論考

Thesis

戦争と深谷

今年は終戦50年目の年。皆さんは8月15日をどのように過ごされたでしょうか。
 私の住む埼玉県深谷市では、この日「第1回深谷市万灯祭」が行なわれ、深谷市出身の戦死された1300余柱を祀る英霊塔の前に、市民1人1人の寄付で作られた提灯が約800個並べられ、戦没者の霊を慰めた。この日は英霊塔の内部が特別に開帳され、おびただしい数の位牌を目にすることができた。その位牌の1つ1つが語り尽くせない故人の人生、残された家族の苦悩を語りかけているようであった。
 私は幼少の頃よりここ深谷で育ったのであるが、親族に出征者が少なかったせいか、深谷が先の戦争にどの程度関わりをもっていたのか、ほとんど知らなかった。さらに今の子供達に聞いてみると、広島、長崎の原爆、東京の空襲ぐらいが戦争のイメージで、このあたりから出征された人がいる(しかも当時人口約4万人の町で1300余もの方々が戦死している)、あるいは機銃掃射や焼夷弾による火災で20名程の住民が亡くなられたということを知っている子は皆無であった。
 私は常々「地域から日本を変える」ためには、まず地域をよく知らなければならない。それにはその地域の歴史を知らなければならないと思っていた。 補 た、「戦争」「平和」などの一連の言葉を用いて議論するとき、いつもこれらの言葉が心の中で宙に浮いている、あるいは実感を込めて語ることができない、そんな不安感をもっていた。そこで終戦50年を機に「戦争と深谷」について調べ、現存する写真や実物資料などを収集、展示し、新住民や子供達に身近なところで戦争をわかってもらおう、そして自分自身も戦争についてもう一度考え直す契機にしようと考えた。この6月に、一般市民5名と(社)深谷青年会議所のメンバー3人とで「戦争と深谷」展実行委員会を組織し、資料収集と募金活動をおこなってきた。その過程で様々な戦争と深谷の関わりがわかってきたが、この場で1地域の史実を語っても仕方がないので、ここで戦争体験者の肉声をいくつか紹介してみたいと思う。

 弟の遺書と通信筒を提供下さった村上ハルさん。昭和19年10月下旬、海軍飛行隊員であった弟の川田茂久さんは、出撃を前にして深谷市郊外の利根川上空に飛来、紅白のリボンに砂袋を付けた通信筒を実家付近に落していった。幸運にもそれを拾った姉のハルさんはその中に遺書が入っているのを発見した。
「遺書 国家多難の秋、吾、悠久の大義に生きんとす。なつかしき故郷よ、さらば。
 父上、母上はじめ皆様のご自愛を祈る。        海軍上等兵曹 川田茂久」
ハルさんは言う。「私の胸の中にはこの子は生きているけれども、私が死ねばこの子も一緒にこの世からいなくなる。国家のために命を投げ出したのに」。
 川田茂久少尉はこの後11月25日にフィリピン東方海上で戦死した。

 熊谷陸軍飛行学校(現在の熊谷航空自衛隊)で教官をしていた村上重高さんは、妻子がありながら特攻に志願した同僚の藤井一中尉(当時28歳)について語ってくれた。「彼は第2中隊長として、『必ず後から行くからな』と言って多くの若者を戦地に送り出してきた。当時特攻隊は若い独身者しか選ばれなかったので、彼も2度志願したが選ばれなかった。3度目には、自分の指を切って血判書を出し、やっと認められた。」
 藤井中尉は、当時妻のふくさんと3歳と1歳に満たない2人の女の子とともに、深谷の中島喜美子さん宅の奥座敷に住んでいた。中島さんは語る。「ふくさんは、『特攻に行くことに反対しても頑として聞いてくれない。毎晩けんかなのよ』とぼやいていた」。昭和19年12月14日、悲劇が起こった。「4時頃、ふくさんが2人の子を連れ、『ちょっとおつかいへ行ってきます』と言って出て行った。遅くまで奥に電気がつかないのでおかしいなと思っていたところへ、ご主人が帰られた。
『うちのはどこへ行ったのですか』と尋ねられ、『4時頃お出かけになったのですが・・・』と答えるとご主人の血相が変わったんです。」翌日の朝、近くを流れる荒川の土手に母子の水死体があがった。「ご主人は遺体を抱えて泣き崩れておりました。きっとご主人の足手まといになるまいと先立たれたのでしょう」。翌年の5月28日、藤井中尉は鹿児島の知覧飛行場から、特攻隊隊長として沖縄へ向けて飛び立った。そして、妻子のもとへと散っていったのである。

 小暮宏隆さんは、先日亡くなられた父千吉さんの遺品を処分している時、たまたま叔父才五郎さんの最後の便りと戦死報が巻物に装丁されたものを発見、私に提供してくれた。「ご無沙汰致しました。兄さんにはお変り有りませんか。十月も半ば、そろそろ村の方も涼しさを越えて寒くなりますね。今、家の仕事の具合はどうですか。
 私は相変わらず元気です。戦地に来た時は暑くて汗だくだくでしたが、今では朝な夕なの潮風も寒く、まるで浅間嵐が吹き出した頃の様です。
 私達は毎日クリークのヂャンクを、道路の装甲自動車を、或は線路の列車等、新しい敵をもとめては爆弾の雨をふらせ次々と撃滅して行きます。広い支那大陸然しそこにあるあらゆるものが敵です。帝国に刃向かう敵なのです。私達二十一期同期生もこれら敵の為に斃された勇士、すでに十指に余り、にくみてもあきたらぬ支那軍です。幸い、私は幾多の戦に参加しましたが、かすりきず一つとして受けません。此れも銃後にある皆様の御加護と深く感謝しております。然し戦はまだまだ続いております。尚一層がんばって支那軍を目茶苦茶にたたいてやる覚悟です。(中略)さようなら。十月十九日 才五郎 兄上様」 「軍事郵便」、「点検済み」という赤いスタンプが押されたこの郵便を上海郊外から故郷に当てて出した1週間後の昭和12年10月27日、海軍飛行隊の小暮才五郎兵曹の戦闘機は撃墜された。
 小暮さんはこの他に、才五郎さんの私日記も併せて提供して下さった。これには検閲の跡が見られず、先ほど紹介した最後の便りを書いた10月19日付けの日記も、趣が大分異なっている。
「十月十九日 天候B 午前六時起床午後十時就床 通信発信 小暮仙吉 神田義明
 例によって例の如く新しい敵をもとめて出発した。支那大陸の朝は実に美観だ。はてしも知れぬ大陸をもやの如く、霜の如く、あわ雪の如く、一体にとざしている。
 平和な村、平和な里が其の中にあるのを思う時、戦のザンコクさをしみじみと味わされる(後略)」

 深谷には、昭和19年8月末から銀座の泰明国民学校と京橋国民学校の児童約400人が学童疎開して来ていた。今でも当時彼らが書き残した日記や感想文が、彼らの宿舎となった神社や寺院に残されている。
 「私達が疎開してもう一ヶ月たった。その間につらい事、楽しい事、うれしい事、悲しい事、いろいろな目にあったが、それをうちくだいて来た。来る時の空想などは吹きとばして、そうして遊びもすれば勉強もした。又、農作業の草取りや稲かりなどもした。楽しいすいみんの時間、見るゆめはたいてい家のことであった。何一つふじゆうのない都かいそだちの私達も、今はみんな田舎の子である。田舎の大しぜんのもとで私達はすくすくとのび、げんきよく勉強するのである。そうして強い第二の国民となり、あのにくいにくいチャーチル、ルーズベルトを気のすむまでふみにじってやるのだ。そうしてあの白旗を世界の人々がみな見えるようにあげさせるのだ。それが私達のやくなのである。(疎開三十日の感想文 5年女子)」
 「私達が疎開して、この土地に来て、小母さん達が、ほんとにほんとに、毎日毎日、私達の食べる物を考えて下さる事を、私達は感謝します。また、おもしろいおよぎ、ゆかいないねかりなど、生まれて初めての忘れない事です。田舎ときくと、ほんとにさびしいけれど、私達はこれをしのがなくてはならないのだと思って、そのきもちをおいはらって、なんだこれくらいと思って、元気を出します。私達は、この土地に来、幸福だと思います。私達は、やがて大きくなって、第二の国民として、天皇陛下につくす為、私達は、この土地でがんばるとの、決心です。(疎開三十日の感想文 6年女子)」
 「私はそかいしてきたとき、うちにかえりたかったのでなきました。だんだんなれてきましたからもうなきません。かなしいことはこれでおしまいです。わたしのうれしいものはおてがみがくるととびあがるほどうれしいです。(疎開三十日の感想文 3年女子)」
 戦後の昭和38年、深谷の農村地域が雹害(ひょう)で深刻な打撃を受けたとき、銀座に戻った彼らが義援金を募って恩返しをしてくれた。その後も現在に至るまで暖かい交流が続いている。

 以上、展示予定の一部を紹介しました。もしお時間がございましたら、10月18日より22日まで深谷市立図書館で行なわれる「戦争と深谷」展にお出かけください。また、これを機に、皆さんの地域と戦争の関わりを調べてみてはいかがでしょうか?

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黒田達也の論考

Thesis

Tatsuya Kuroda

黒田達也

第14期

黒田 達也

くろだ・たつや

事業創造大学院大学副学長・教授

Mission

人工知能(AI)、地方創生、リベラルナショナリズム

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