論考

Thesis

奥駆け体験記

8月9日、世間は小泉首相の靖国神社参拝の是非を近隣諸国との関係や政教分離の観点から論じる中で、私は日本に古くから伝わる修験道の荒行、 奥駆けなるものを体験するため、福井小浜に出発した。奥駆けとは昔、行者が行ってきたもので日本海で禊をし、霊山などの行場を徒歩で神仏を拝みながら歩き太平洋で禊をするといった修行である。今回は福井小浜を出発し、滋賀まで歩き、京都などの都市部は電車を使い吉野まで移動して吉野から 山上ヶ岳、近畿最高峰の八経ヶ岳を通り熊野本宮へ抜け、那智勝浦までを約250キロを8日間で踏破するコースである。奥駆けをした理由は自分の力を限界近くまで出すことにより、精神を鍛えること。また、修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)から千年以上も伝わる修行をすることで日本の歴史、文化を学ぶことにあった。私は修験道の体験は今回が始めてであり、修験道と密接な関わりのある神道や密教の信者であるということは特にない。しかし、日本の神道の思想に魅力は感じていたことはある。それ政経塾での1年目の関西研修で伊勢神宮に参拝したとき、神官が伊勢神宮の伊勢に鎮座する までの経緯を説明したときである。それは伊勢に神道系の神々が鎮座する前にも、そこに住む住民が信仰する土着の神々がいたが、神道系の神々を祀るにあたり土着の神々を排除することなく鎮座させたということである。神官はここに日本らしさがあると指摘していたがそうであろう。世界の歴史は宗教の対立の歴史でもあった。八百万(やをよろず)の神々を崇拝する多神教の日本に対して西洋は一神教であり、その対立は現在でも中東など世界で続 いている。欧米では民主主義の思想の発展とともに価値観の多様性を認めるようになり、キリスト教以外の宗教にも寛容になっていくが、日本では古代からその寛容さは備わっていたことになる。民主主義は西洋の借り物であると日本では揶揄されることも多いがその下地になり得るものが古代の日本に発見されたことが神道に興味を持つ一つのきっかけであった。

8月10日、小浜を出発

 8月10日、福井小浜を8時に出発した。それまで3日間、肉や魚の摂取や酒、タバコなどの嗜好品を断った。これを潔斎と言うが身を清めると同時にそれらを断つことによって人間の感覚を敏感にさせ、修行中に多くのものを体得しやすいようにするのが目的であるらしい。まず、海水浴場でふんどし一つで海に入る禊をする。海水客の見守る中、一見滑稽な儀式の後に海につかるが、ここに日本の生い立ちを表す象徴的な動きが行われる。船とりの儀式というが、船を漕ぐような身振りをする事であるがこれは古代に日本人の1部は船で日本に渡来してきたことを暗示させる。また、海に入るということは生命が海から生まれた事を暗示したものではないかと言うことでもあるらしい。その後、滋賀県のある村までの40キロの道のりを歩く。そこは古くから残る山道で鯖街道と呼ばれ、小浜から京都まで鯖を担いだ行商人が何百年も使用したであろう道だ。村人の話によれば約50年くらい前まで鯖を買いに行くなどで使用していたらしい。早くも足にはマメがいくつもでき、政経塾の1年目の100キロ歩行で途中リタイアしたことの不安が頭をもたげてきた。これまで気付かなかったことであるがアスファルトの道は人間の歩くことに適してないということである。アスファルトの道は着地のときの衝撃が大きく膝や足首、股関節に大きな負担がかかる一方、山道は土や土の上の落ち葉がクッション代わりになり、負担はそれほど感じられない。最後にはアスファルトの道でもアスファルトの部分を避けて道端の土の残る狭い部分をわざと選び歩いたものだが、高齢者社会の到来へ向け都市部でも歩行運動が奨励される中で歩きやすい自動車中心でない人間的な道のあり方も考えなければなるまい。

8月12日、吉野を出発

 朝6時、吉野の宿を出発する。我々の一行は小浜より出発したが近代ではこのようなコースをたどる人は少ないらしい。現在では吉野?熊野本宮というコースが多用されているらしいが、ここからそのコースでいよいよ本番といえる。ここからは霊山と呼ばれる1500メートルを超える山々が連なり、山あり谷ありの困難なコースである。その日は約20キロ離れた山上ヶ岳の頂上にある大嶺神社を目指すが未だに山上ヶ岳は女人禁制とされておりそれだけに困難も多い、岩肌を鎖を使って登るような所がいくつもあり、山頂では新人には荒行が課せられる。一つは「西の覗き」と言われるところで新人行者はここで二、三十メートルぐらいの高さの崖の上からロープ一本で逆さに吊るされなければならない。ここで死の疑似体験をすることにより、心身ともに生まれ変わらせこれからの修行に新しく打ち込むことを意味するらしい。もう一つは「裏の行場」である。岩ばかりが転がった山肌の道を洞穴に入ったりしながら超えなければない。最後は下も見えない崖をロープも使わずに自分の手と足だけでロッククライミングの要領で登らなければならない。高所恐怖症の私には困難なコースであったが何とか登り終え、到着後は心身ともに疲れ果てた感じであった。次の日は朝5時に出発して弥山を目指す。この日は12時間かけて到着した。足の裏はマメが潰れて化膿して痛みを堪えながらの歩行であった。気が抜けない難所は所々にあり、数ヶ月前にも慣れた行者が滑って60メートル余りを他人を巻き込みながら転落し、大怪我をする事故があったらしい。吉野の3日目からは条件は悪化する。川や井戸などの水を補給する場所もほとんどなくなり、道も不明瞭になる。3日目はいろいろ事情もあり、朝5時から夜中の1時半まで歩く羽目となったが途中はヘッドライト一つで熊や猪などの動物に襲われる危険性も考慮しながらの移動であった。その後2日で熊野本宮へ移動、そして1日かけて那智の那智大社、そして勝浦の太平洋での禊で全行程を終了する。禊終了後は困難を克服できたことに感謝の念が沸き起こった。

修行を終えて

 修行の間はいろいろなことを考えたり、感じることにより普段の都会の生活では得れないものを得れた。また、先達と呼ばれる同行させていただいた行者の方々との問答も示唆に富むものばかりで大変勉強になった。いくつか以下にあげてみる。

はらを据える

 ここで得られたことはまず、人生を生きていく上で「はらを据えていきる」ということを一層強くしたことである。連続する難所はかつては多くの行者が行き倒れで倒れたであろう事を連想させた。手を滑らしたり、崖が崩れたことによって落ちた人、獣に襲われた人、遭難した人、水や食料を得ることができずに倒れた人などである。それらの危険性は今回の我々にも当てはまることであり、近くに死の危険性を感じながらの移動はそのような心配にいちいち拘っていられない、またそのような不幸は神のみぞ知ることであり、心配しても仕方がないというちょっとした違った境地を感じさせられた。夜中までの歩行ははらを据えて前へ前へ積極的に進む気持ちが恐れなどを取り除いてくれたからなし得たものだ。その境地は世間で生きていく上でも忘れないで戦わなければなるまい。

恐み(かしこみ)日本の思想

 気を抜けば死もあり得る旅路や、夜の闇の中の深い山で空と大地との中で一人佇むことは人間の無力さを改めて感じさせ、自分の存在そのものの意味などを考えさせられる。「自分が世に必要とされないものであるならばここで動物の餌食になることも在り得るだろう。それを避けるためには今後自分は何をして行きなければならないのか。」などの自問自答である。その中で無事、大した怪我もせず歩けた事で神や仏に対する感謝の念が自然に生まれる。印象に残ったのはある山を登って頂上に来たとき、私を指導してくれた先生が言った言葉である。先生が言われたのは、西洋では山を登ることを山を征服すると言う。しかし、日本では言わない。それは日本は古来、自然のいろんなものに神の存在を感じ、恐れた。それが故に人間の自然の中での無力さを知っており、自然に謙虚になれた。そこに恐み(かしこみ)の思想が生まれ、如何に自然と調和するかが日本人の課題であったということだ。近年、日本はこの思想を忘れたような気がしてならない。公共事業で川はコンクリートに覆われ、山は森林伐採で荒れるなど恐むことを忘れたことが様々な問題を引き起こしている。世界の状況見ても恐みの思想は必要であろう。近年の自然破壊は西洋の自然を征服するという価値観のもと、進んできたといえるかもしれない。自然との調和を考えない開発は地球的規模の問題を引き起こしている。今こそ、日本人は恐みの思想を思い出し、それを世界に流布するチャンスといえるかもしれない。

日本の歴史から見た役割

 山の中には仏教の神や神道の神などが所々に祀ってあり、その度にお経を上げるなど拝みながら歩く。修験道は神道や仏教が混ざり発展したものである ということが分かる。古代の日本は外国からのものを多く取り入れ、アレンジさせ定着させてきたようだ。日本に伝わる神話である古事記にもそれを連想させる記述はある。海から来て神となった神の記述もあるし、古くから伝わる神の中には肌が黒い神もいるそうだ。それらが神であるかの議論は別にしてもこれらから想像できることは日本人の先祖には海から来た渡来人が多くいたことを示唆する記述であると解釈でき、いろいろな文化を吸収してきたであろう事が想 像できる。日本は東洋の極みに存在する国でそこに多くの人、文化が結集し、それらが混ざり合い、独自の日本文化として完成させてきたことが分かる。然るに今の日本ではこれまで伝えられてきた伝統文化は廃れてきており、また、海外の技術等を取り入れて最先端の水準となった技術産業は教育政策の失 敗と相俟って、優位性が損なわれつつあることが憂慮されてきている。古来、日本は技術や文化を練り完成させるのが役割だったと言えよう。そこに日本人の精神性も鍛えられてきた。日本の経済的衰退が囁かれている今だからこそ、古くから日本が文化大国であったことを思い出し、経済大国からの脱却をこれ からの日本の持続的発展の為に図らなければならないのかもしれない。

 以上のほかに、言葉でまだ言い表せないようなものも含め多くの事を得れた今回の修行であった。神道や修験道は「道」であり「教え」ではない。神道への 賛否は別にしても古来、日本人心のよりどころにしてきたのがこの道である。この道の理解は日本への理解にも繋がるだろう。日本をよく理解し、いい方向へ導くためにもこの道を探求していきたい。

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平山喜基の論考

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Yoshiki Hirayama

平山喜基

第20期

平山 喜基

ひらやま・よしき

衆議院議員鬼木誠 秘書

Mission

選挙と地方分権から民主政治を考える 食料問題 首相公選制

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