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1997年11月

江口克彦氏講演会開催
黒田達也/卒塾生

 

11月5日午後7時30分から深谷市民文化会館小ホールで黒田政経研究所主催、PHP研究所副社長江口克彦氏講演「松下幸之助が成功した理由」を開催致しました。講演は1時間30分におよびましたが、会場では社員ともども聴講する熱心な経営者の姿が目立ちました。ご講演の一部を紹介します。

●松下翁 行政改革めざし「松下政経塾」つくる

1989年11月9日ベルリンの壁崩壊後、時代が大きく変わりました。現在日本がうまくいかないのは、古いシステムから新しいシステムに切り替えられないからです。政治にたずさわっている人が古いしがらみに縛られているからです。改革には、しがらみとは無縁の若い人たちが政治の表舞台にでてこないと、どうにもならないのです。

明治維新を見てごらんなさい。坂本竜馬をはじめ、みんな若い人たち、20代が改革を断行したのです。戦後日本の経済が急速に発展したのも、当時の社長連がパージで飛ばされ、課長クラスの若い人たちが陣頭指揮をしたからなんです。(中略)

現在の日本では、民間でできる事を政府がやっているから、民間の経済が活性化しないんです。民間ができる仕事を増やしたらどんどん経済が発展するんです。こんなことは松下幸之助がずっと前から言っているんです。昭和51年から赤字国債が発行されましたが、その直前に幸之助は「このままいったら日本の国の借金が増えて大変なことになりますよ」と緊急提言したんですが、政府はしらんぷり。そこで幸之助は1つの決意をします。政経塾をつくって政治家を養成し、日本の国を良くしていこうと思い立ったのです。税金はできるだけ低くおさえて高齢者が安心して暮らせるよう生産性を高めて、政治で使われる無駄なお金を無くそうと訴えたのです。松下幸之助がつくった松下政経塾には幸之助の志に感動した若者たちが集まり、現在国会議員が15人、県市町村の議員は50人ほど活躍しております。彼らは心をひとつにして日本をつくりかえようとがんばっているのです。アメリカのクリントンは49歳で大統領になっているんです。日本でも40代の首相が出てくるようでなければいけません。

 

 

●お客様の利益優先 -松下翁の経営-

どうして松下幸之助が経営で成功することができたか考えると、いくつかの理由があろうかと思います。1つは、商売の順番を間違えなかったことではないだろうかと思うんです。私たちは商売がうまくいかなくなると、まず売り上げをなんとか上げたいと必死になるんです。ところが松下幸之助は、そういう折に、どうやったらお客様が喜んでくれるだろうか、どうやったらお客様が満足してくれる品物をつくることができるだろうか、と、そっちの方を先に考えたんですね。このことについて分かりやすい例でお話してみたいと思います。

 

 

●お客様の気持ちになって作った「心の帽子」 -万博はナショナルマーク一色に-

1970年大阪で万国博覧会が開かれました。松下電器は何と会場に大きな池を堀り、その真ん中にパビリオンを建てました。夜ともなると建物が池に反射して、それは美しい光景でした。色々な雑誌のグラビアを飾り、非常に有名になりまして、お客様が殺到いたしました。

7月の暑い日、幸之助は突然パビリオンに行ったんですが、行って見ると延々長蛇の列。75歳の幸之助はその時、列の後ろについて並んだんです。係員が出てきて「ぜひ通用口から入って下さい」と申し上げた時、「いや君たち心配せんでええ、さっき来てみたら、えらいお客さんが並んで下さってる。炎天下のもとでじっと並んで待って下さっている。それを見て気の毒だと思った。それで自分でどれだけかかるのか私は今計っているんや。」と行ったそうです。順番が来るのを待って中に入るのにそれから2時間以上かかったそうです。入ってからどうしたかといいますとすぐに係の者を呼んで、怒らずに3つの指示を出したんです。

1つは「もっとお客様が流れるような誘導方法を考えて見てくれないか」、2つめは「橋を渡って来てもらうのだから日陰がない、ところどころに大きな日傘を出してくれんか」という提案。3つめは「紙の帽子を作ってお客様にお渡ししなさい」ということでした。

係の者は早速帽子をつくりました。もちろん帽子の横には「ナショナル」と印刷されていたのいうまでもありません。それを並んで下さっている方に一人一人にお渡ししました。お客様たちは大変喜んでくれました。それもそもはず、帽子をかぶれば直射日光をさえぎることができますし、暑さしのぎになったからでした。お客様はそれをかぶってパビリオンに入りました。

問題はその後なんです。松下電器のパビリオンを見終わったお客様は、松下電器の帽子をかぶったまま万博の会場を歩くわけです。そして他の企業のパビリオンを見学する際も帽子をかぶって入っていったのです。それを見た他企業の社員がこう言ったと伝えられています。「さすが松下さんだ。商売上手だ。」しかし考えてみて下さい。幸之助は万博の会場を宣伝の場として使おうと考えたのでしょうか。商売で紙の帽子を考えたのではなく、自ら並んでみて、暑い中並んで下さっているお客様に喜んで頂きたいと、こう考えて紙の帽子を作ったんですね「心の帽子」なんですよ。ところが他の人たちには、それが「宣伝の帽子」と見えたんですね。幸之助は「心の帽子」を考えたから、お客様は松下電器の帽子WPかぶったまま万博の会場を歩いてくれたんですよ。しかも会場を出て電車に乗っても帽子をかぶっているんです。えらいPRになるわけです。商売とは、こういうものなんです。これが「商売の順番」ということなのです。(中略)

 

 

●女中さんの願い実現 -過疎地に工場作った松下翁-

昭和40年松下幸之助が鳥取に講演に行ったことがありました。米子に行きましたら、知事をはじめ市長も出てきて挨拶をされました。講演を終えた松下幸之助は米子の旅館に泊まりました。その時松下幸之助は、ひとりの女性にものすごく感動し、感銘を受けたんです。

その女性とは旅館の女中さんなんです。どうしてその女中さんに感動をうけたかといいますと、ご飯を給仕してくれながら女中さんが「松下さん、ひとつお願いがあるんですよ。私たちは淋しくてしかたがない。うちの息子もこの間大阪に出ていってしまいました。自分の息子だけじゃなく、若い子たちがみんな都会に出ていってしまいます。町は年寄りばかりになってしまいます。淋しくてしかたがないけれど、子供たちには出ていくなとは言えません。ここには働く場所がないからです。そこで一つでもいいから松下さん、ここに工場をつくってくれませんか。」とこう言うんです。

これに松下幸之助は感激するんですね。さっきまで知事や市長に会っていたけれど、彼らは一言も言わないのに、この女性が工場誘致を言ってるんですよ。「この人は偉い!」このへんが松下幸之助のすごさです。女中さんが、ひとりの女性が言ったところで俺は関係ないよというのが普通でしょう。企業というものは人々の幸福、喜びの為にあるはずだ。それにもかかわらず人々を淋しがらせ、悲しがらせするということは、本来の企業人の使命に反することになる。企業は少々の損をしても、こういうところにあえて工場を出すということをしなければいけない、そう考えて松下幸之助は大阪に帰りました。

翌年から九州全県に次々に1県に1工場を作っていきました。2年半後に、遂に女中さんとの約束通り大山のふもとに精密マイクロモーター工場をつくるんです。その女中さんが大変喜んだのは申すまでもありません。松下電器は5月5日が創業記念日ですが、その工場でも5月5日に創業記念祭を行ないました。その後の式典でも第一番目の主賓は、常にその女中さんだったのです。松下電器から行ったどの重役たちよりも上の席にその女中さんが招待されたのでした。

多くの会社が過疎の地に工場を出したら会社がやっていけないというのは、輸送費に問題があるからなんです。部品や製品を運ばなければいけませんからね。さて、工場進出の結果はどうかと申しますと、これが結構儲かったんですね。どうしてかといいますと、まず土地の価格が安い、物価が安い、人件費も安いということで、補ってありあまる利益が上がったんです。

この場合も、過疎地に工場をつくったら儲かるから工場をつくったんではないんです。そのひとりの女性の発言で、なるほどそうだと思った松下幸之助の思いが先行しているんですね。ここなんですよ、商売というのは。経営というのはそこなんですよ。商売の順番、経営の順番というものは、こういうものなんです。人生でも同じことです。こういうことを考えることが自分の幸せに大きくつながって来るんです。

 

 

●不況支える「お店のファン」 -いちげんの客も大事した松下翁-

2番目のお話です。松下幸之助が成功した理由は、お客様づくりをしなかったことです。お客様以上の人たちファンづくりをしたんですんね。お客様は確かに大事なんですけれど、お客様だけを意識して経営すると、不況の時には広がりません。不況の時には畑がありません。お客様だけの畑しかありませんから、しぼんでしまうんです。お客様を作っていくということは、等差級数的に増えていくだけなんです。1+2+3+4・・・という具合にね。ところがファンを作ると等比級数的にお客様が増えるんです。1+2+4+8+16+32・・・と。このように幾何級数的にお客様が増えていかなかったら、わずか70年間、1人の人間が生きている間に0から、いやマイナスから出発した人が7兆円もの企業を作り上げることができるはずがございません。

ある時私(江口氏)のもとに、誰とも分からない人から突然電話がかかってきまして、「松下幸之助さんに大変感激したという話を伝えたい」とのことでした。その人は松下幸之助のファンでして新幹線の中で松下さんを見つけたもんですから、ひと声でもお声を聞きたい、ぜひ話かけて見たいと思ったんですね。その人はミカンを買って松下さんに差し上げたという次第です。そしたら松下さんはびっくりしまして、その人の顔をじーと見て、一瞬の沈黙後「ありがとうございます」と言っってくれたと言うんです。「松下さんがミカンの皮をむいて食べてくれたんですわ」と感きわまった様に話すんです。松下さんは京都駅で降りるんですが、その時わざわざその人の所にやって来て「先ほどのミカンは大変おいしかったですよ」とおっしゃたそうです。そして「ありがとうございます」といってお辞儀をしてくれたんだそうです。それだけではなく「ホームに降りた時に、わざわざ私たち夫婦が座っているところに来て頭を下げ、新幹線がでるまで見送ってくれたんです!」というお話でした。その人は窓ガラスに顔をつけて松下さんが消えるまで見送り、そのまま新大阪まで窓ガラスに顔をつけ、ボロボロ、ボロボロ涙が出て来たそうです。そして新大阪に着いた時、ひとつの決心をしたそうです。その人は小さな会社を経営されている人でして、すぐに電気屋さんを呼びまして家中のあらゆる電気製品をナショナル製品にかえてしまったんです。会社にある電気製品も全部ナショナル製品に変えられたとのことでした。

これなんですよ。好景気の時は、お客様相手で十分なんです。ところが不況の時は困るんです。お客様以外の別の畑をつくっておくことが大事なんです。(後略)

1997年11月 執筆
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