Thesis
現在の日本は、新たな地方分権の時代の流れにおいて、明治維新、戦後改革に次ぐ「第三の改革」のなかにあると言われている。こうした改革の必要性や、方向性を考えていく上では、中央政府や地方政府といった国家のかたちを歴史的に観ていくこともまた重要である。「億兆を保安し万国と対峙」するために「藩を廃し県と為す」という天皇の言葉、詔書によって、近代中央集権国家として「明治国家」は誕生した。 まずは、近代国家日本の原点として、明治国家の考察を試み、現状の日本国家をどのように建て直すべきかを考えていきたい。
現在の日本は、新たな地方分権の時代の流れにおいて、明治維新、戦後改革に次ぐ「第三の改革」のなかにあると言われている。
明治維新において中央集権的近代国家日本は出発し、明治における近代化、戦後の経済復興とも、中央集権的構造を維持して日本は発展を遂げてきた。戦後憲法で地方自治が謳われ、その後、地方自治の充実が随時図られてきているが、人口減少局面、グローバル化のなかにある現在の日本においては、より根本的な地方分権、さらには新たな時代に対応する改革が求められているのである。
こうした改革の必要性や、方向性を考えていく上では、中央政府や地方政府といった国家のかたちを歴史的に観ていくこともまた重要である。明治国家という近代国家日本の原点は、いったいどういったなかで誕生し、形成されていったのか。
ここでは、まず、明治維新における王政復古や廃藩置県といった改革が、近代中央集権国家建設においてどういう意味をもつかを考察していき、さらに福沢諭吉の『分権論』を踏まえて、近代日本の原点を見つめなおしてみたい。
約270年続いた徳川幕府は、徳川慶喜によって大政奉還がなされるも、薩摩、長州両藩に代表される武力討幕派の王政復古クーデターによって亡ぼされる。
欧米列強の植民地となることを防ぎ、一国を独立するためには、江戸幕府の専制を否定し諸藩連合政権を構想する公儀政体論では不十分であった。「神武創業の始」に基づいて、鎌倉幕府以来の武家政治とそれに先立つ摂関政治を否定し、古代の天皇親政に復古したわけである。
この王政復古は、明治国家の基本方針を大きく方向付けるものであり、近代国家建設において、日本が資本主義、民主主義を根付かせていく上での原点になったものといえる。
まず、この王政復古が近代国家建設に何をもたらしたかを考えていきたい。
江戸幕府は、政府として、どのようなものであったかをみてみると、徳川家という家によって運営されており、国民から広く租税を取っているわけではなく、基本的な収入は米四百万石だった。また、諸大名は、地方の政府として租税をとり、通貨も発行すれば、軍隊をも持っていた。江戸幕府は、それら諸大名のなかで、天皇からもらう「征夷大将軍」という職によって、大名のなかでの代表格として、国家の統治権を任されていたといえる。いまでいう国家権力が、地方に極めて分散していたのである。国内が分割されているなかで、日米条約といった外国との対応は、江戸家が幕府として対応していた。当然、それぞれの藩における武家社会の封建制はまた、近代国家としての平等思想も持ち合わせられていない。
こういった、幕藩体制においては、近代国家建設は不可能であった。大久保は、こうした状況を少しでも残した諸藩連合政権となってしまえば、折角の大改革も「水泡画餅」になってしまう、王政復古に基づいた国家を建設すべきだと強く訴えた。
王政復古に基づいた国家の方針は、「五箇条の誓文」にみることができる。
簡単に訳すと、広く会議を開いて、万機を公論し、上下なく国のために活動し、官吏も武士も庶民も一緒になって志を思うように遂げ、国際法に基づく国をつくり、知識を広く海外に求めて国を発展させていくという内容であり、天皇が国家の方針について天地神明に誓い、万民にその趣旨の賛同を願い、ひとつになろうというものであった。こうした国家の基本方針は、明治憲法の天皇主権に繋がるが、近代化を実現する強い背景となった。
天皇のもとに、その諸大名の分散した権力を集め、主に財政や軍隊において国力をたかめることによって、欧米列強の外圧から一国の独立を保つ、また国民は、その天皇のもとには平等である、という新たな国家の方針を、王政復古は、論理上、確立したものだといえる。
また、「五箇条の誓文」にも強くみられる平等思想は、封建社会の否定にとどまらず、大きな役割を果たした。
幕末の思想として、朱子学による尊皇攘夷、国学や神道、「一君万民」といったものが挙げられるが、王政復古は、「一君万民」にある天皇のもとには、万民が平等であるという平等思想を強く根付かせた。勤勉で倹約だった江戸時代の日本人に、さらにこうした平等思想が根付いくことによって、後の近代化に非常に有意義であったのである。
プロテスタントにおいて、神のもとの平等思想により民主主義の素地が生まれ、勤勉や倹約が貯蓄を生み資本主義の精神に繋がったとするならば、王政復古によって、日本国民は、このプロテスタントにおける条件を得ることが出来た。他のアジア諸国と違って、この時代から日本に、資本主義や民主主義がうまく取り入れられていったのもこうした条件の一致が、非常に大きいと考えられるのである。
吉田松陰においても、この「一君万民」という漠然とした方向性に向かって、封建的社会を根本から変革し、対外的に自由独立した近代日本の建設を目指していた。天皇のもとに万民が平等であるという思想を目指した一連の変革は、明治維新を単なる士族革命で終わらせず、近代日本が資本主義国家に向けて飛躍していくのに必要な国民のエートスを転換させるものであったといえるであろう。
日本の近代国家建設にとって、王政復古は、近代化に向けて意識を統一する国家という枠組みとその基本方針をもたらし、さらには資本主義に必要な平等思想をもたらすものであった。
余談になるが、明治2年に薩摩藩兵の将校が英国歩兵隊の軍楽長の進言によって歌詞を選定したのが、国歌「君が代」の発端である。「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」という歌詞における「さざれ石」が、塾の講座として鶴岡八幡宮で参拝したときに、寄贈されたものとして境内に設置されてあった。
この石は、石灰岩が雨水で溶解されてできた乳状液により、無数の小石が凝結し、大きな石になったものであり、学名を「石灰質角礫岩」という。
明治という国家は、数百年の平和を築いた江戸時代の諸藩とその柱となる藩士、さらには庶民が、より永続し、より栄えることを願って、大小様々な細石が石灰岩によって凝結していくように、天皇のもとにひとつになろうとしたものであった。
しかし、天皇のもとに統一する国家像を描きながらも、当時の実情においては、諸藩に依拠せずには新政権は成り立たたなかったのである。そこには藩を維持しながら中央集権国家を実現していくという矛盾があった。次に、こうした明治国家の中央集権化についてみていくことにする。
先述のとおり五箇条の誓文で基本綱領を掲げ、政体書によって政治制度を確立していくなかで、諸藩の改革を進めていくが、地方行政区画においてみると、いわゆる府藩権三治体制で、府・藩・県と三区分とし、府には知府事、藩には諸侯、県には知県事を置いていた。
版籍奉還によっては、法的、制度的にも諸侯が知藩事という地方官になったが、内政、外政ともに、政府と諸藩との対立、政府内部の対立は絶えなかったようである。さらに各地で反政府的な一揆や反乱が発生しはじめ、ついに武力を背景として、廃藩置県が断行されることになる。廃藩置県の詔書の全文をみると、こうした意図がよく理解できる。
「朕惟ふに更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙せんと欲せば、宜しく名実相副ひ政令一に帰せしむべし。朕さきに諸藩版籍奉還の議を聴納し、新に知藩事を命じ各其職を奉ぜしむ。然るに数百年因襲の久き、或は其名ありて其実挙らざる者あり。何を以て億兆を保安し、万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よって今更に藩を廃し県と為す。是務て冗を去り簡に就き、有名無実の弊を除き、政令多岐の憂無らしめんとす。汝群臣其れ朕が意を体せよ」(『太政官日誌』)
この廃藩置県における中央集権化とは、立法、行政、司法といった中央政府の制度強化はもとより、地方行政を国家の行政機関として強く管理していこうとすることであろうが、これを実行しなければ、数百年続いた諸藩によって、政令ひとつにおいても、中央政府の意向が貫徹されることが難しかった。
府藩県三治体制において、「小権」をもって「大権」を犯す行為として貨幣の鋳造や外国人の雇用、他藩や外国との盟約といったものが厳しく禁止されていたことや、廃藩置県における武力背景が薩長土三藩による親兵創設というように雄藩の兵力に依拠したものであったことからみても、廃藩置県なくして、中央政府が持つべき「大権」を秩序立てていくことが、極めて難しかったということが想像できる。
明治維新とは、外交や防衛、金融といった「大権」に到るまで権力が諸藩に分散していた幕藩体制から、天皇のもとに「大権」をはじめとする権力を集中させて国際社会における近代国家というものを確立していこうとするものであったといえよう。「大権」を集中させるには、廃藩置県以外の何を以ってしても不可能であった。
大久保利通は、「廃藩置県」を決断した時のことを日記でこう記している。
「篤と熟考今日のままにして瓦解せんよりは寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん」
「廃藩置県」は、幕末奇兵隊に入っていた鳥尾小弥太と幕末吉田松陰の松下村塾に入門していた野村靖が山県有朋に提起したのが発端だそうであるが、封建的風習を完全に廃止することとなった。吉田松陰が持っていた「一君万民」という思想を全ての人民に浸透させ、日本国民全体が、力を合わせて国力を高めていくということを実現させる大きな出来事であったといえよう。
廃藩置県後、学制、徴兵令、地租改正をはじめとした近代化政策が急速に実行されていき、府県も統合されて中央に統制された地方行政も整っていった。
地方行政についてみると、3府45県261藩であったものが、廃藩置県によって3府306県となり、地方官の権限を明らかに定めた県治条例の公布時(明治4年)には、3府72県となった。1道3府43県となり、現在の都道府県の枠組みになったのは、明治21年の末となっている。
さらに大日本帝国憲法が発布された翌年、明治23年には、府県制、郡制が公布されて、官選知事の所轄する国の行政機関であるとともに、府県議員を擁する地方公共団体として府、県、郡が規定された。このとき、府県議員は公選であったが、その権能は極めて狭い。戦後改革において、公選知事による完全自治体になることを思えば、当時の地方公共団体は地方自治として未熟ではあるが、藩や県が併存していた当初を思うと、大きな進歩といえる。
廃藩置県によって、日本は、藩という武家社会の名残を旧習として全て捨て去り、天皇のもとに国民全員が協力するという新たな思想に基づいた国家体制を、中央政府組織・制度から、地方公共団体の組織・制度に到るまで、刷新していったといえる。欧米列強の圧力というリアリズムのなか、旧習を捨て去り、「富国強兵」「殖産興業」という一国の方向性を得た明治日本は、中央集権国家として近代化へ大きく発展していくこととなった。
さて、旧習を捨て去った廃藩置県であるが、そこには、武士の失業という大きな問題を抱えるものであった。司馬遼太郎『「明治」という国家』によると、約270の大名が一夜にして消滅し、士族とその家族は、全国におよそ190万人いて、当時の日本人口を3千万人とすると、6.3%の人間が職を失ったと述べられている。
それまでの藩において、政治的地位にあり、人々の模範となっていた武士が、一夜にして路頭に迷い、商売や農業への転職を余儀なくされた。近代国家を建設し、列強に対抗するという目的のためにとはいえ、それまでの日本精神を一身に背負ってきた武士が、その存在価値を失った。
こうした時代の流れに揉まれ、不平士族の乱が各地で発生したわけである。こうした時代を鋭く考察し、福沢諭吉は、『分権論』(明治9年)を記している。民主主義の先進的近代国家アメリカと日本を比較し、その専制政府とまで揶揄される日本の中央集権国家を「地方分権」する必要性を訴えている。また、その分権された地方政府において士族にその任を与える「士族対策」ともすべきだというのである。
この薯には、当時の明治維新というものが、どういった精神背景において実現したものか、そして明治国家における人民意識とはどういったものであるかを極めて明快に知ることができる。さらにトクビルの著書からヒントを得て主張する地方分権の論説は、今の日本の財政危機を予見するほどの先見性を有している。これら三点を簡単に紹介することによって、明治国家をより深く知るとともに、「第三の改革」の歴史的蓋然性を理解したい。
まず、明治維新という革命を実現させた精神とは何か。福沢は、太陽のエネルギーを得た石炭が蒸気船を動かす比喩を用いて、三百諸侯の痕跡が一朝に絶えた理由をこう述べている。
「忠義、討死、文武の嗜、武士の心掛なぞ伝える士族固有の気力を変じてその趣を改め、この度は更に文明開化、進歩改進等の箇条を掲げてその力をこの一方に集め、文明の向う所、天下に敵なきが如く、以って今日の有様に至りしものなり。」
つまり、武士を根絶させた明治維新と近代化への進展は、紛れもなく武士道という精神が、形を変じて、近代国家日本の独立という義に集中されたが故に、実現したものだとしている。
次に、明治国家における人民意識であるが、福沢は、アメリカの人民が、「ポリティカル・アイディア(政治的見解)」を抱いて、自国の公共に対する関心が強いことに対して、日本の士族を持ち出している。
「日本にては君家に忠義と云い、戦場に討死と云い、文武の嗜と云い、武士の心掛と云い、亜米利加にては報国の大義と云い、国旗の栄辱と云い、憲法の得失と云い、地方の議事と云い、その趣は双方全く相同じからずと雖ども、国事に関して之を喜憂する心の元素に至ては、正しく同一様なりと云わざるを得ず。」
こうしてみてみると、亜米利加にも勝ると劣らぬ公の心を持つ武士道が日本の行き先を憂え、その武士が明治維新を実現させ、新政権に就く武士を除いて多くの武士は行き場を失ったのが明治国家である。行き場を失い、それでもその士族の気風を変えない守旧家は、明治新政府を覆そうと西南戦争に代表される乱に身を投じる。あるいは改新して他に職を得ては、民権家として活動する。
明治という時代を動かした人民意識、それは亜米利加に比しても強い士族による武士道精神であった。中央においてそれらが集められ、中央集権的近代国家日本の原動力となった。
三点目、地方分権論である。
当時、兵権、財権、人材あらゆる権力、勢力が首府である東京に集まり、東京は地方から来る人々で溢れ、西洋の建築や土木構造物が街中で建設され、商売が栄え、「首府は即ち日本にして、日本は即ち首府に」存在する有様であった。
地方に住むものは、租税を払えども、それ以外は一家の事に専念して国に関心を持たず、あるいは関心を持つものは、首府に走って、故郷を捨てていった。
今もその状態は変わっていないわけであるが、長年一国の盛衰興敗を一身に背負ってきた士族を、福沢は、その地方において能力を発揮さすべきだとした。
国権には、「政権」と「治権(地方自治体の権限)」とがあり、一般の法律を定め、徴兵令で陸海軍の権をとり、中央政府を支える租税を収め、外交を処置して和陸と戦争の議をすること、貨幣を造りて金融を行うこと、これらは全国一般にして一様の「政権」である。一方、「治権」は、各地の便宜に従い、優先を決して住む人民の幸福を実現していくことであり、警察の法を設け。道路、橋梁、堤防を営繕し、学校、社寺、遊園を作り、衛生の法を立て、地方税を取ることである。
今日の日本のおいては、「国土の均衡ある発展」といった国土政策のもと、地方と都市の格差是正に力を注ぎ、急速な社会資本整備を全国に施した結果、地方にばらまいた建設国債と画一的で特色を失った地方が残った。
福沢は、明治という建国の時において、そういった方向に向いつつある日本に対し、急速な整備は莫大な財を費やすことと、地方を一様にすることの不合理を説いている。
「日本国中に道路、橋梁を造て往来を便にし、市中に煉化石の家を建てて火災を防ぎ、都会地方の別なく大小の学校を設けて殆ど全国に周ねからんとするが如きは、古来未曾有の大事業にして、(中略)之を得るの術なきに非ざれども、実理に於て難き事なれば、その術を施すの際に必ず無理なきを得ず。その無理とは何ぞや。銭を費やすこと、即是なり。」
「政権は全国に及ぼして一様なれども、治権は決して然らず。地方に貧富の差あり、人民に習慣の異あり、之を一様にせんとするも得べからざるなり。」
教育において、西洋風の学校を建設しても、不十分な西洋知識の教育に数百年来の氏神を軽視し、仏は山奥においやり精神の教育もままならない。下水道を造って衛生基盤を整えてもそこには遊郭が出来て梅毒が拡がる。国の資財をもって公共投資をしても、中央集権の政府において乱用は免れず、散財はもとより、市場の競争原理そのものを阻害する。公共に関心のない住民は、周辺の掃除すらも忘れてただ私心のみに生活する。
地方分権は、こうした一連の弊害に対し、公共というものを地方の手に委ねることによって、国がどこにあるかを地方の人々にも実感させ、人々に自治の精神を修養させ、充実した教育、地域に即した経済発展、文化の育成をすることになる。それはまた、国を意識し、国際感覚を兼ね備えた国民も育てていく。
福沢の『分権論』は、永年、国を想ってきた士族を持って、地方自治の地位、精神を高め、失われつつある日本国というもの、日本精神を取り戻そうというものであったといえるであろう。
現状の日本における停滞を挙げると、増大する福祉費、国土の荒廃、教育の崩壊、都市と地方の格差、官民の不調和、巨額の建設国債、財政危機、不安定な国防、長期的指針を持ち得ない政治といったところであろうか。実に数え上げればきりがないわけであるが、そこには世界に誇る明治維新を実現させた日本精神という大切なものが、どこか欠けているのではないか。
今日において、新渡戸稲造『武士道』といった書物等によってその精神を知ることは出来るが、江戸時代に高められ、明治維新を起こしたこの精神を惜しむ声は少なくない。
大久保や西郷は「無私」の精神を持っていたといわれる。彼らもまた武士であり、西郷隆盛においては、武士のなかの武士であったと評する声も少なくない。薩摩藩の主君に仕える身でありながら、廃藩置県を行ったことに、西郷は強く心を痛めたとされている。欧米列強の圧力に対して、日本の行く末を想うと廃藩置県はなさねばならなかった。しかし、そうして誕生した明治国家も、その文明開化の様を見てみれば、日本の精神文明ともいうべき「武士道」が失われている。果たしてこれは、日本の独立を保ったことになるのか。そういう思いで、西郷は、西南戦争において、「痩せ我慢の精神」でもって自害したのではないだろうか。それに応えるべく、日本人として今の日本を私は生きているか。実に身をつまされる思いである。
地方分権における「第三の改革」は、明治国家より続く中央集権国家日本が、「東京と地方」という建国以来、国土政策上の永遠のテーマへの変革を、機を熟して実行していかねばならないものである。どうすれば、地方が自立する国家を築けるか。700兆円を超える財政赤字をみると、幕末の江戸幕府財政と同様、現在の中央政府には、既にその「集権」を維持する能力は持ち合わせていない。私は、極めて限定した「政権」を持つ中央政府と、あらゆる「治権」を自在に実行していく地方政府とによる国家の再建設を試みるべきだと考える。明治維新や戦後改革が日本の国家としての最終形では決してない。歴史的蓋然性として、「大権」が分散されていた江戸時代、天皇のもとに「集権」を行った明治国家、国民の上に「地方自治体」を作りながら「集権」を維持した戦後改革、そして、「政権」と「治権」にわける日本国家建設の完成形の実現を目指さなければならないのではないか。明治の志士たちが、命を懸けて日本国の行く末を案じたように、既成にとらわれず、信念を持ち、大局的に、歴史的決意を持って行っていきたい。
しかし、こうした大きな改革は、新たな広域行政の組織論や制度論を議論することのみで実現するものではない。市民にとって身近に政府を置き、多様的かつ効率的な行政を実現する制度や組織は、一刻も早く実現にむけた議論をしていかなければならない。しかし、最も忘れてはならないのは、より根本たる人民意識の興隆にある。これなくしては、議論も「水泡画餅」である。
政府にすべきこともあれば、できないこと、すべきでないこともある。人民が、公を想い、地域、国の行く末を真意に案じるとき、市民、国民としてすべきことは無数にある。地方分権はそうした人民意識を養うものとしても重要であり、人民意識はまた、地方分権改革を実現し、その地方自治を充実させ、国を立て直す最も重要な要素である。そうしてこそ、日本が真の文明を手にすることになり、「一身独立し、一国独立する」ことになる。そして、目はさらに国際社会へと向けなければならない時代である。
[参考文献]
『松下幸之助発言集』 (PHP)
『福澤諭吉著作集 第7巻 通俗民権論 通俗国権論』 慶応義塾大学出版 2003年
『廃藩置県 近代統一国家への苦悶』 (中公新書) 松尾正人 1992年
『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』 (中公新書) 小島慶三 1996年
『明治という国家』 (NHK出版) 司馬遼太郎 1999年
『廃藩置県 「明治国家」が生まれた日』 (講談社選書メチエ) 勝田政治 2000年
Thesis
Keizo Maekawa
第24期
まえかわ・けいぞう
前川建設株式会社
Mission
『地域主権型国家日本の実現』