Thesis
6月26~30日の5日間の日程で、埼玉県深谷市の北京市順義県友好訪問団に随行した。今回の友好訪問の最大の目的は、両市県の友好関係都市意向書の調印を行ない、11月に順義県訪問団が来深した際に友好関係都市締結書に正式調印できるよう準備することであった。深谷市からみれば、昨年私が市役所で研修させていただいたカリフォルニア州フリモント市に次いで、第2番目の国際姉妹(友好)都市となり、順義県にとっては初の国際友好都市となる。もっとも、北京市は既に東京都と友好都市関係にあり、市内の3つの区が都下の3区と友好都市関係を結んでいる(ちなみに中国の都市は、中心部に区、郊外に県という行政区分を持つ。北京市は10区8県より成る)。
順義県は、北京市の中心部から東北に約30キロ、人口約55万人、面積1016平方キロ、大半が平地の肥沃な近郊農村地域である。2年前、県内にある北京国際空港まで高速道路が開通し、急激な開発が進行、洋服製造などの繊維工業が盛んになりつつある。日本からもスポーツウエアのゴールドウィンなどが進出し、また中国第2のビールメーカー、燕京ビールの主工場もある。一方の深谷市は東京から北へ約70キロ、人口約10万人、面積69平方キロ、ねぎ、ほうれん草、チューリップは全国1位、きゅうりも全国2位の生産高を誇っている。また、明治の頃から地場産業として瓦、土管の製造や縫製業を営む中小企業が多かったが、60年を境に東芝などの大製造工場が進出し、商工農のバランスのとれた都市に変貌している。このようにスケールの違いと空港を除けば、順義県と深谷市とは共通点が多いと思う。
深谷市と順義県との交流は92年から始まった。5月に福嶋深谷市長が埼玉県自治体中国訪問団長として北京市機械工業管理局などを訪問し、中国の研修生を深谷市洋装協同組合で受け入れる話が浮上、順義県などから研修生を受け入れた。さらに双方の行政視察団の訪問を経て、翌93年7月、深谷市長が順義県長に姉妹都市提携の希望を表明。以降事務レベルで具体的検討を進めることになった。その後、さらに数度の相互訪問を経、94年9月には友好関係都市提携について深谷市議会に正式報告がなされ、今回の意向書調印に到った。この間、洋装協同組合で受け入れた中国研修生は4期100名以上に上り、また酪農振興会、養豚協会でも研修生の受け入れを始めた。さらに深谷市日中友好協会が研修生の精神面でのサポートを行なうなど、友好関係も徐々に幅広くなって来つつある。
さて、今回の我々の訪問団のメンバーであるが、市長夫妻を筆頭に、議長を含む市議5名、市役所職員、縫製、建築、造園、酪農の各業界代表、商工会議所、観光協会、および深谷市日中友好協会の方々、計36名の訪問団であった。空港に着くなり、市長には黒塗りのクライスラーが用意され、パトカーの先導のもと、信号を無視して順義県政府まで送迎する。政府の迎賓館では小中学生の鼓笛隊や歓迎の歌で迎えられ、赤いチャイナドレスに身を包んだ女性達が我々の接待をしてくれた(聞けば接待専門の順義県職員というから驚きだ)。その後は歓迎会、調印式典、晩餐会と乾杯乾杯の連続、夜には雑技や歌の鑑賞、ファッションショーまで披露され、文字通りの熱烈歓迎を受けた。昼には順義県内の工場、ゴルフ場見学や産業業種ごとの関係者によるディスカッションも行なわれた。
今回の訪問を通じて感じた日中友好都市締結において注意すべき点を次に述べたい。
まず、意向書調印式での市長、県長の挨拶の内容である。ともに「一衣帯水の国」、「古くから文化的にも経済的にも友好関係にあった」といった無難な内容で、日中戦争には殆ど言及しなかった。先月、村山首相が歴代首相で初めて北京市郊外の盧溝橋を訪れ、抗日戦争記念館を見、人民日報に賞賛されたが、一方先日の国会決議のごたごたでは不興を買った。今回の福嶋深谷市長の挨拶には順義県の人々も注目していたようだった。市長もこうした経緯に配慮し、挨拶の最後に陶淵明の帰居来の辞の一節に掛けて、
悟已往之不諌 知来者之可追 実迷途其未遠 覚今是而昨非
(過ぎ去ったことを悔やんでも仕方がない。これからのことはまだ取り返しがつく。
人生の進路を踏みまちがえはしたものの、それほど遠くへは来ていない。
昨日までのあやまりに、今はっきりと気がついたのだ。)
と訓読で紹介し、順義県側に真意がわかるようにさりげなく過去の戦争について触れた。秘書に聞いたところ、今回の挨拶は微妙な表現が必要となるので市長自ら内容を決めたそうだ。戦後50年の今年、中国と友好都市関係にある日本の自治体は皆頭を悩ませる問題であろう。
次に、日中双方の友好関係に寄せる期待のずれである。深谷側は研修生受け入れをきっかけとした、人的、文化的交流を期待している訳であるが、順義県側は順義への資本投資、深谷の農工業技術の習得といった、経済的、技術的交流を期待している。まだ意向書調印の段階にも関わらず、順義県の商工部門、農業部門の責任者は積極かつ具体的に訪問団の業界代表者にアプローチしていた。すでに農業分野ではねぎの品種改良について技術協力が始まっているが、今度はチューリップを順義で生産して空輸したらなどともちかけられているそうだ。農家や縫製業界もそうだが、皆中小零細企業が主で、特に縫製業界は中国などからの安い輸入もので深刻な打撃を受けているのが実情だ。彼らのアプローチにはそうした配慮を微塵も感じられず、自らの利益しか考えていないようにさえ感じた。昨年米国の深谷の姉妹都市フリモント市の市役所で研修していた時、市長から中国のある都市との友好都市締結の挫折について聞かされた。彼らがあくまでフレンドリィな関係を求めていたのに対し、中国側はビジネスライクだというのがその理由であった。福嶋深谷市長に以前この話をしたところ、彼は「日本は中国に負の遺産を負っている。過去の歴史を見ても日本は中国から多大な恩恵を蒙ってきた。今はそれをお返しすべき時だと思う。米国と日本とでは中国との歴史的関係が全く違う。」と指摘した。それでも深谷市も今回の友好提携をするまで2年もの事務レベルの交渉を行なっており、意向書の中にも訪問団の費用分担の方法まで明記されている。深谷側の挨拶でも経済交流については慎重を要すると言明することしばしばで、そのくらいの釘の差しかたが友好都市間でも必要だと思う。
最後に中国内での順義県政府の立場である。2年前に政経塾の中国スタディツアーに参加し、中国の地方政府間に外資導入、企業育成、財政潤沢化の競争が始まっているのを見た。その地域の党書記や首長のこうした行政手腕が政治家および党人としての出世を左右するのだ。深谷市が中国から研修生を受け入れた際の中国側の窓口は、北京市機械工業局であったが、研修生の寮費、食費等を除いた月約8万円の収入のうち、約4万円を彼らは研修生から徴収する。しかも、昨年までの機械工業局の担当者達は人材派遣ビジネスを北京市から独立して始めたらしく、研修生をめぐる利権構造が複雑化している。そこで順義県側は「第3者を通さない方が、スムーズに研修生を送れる」と強調し、北京市から順義県に派遣の窓口を切り替えることを勧めていた。深谷では現在9社に39名の研修生を受け入れており、来年から受け入れ数を倍増させる予定だ。40代の若い県長始め、順義県政府が一丸となって深谷市訪問団を熱烈歓迎する一因がここにある。逆に考えれば、今後深谷の企業が順義県に進出する場合、必ずしも北京市や国が順義県での企業活動をサポートしてくれるとは限らないことには留意する必要があろう。
ともあれ、塾主の「21世紀はアジアの時代」という考えの土台には、中国の発展と日中の友好関係があることは間違いない。私もこれを機に小さな日中の架け橋になるべく微力を尽くしたいと考えている。そこで、深谷市の生んだ偉人、渋沢栄一氏の発想を中国に広めることが改革開放政策をより良いものにすることに繋がると考え、今秋来日する中国社会科学院の崔世広氏および範作申氏に研究者や研究資料を紹介するとともに、来年にも発行される中国語版の「論語と算盤」のサポートをしていくことにした。また11月の正式調印には今回の深谷側の訪問団には皆無であった若い人達もかかわっていけるよう、イベントなどを考えたいと思っている。
Thesis
Tatsuya Kuroda
第14期
くろだ・たつや
事業創造大学院大学副学長・教授
Mission
人工知能(AI)、地方創生、リベラルナショナリズム