論考

Thesis

靖国神社と日本国の未来

靖国神社は、明治維新に日本が国民国家を形成して以来、維新時の内戦を含め、数々の「英霊」を祀る約130年にわたる歴史を持つ。靖国神社が現在の日本人に語りかけるものは何か。また、明治建国以前をふまえた日本の伝統精神と比すると何が見えるか。そして、これからの日本の民主主義はどうあるべきであろうか。

1.はじめに

 九段坂を上り、皇居を囲う淵の土手に咲く左手の山桜を眺めながら、日本武道館を過ぎて行き、高い塀に囲まれた靖国神社へ。比較的に狭い入り口から進むと、しばらくして、大村益次郎の銅像を仰ぎ、何羽も舞い降りる白鳩とともに、桜並木を抜けるとやや空間を余すようななかに大きな拝殿を観ることが出来る。

 「靖国」という名を冠した神社、「平和」を象徴する白鳩の群れ、そして厳かな造りにおいて大きな「菊の御紋」を配した拝殿には、ただこれまでの神社とは違う趣を感じた。各地の神社では、その由来とともにその土地と日本の遥かに古い歴史を知り、霊的な境内の風景に心を洗い、参拝するわけである。しかし、この「靖国神社」は、「130年」といえば、永いようであるが、しかし日本、いわば日本の国土ができてからを考えれば、実にわずかながらの歴史とともに、様々な議論を残す存在としてあるといえよう。

 この議論とは、日本における「戦争責任の所在」あるいはその戦争そのものをどう観るかという歴史認識について、そして、宗教法人として存在するという特殊性についてが主に挙げられるであろう。そして、小泉首相が参拝を続ける現状においては、中曽根内閣において端を発した首相の靖国参拝問題が、中国や韓国といった隣国からの懸念とその表明によって、国内でも様々な議論がなされているところである。

 こうした場合、一方では「中国や韓国の反応によって取りやめるべきでない」「国のために身を捧げた靖国の御霊を祀るのは当然」といった意見、また一方では「周辺諸国の感情を踏まえて首相が参拝すべきでない」「軍国主義者が合祀された神社に首相が参拝するべきではない」といった意見に対立することになる。

 日本が行ってきた戦争が、とりわけ満州事変以降において「侵略戦争」だったのか、あるいは「自衛戦争」の一環であったのか、いわゆる「南京大虐殺」が実際にどれほどの規模であったのかどうか。その当時の日本は、欧米の植民地政策に唯一対抗しうるアジアの国であったことも事実であるし、天皇主権という憲法のもと軍国主義と指摘される状況に陥っていったことも事実と考えられる。

 肝心であるのは、そういった歴史を経てきた現在の日本が、次の世代に対して、平和と繁栄へと向かう建設的な道筋を立てていけることであろう。

 そういった意味において、まさに明治時代に近代国家として日本が生まれて以来の「靖国神社」に対し、その歴史から見出せるものは何か、または、永い歴史のなかの存在としてどう把握すべきかを考えていくことにしたい。それによって、これからの日本がどう過去を理解し、現在から次の世代へと守っていくものは何かが見えてくるであろう。風潮に流されることなく過去と現在、そして未来を繋いでいくことは、世代を受け継ぐものとしての重要な責務であると思う。

2.靖国神社について

 まず靖国神社という存在について改めてみてみる。靖国神社は、戊辰戦争での戦死者を慰霊するため、明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に東京招魂社として創建された。東京招魂社が出来るきっかけとなったのは、明治新政府としての太政官府の布告からであり、「皇運の挽回」のために戦死した志士達の霊を合祀するということであった。そこから九段への立地が大村益次郎によって行われ、社殿が建設された。その後、明治10年の西南戦争を経て、明治12年(新暦1879年6月4日)において、神社を「靖国神社」に改称、別格官幣社となった。靖国神社に御祭神として合祀された霊の数を見ていくと、以下のようになる。

明治維新 7751柱、西南戦争 6971柱、日清戦争 13619柱、台湾出兵 1130柱、義和団事変 1256柱、日露戦争 8万8429柱、第一次世界大戦 4850柱、済南事変 185柱、満州事変 1万7174柱、日中戦争(支那事変) 19万1074柱、太平洋戦争(大東亜戦争) 213万2699柱。

 「靖国神社」には、明治維新においては、勤皇派や尊皇攘夷派の殉難者、戊辰戦争の官軍側の戦没者という明治政府、朝廷側で戦った戦死者に限って祀われており、幕府側は祀られていない。また、大日本帝国憲法のもと、対外戦争を実行していくなかでは、天皇主権という国家において、国家による戦争とその戦死者の天皇による合祀が行われている。

 ここで、少し考えたいのが、日本が日清戦争をはじめとして、欧米列強が植民地政策を繰り広げるなかで、諸々の対外戦争の道へと進んでいったことに対してである。当時の外交史等をみれば、当時の日本が、明治国家建国以前から朝鮮半島、中国北東地域に対する何らかの権限を持つことが日本の存続にとって重要であると考えられていたことも理解できる。

 しかし、日清戦争から日露戦争において、その韓国や大連、旅順等への進出を果した後、満州事変以降に際しては、その侵略的な行動を実行していったことは事実である。

 こうした日本を現在からみたときに、その当時の日本の国民に対する教育や国家のあり方について考えるべきであろう。天皇の統帥権におけるいわゆる「統帥権干犯問題」も、国家のありかたとして、一つはあろうが、明治国家建設来における、また「靖国神社」の前提としての国家神道というものを考えなければならない。つまりは、明治国家を建設するための天皇主権という存在が、その後の日本を良くも悪くも左右したことについてである。これは、その同じ歴史をもつ「靖国神社」を観ることによって考えていくことが出来る。

3.別格官幣社としての「靖国神社」と日本の神道、仏教

 では、こうした特別な神社の存在というものが、日本の神道や仏教のなかで、どう取り入れられていったのであろうか。

 日本の神道は、現在においても古来よりの大和朝廷が祀ってきた神々を中心に統制され、地方の氏神等を習合し、全国的にある程度の体系を形作っているが、「天之御中主神」といった天地創造の神や、森羅万象を産む神など、あるいは、自然そのものに対するあらゆる神、そして祖先や鎮魂の人格神が挙げられる。別格官幣社は、明治5年4月に創設された社格であり、天皇の治める皇国に貢献した人格神を明治より、近代社格のなかで祀って行った。楠正成を祭神とする湊川神社を第一番目に、東照宮(徳川家康)、豊国神社(豊臣秀吉)、談山神社(藤原鎌足)、建勲神社(織田信長)などが加えられていった。

 明治12年に靖国神社と改称したときに祭文には、「明治元年という年より以降、内外の荒振る寇等を討罰め、服わぬ人を言和し給う時に、汝命等の赤し清き真心を以て、家を忘れ身を擲て、各も各も死亡にし其の大き高き勲功に依りして、大皇国をば安国と知食す事ぞと思食すが故に、靖国神社と改め称へ、別格官幣社と定め奉りて、幣帛奉り齋い奉らせ給い、今より後、彌遠永に、怠る事無く祭り給わんとす。」とある。東京招魂社が西南戦争を経て、靖国神社となったわけであるが、それはつまり、「大日本帝国」の安定的建国を幇助して戦死した将兵達を、天皇によるものだけでなく、国家に忠勤を尽くした帝国の神祇として祀っていくためであった。こうしたなかで、明治維新というクーデターで実現した国家を、より集権化、権威化するためにも、その維新の思想の源泉ともなった尊皇を深化させ、統治を安定させていったといえる。

 仏教伝来から、本地垂迹説が出来、神仏習合によって、仏教と神道が両立していた時代に対し、江戸時代においては、復古神道というナショナリズム的反動が起こり、そして明治国家においては、廃仏毀釈運動や、国学教育によって国家神道への政治的、思想的深化が行われていったわけである。

 そして、この復古神道には、国学者平田篤胤の「皇道世界主義」といった思想もあり、私も長春(旧満州)の東北師範大学の図書館で「皇道日本の世界化」、「大東亜建設論」といった書籍を手にとって読んだこともある。

 また、当時の真言治山派の仏教徒である高神覚昇は、『仏教報国要綱』で、以下のように記している。(『靖国問題』高橋哲哉著より抜粋)

「要するにわれわれは、万邦無比の皇国日本に生をうけ、世界に類なき仏教に値遇したる因縁を欣び、報恩謝徳の行として、臣道を実践してゆくことが、とりも直さず日本仏教徒として、国家の新体制に処する唯一の道であるということを、改めてはっきり知らねばならぬと思います。」

 したがって、復古神道をもとに作り上げられた明治国家が、それを深化させることで国家による国家神道として国民を教化していくなかにおいて、民族意識やナショナリズムを高揚させる、しかも日本特有の国家による思想統制手法、イデオロギーを確立し、そこにその国家の象徴的神社として「靖国神社」が存在していたわけである。

 時として、こうした発想を「戦後民主主義」として指摘され得るかもしれないが、私自身、創造主とも宇宙的真理とも解釈できる「天御中主神」から始まりイザナギの禊によって産まれる「天照大御神」が示す神話の内容、あるいはより太古からある神道や伝来から生成発展してきた日本仏教から学び、生きていく上においても、日本の伝統精神は、決して「国家神道」に留まる小さなものではなく、より普遍性を持ったものであると認識している。

4.戦後における靖国神社の二つの変化

 こうした存在であった国家的存在の別格官幣社靖国神社が、昭和22年12月15日、戦後の占領軍司令部による「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という「神道指令」のなかで、国家神道、神社神道が廃止され、「宗教法人靖国神社」へと変化することになる。現在の日本人も、この変化の大きさは改めて認識すべきであろう。それまで、祭政一致のなか、国家に護持され、天皇、内閣、軍部ともに深い関係を持っていた「別格官幣社靖国神社」が、政教分離を謳う日本国憲法のもと、一宗教法人として、国との関係を一切断ち切られてしまったわけである。

 当然、このときから、「財団法人日本遺族会」も設立されていく。遺族会の歴史には、以下のようにある。(「財団法人日本遺族会」ホームページより抜粋)

『自治体の慰霊祭、追悼式も禁止され、恩給も停止され、社会的冷遇をうけました。きのうまで「誉の家」として尊敬された戦没者遺族は肩身の狭い思いをしました。とくに、一家の大黒柱を失い、年老いた父母を抱え、遺児を育てる戦争未亡人の方々の物心両面にわたる苦しみは、ひとしおでした。戦没者遺族は各地で連絡を取り合い、立ち上がります。組織化へ向けての、動きです。(中略)
 それは、ひたむきな動きでした。悲痛な叫びです。会合が各地でもたれ、代表が東京に集まり、全国組織としての「日本遺族厚生連盟」を結成します。終戦から2年、昭和22年の11月でした。 そして、国会では「遺族援護に関する決議」、「未亡人並びに戦没者遺族の福祉に関する決議」があり、政府にも遺族援護の機運が高まります。
講和条約が発効し独立を回復した昭和27年、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定されます。戦後6年にして、遺族援護の途が開けました。国家処遇の再開です。政府主催の「全国戦没者追悼式」が行なわれるのも、この年からです。
 その後、遺族会の事業を円滑にすすめるために法人格を取得。「財団法人 日本遺族会」(昭和28年3月)として出発します。
戦没者遺族の処遇改善だけでなく、英霊顕彰事業として首相・閣僚の靖国神社参拝の推進、遺骨収集への会員派遣、戦跡巡拝の実施のほか、国内および海外戦域での社会奉仕活動にも積極的に取り組んでいます。』

 そして、自民党の平成17年運動方針には、
『わが国は不戦の誓いを憲法にうたい、平和外交を国是としている。その証として今日の繁栄があり、国民の安寧があるのである。戦争の犠牲となり、また国の礎となられた御霊に心からの感謝と哀悼の誠をささげるために、靖国神社参拝は受け継いでいく』とある。

 この変化と、現在における日本政府の歴史観をよく理解するのであれば、「日本国憲法」において、かつての「大日本帝国憲法」下に存在してあった「靖国神社」を参拝することの意義は、国家神道に基づいて存在していた大日本帝国への反省と、それによる現在の日本国の繁栄と平和に対する感謝にあるといえよう。

 しかし、この前半部分の反省が、過ちに対する強い認識を表明しない限り、他国には、あるいは一部の国民にも「戦争の美化」とされかねないのも事実であろう。この反省を踏まえることが出来るのは、「靖国神社」以外にないこともいえる。さらには、現存の神道と比して、「靖国神社」が「一宗教法人」として存在し続けることもまた、本来宗教ではなく国家的存在であったものを法的に宗教と位置づけることに大きな矛盾を生じる。ここには、日本という国が、どういう国として存在されるかを、実に明治国家から敗戦までに追究してきたものに乗じながらも、曖昧に伏している現在の日本の課題を認識するともいえる。

 日本が、その伝統的な国家のアイデンティティーの何を是とし、何を非として今後の日本の民主主義の理念を築き、発展させていくのか、そういった課題が未来にまだ課せられているとはいえないであろうか。

 また、もう一つの「靖国神社」における戦後の大きな変化が、「A級戦犯の合祀」であろう。

 「東京裁判」が、当時の国際法上において戦勝国による違法といえる裁判であったということも日本国内等で認められているが、占領下における日本においては、国内ではなく連合軍の軍事裁判によって、裁判が繰り広げられ、「A級戦犯」として一部の軍国主義者の重大な有罪が捌かれていくこととなったわけである。象徴天皇制といった新生日本に向けて、国家自体の戦争責任がA級戦犯に向けられていったことに、時代の犠牲ともいえるであろう。

 昭和27年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効されるなかで、第11条に戦争犯罪裁判受刑者の赦免、減刑、仮釈放等の約定があり、これによって、日本政府が、受刑者の処遇を引き継ぐこととなった。従って、日本政府によって、赦免がなされ、昭和28年以降には、戦傷病者戦歿者遺族等救護法が改正され、刑死・獄死した人々の遺族にも遺族年金、や弔慰金が支給されていくことになったわけである。

 靖国神社においても、こうした流れで日本国内から戦後占領支配から逃れた上で遺族への配慮として、法律上の非戦犯として、「昭和殉難者」ということからB,C級戦犯は合祀されていく。そして、昭和53年、第106回合祀の儀において、巣鴨において死刑に処された東條英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章の7人と、勾留・服役中に死亡した梅津美治郎、小磯国昭、平沼騏一郎、東郷茂徳、白鳥敏夫、松岡洋右、永野修身の7人の計14人が合祀されることとなった。

 こうした流れから、現在の日本における「靖国神社」をみると、平和国家として「日本国憲法」のもと新たにある日本国として国際社会に存在する日本が、占領下で設定した戦争責任者を、戦勝国による戦時の裁判を乗り越えて、自国の政府によって処遇をし、赦免を行ったということである。

 これは、大半の「日本人の歴史観」において、受刑を受けたものの霊を弔うという実に納得がいくことである。しかし、では、戦争責任がどうであったかを日本国民も曖昧に処すところであれば、とりわけ中国(平和条約の部外者ではあるが)にも理解されないのは無理でもない。

 つまりは、今後の日本がどういうアイデンティティーを所有していくのか、そして過去の戦争責任をどう明確にするのか、これが解決していないことを意味するのではないだろうか。少なくとも現在は、これらを曖昧にしたまま、「愛国心」や「歴史認識」の議論が結論を得ないのは、日本国民としても実に歯がゆいと思える。

5.国際社会における日本において

 世界的な植民地政策のなかで欧米列強に対抗して国家を変革していったとはいえ、日本が実際に進んだ道は、人類の歴史から照らして、強く反省すべきものである。

 では、その反省が、どうなされてきたか。天皇制の否定にあるのか、共産主義の肯定にあったのか、アメリカ式民主主義の模倣か、ヨーロッパの社会民主主義でいいのか。東京裁判を法律理念上不当だとしても、日本の戦争を肯定することにはなるはずもない。戦後の焼け野原から経済的復興を遂げた日本が、現在、改めて過去の克服と、未来へ向けた「日本の民主主義」への模索、これが、国際化がすすむ今日に求められているように思える。

 当時、先進国で例のなかった、立憲君主制で天皇主権の国家として敗戦し、その後、占領下でアメリカの民主化政策を受けた日本が、改めて日本の伝統と歴史を踏まえなおし、「日本の民主主義」を確立していく、それこそが、過去の反省をおこない、人類の未来を築く「強い政治」をおこなうことであると実感するわけである。松下政経塾はまた、その「日本の民主主義」を確立する指導者を求めて、戦後復興の象徴である松下幸之助塾主によって設立されている。

 首相公選制や、地域主権をどう実現するか、また日本仏教と神道やキリスト教を受け入れてきた日本人の宗教観をどう認識し、政治を行っていくか、そういったものが重要であるように思える。

参考文献

『松下幸之助発言集』 (PHP)
『靖国神社と日本人』(PHP新書) 小堀桂一郎著 1998年
『靖国問題』(ちくま新書) 高橋哲哉著 2005年
『戦後政治史の中の天皇制』(青木書店) 渡辺治著 1990年
『大東亜戦争の実相』(PHP文庫) 瀬島龍三著 2000年

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前川桂恵三の論考

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Keizo Maekawa

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