコンの中では、命がどんなものか、人をどの程度の強さで押したら怪我をするかわからない。果してやっとで捕まえたカブトムシ、必死の練習の上で決めたゴールの感動を、すぐにリプレイすることのできるファミコン上で味わえるだろうか。このように情報が高次になるに従い、内在するリスクは増大し、感動は薄れていく。「大地から離れた」、「世界都市」的社会は、無感動、無関心な個人・地域・国家からなる虚飾に彩られた社会となる。

 それではこうした「没落」への運命を避ける方法はないものか。答えは「世界都市」に「田舎」を融合し、「大地を離れた」個人に「母なる大地」のありがたさを実感してもらうしかない。社会システムの分業化、専門化に対し、世の中全体(時間、空間)の繋がりを感じさせる機会を与えるのだ。伝統や歴史の中から、先人の長期的視野にたった知恵を学ぶ。都市計画に市民農園や市民の森を積極的に取り入れ、「大地」の命の循環を肌で感じてもらい、地球環境の保護や希少種維持の大切さを学ばせる。勤労者には時短に並行して地域奉仕を奨励する。子供にも農園管理や地域福祉に実際携わらせ、机上以外の勉強を学ばせる。ほかにも様々な具体案があろうが、こうした経済の効率化の流れに適度にサオを差す施策をこれからの政治に望みたい。もちろん、こうした施策は直接法をもって強制するものであってはならず、あくまで環境整備に留め、あとは人々の道義的理解に基づく推進が肝要であろう。

 最後に手前みそではあるが、こうした考えを共有した仲間が集まり、埼玉県深谷市を中心に『風土の会』を結成した。「都市」の「風」と「大地(田舎)」の「土」とが程良く混ざり合った土壌にこそ、真の「文化」が育つと考えてのネーミングである。秋より同人誌を発刊し、こうした発想を広めて行きたいと考えている。そしてこの地域が21世紀のあるべき社会の範となるよう、微力を尽くしていく所存である。

1995年5月 執筆
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