Thesis
韓国、慶煕大学創設者であり慶煕学院学院長の趙永植博士が提唱している「オウトピア」には、塾主の「新しい人間観」との共通点と同様の時代背景を認識することができる。日韓で生まれたその思想を考察することによって、人類が新たに持つべき共通の人間観を講究し、両国と世界の未来について思いを寄せたい。
松下幸之助塾主の提唱した「新しい人間観」について、これまで私なりの解釈や考えを諸宗教観や哲学書から考えなおし、考えをまとめてきたが、ここでは、入塾以来、縁があり、昨年の韓国研修にては、ご講話も頂いた趙永植博士(韓国・慶煕大学創設者、慶煕学院学院長)の人間観に対する社会科学的理論である「オウトピア」について考察し、「新しい人間観」とを対比することによって、人類が新たに持つべき共通の人間観を講究していきたい。
その理由は、故松下幸之助塾主(1894年生まれ)と趙永植博士(1921年生まれ)が、同じ時代背景を持つものであることから、その内容を理解していくなかで、同時性を持つ共通点が挙げられることを実感したためである。もちろん、こうした人間のあり方に対する現在の国際的哲学者や思想家においても、往々にして今後の人類がどうあるべきかを語る中には、同じような共通点が見られるわけであるが、そうしたひとつとして、この「オウトピア」を紹介してみたいという意欲がある。
その松下幸之助塾主の「新しい人間観」と趙永植博士の「オウトピア」における同じ時代背景とは、他でもない、両者が実体験した戦争という非人間的社会ともいえる歴史である。
太平洋戦争、朝鮮戦争といった戦争とそれぞれの戦後の日本、韓国の経済状況における貧困と不幸な人間社会の実体験、そしてその戦後における経済復興、平和構築を実現すべく事業経営を行っていったという両者の共通した比類ない経歴からは、偉大な体験者としての叡智を学ぶことができる。
松下幸之助塾主においては、戦後、1946年11月にはGHQから旧軍需会社の役員として、公職追放の指定を受けた。公職追放は、松下産業組合等の除外嘆願運動も起こった後に、1947年5月に解除されるが、松下電器の財閥指定など、自身が極めて困難な状況におかれるとも、戦後の荒廃した日本の状況に対して、強い思いでPHP運動を推進していった。1951年、朝鮮特需などによる景気回復がはじまるなかで、GHQによる戦後の経済復興に対し、松下電器の経営方針で『今日から再び開業する』といった発表を次のように行っている。
「今まで狭い視野のもとに働いていたわれわれは、今や世界の経済人として、日本民族の良さを生かしつつ、世界的な経済活動をしなければならない。われわれは世界人類の一員であるとの自覚のもとに、経営を再検討し、その成果を早急に上げるために、『松下電器は今日から再び開業する』という心構えで経営に当たりたい」
この後、松下電器は、数々の困難を乗り越えて成長していき、1971年にNY証券取引所に上場、1987年には北京・松下彩色顕象管有限公司(BMCC)を設立し、まさに世界的な経済活動を実現していくことになる。
一方の趙永植博士は、ソウル大学を卒業した翌年の1951年、後述する26歳から持論としていた「主意生成原理」による強い信念のもと、志をたて、「人類平和」へ向けた慶煕大学を創設し、同大学の総長に就任している。まさに日本の敗戦から朝鮮戦争への突入という韓国の混乱期を経て、わずか30年間で医、薬、文理、工、法、家政、政経、芸術、体育などの総合大学へと発展し、現在では、大学、高校、中学、小学校、幼稚園、保育園なども擁する慶煕学院となっている。1973年からは世界大学総長会の会長をつとめ、1982年には終身名誉会長として、様々な国際的活動を行っている。
そして、こうした経験の結果として、経済復興を遂げた後、1975年に提唱されていったのが塾主における「人間を考える」での「新しい人間観の提唱」、「真の人間道の実践」であり、1980年に「日本の伝統精神 日本と日本人について」が著されている。同じく趙永植博士は、1975年に「人類社会の再建」を執筆し、1979年※に「オウトピア」を提唱している。(※英訳版は1981年、和訳版は1982年)
ここでは、昨年のご面会時に拝聴した趙永植博士のご講話と頂戴した著書から、「オウトピア」と松下幸之助塾主の「新しい人間観」を対比させて理解を試み、さらに自然科学の視点も交えて、議論をかさねていき、最後にそうした人間観に基づいた上での、日韓という両国の将来的使命というものを考えて結論としていきたい。
松下幸之助塾主 |
趙永植博士 |
韓国の慶煕(キョンヒ)大学平和大学院(GIP)(http://gip.khu.ac.kr/)は、松下政経塾を参考に趙永植博士(GIP学院長)によって設立された。
松下政経塾は、1979年に設立されたが、GIPは、慶煕大学(http://www.kyunghee.edu/Japanese/index.php)において1984年に新設され、ソウルから車で1時間ほど離れた郊外のある仏寺(奉先寺봉선사)に隣接した広大な敷地に、講堂、講義棟、瞑想室、研究室、寮、図書館など、松下政経塾と同様の施設が建設されている。講堂に入ると、世界平和に対する理念が銅版の刻字によって掲げられたホールの正面に、二つの大きな壁画がある。向かって、左側には戦争時の不幸な人間社会、右側には平和と繁栄における人類の姿が象徴的に描かれており、GIPが、絶えることのない戦争という人類の歴史を直視し、平和という理想に向けた研究や実践活動を行う人材を育てるために出来たという建学理念を実感することができる。
この慶煕大学(GIPも含む)の創設者である趙永植博士は、人類の「あるべき(ought to be)社会」として、「オウトピア(oughtpia)」を提唱し、慶煕大学、GIP双方における重要な基本理念とされている。
この「オウトピア」の概要について簡潔に紹介する。1980年代において、現代社会は、物質的豊かさの中で精神的貧困に生きる時代であり、人間性よりも科学・技術と能力に重きをおいた非人間化の世界になりつつあること、それによる大きな人類的課題に直面しているということが問題意識である。
この物質社会、科学技術社会、大衆社会において、人間が、正しくこの世を視ず、知らず、コントロールをしておらず、この世の主であることを自覚していないことが、自己を喪失していることになり、現代社会が混乱に陥り、様々な課題(例えば人口問題、価値観崩壊と無分別行動、科学技術の自己増殖、大衆社会の病理的現象)を抱えているとする。
つまりは、科学技術の進歩によってもたらされた物質的繁栄に対して、宇宙の実在と生成を知り、人生の意義と目的を正しく把握した上で、人間中心主義に基づいてよりよき人生(Better Life)、よりよき人間関係(Better Relations)、より価値ある幸福な社会(Better Society)に改造しなければならないとする。
したがって、『「全乗和論」という名のもとに、過去の、もろもろの数理論を批判して宇宙の生成の原理と変化の現象を新しく探索し、その立体的、有機的統一体観である「主意生成の原理」をもって人類の歴史を批判するとともに、心即物、物即心のもとで、哲学と科学を統合し、人類が指向しなければならない当為的要請社会「オウトピア」を私たちの理想社会のモデルとしてみたのである』。
そして、この「オウトピア」とは、「Spiritually beautiful society , Materially affluent society , Humanly rewarding society(精神的に麗しく、物質的に豊かで、生きがいのある社会)」であり、先述したような人間としての自覚を改めて持った上で、世界各国が「和生論」のもとに共同して人類の未来へ向けて行動していくという、より完全な人間、より幸福な、より価値ある社会を営みうる本来実現可能な理想的社会なのである。(「主意生成論」「全乗和論」「和生論」については、後段において、説明する。)
こうしてみると、松下幸之助塾主の「新しい人間観」と「真の人間道」について少しでも理解をしている人であれば、すぐにでも、きわめて共通した理念と方向性、志が顕在していることを理解することができるであろう。「主意生成論」と「生成発展」や「万物の王者」という人間観、「全乗和論」「和生論」と「衆知を集める」、そして、「新しい人間観に基づく真の人間道を実践することによる文化国家」と「オウトピア」が、それぞれ対比すると、両者をより分かりやすくするとともに、さらに深く考え直すこともできるであろう。
以下では、両者の対比と、今日における宇宙科学、生命科学等の先端科学での解釈を踏まえて、これからのあるべき人間観について考察していきたい。
「新しい人間観」において人間は、「たえず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄をうみだすことができるのである」という特性を、自然の理法によって与えられているとする。
そして、その天命が与えられているがゆえに、「人間は万物の王者となり、支配者」となって、「天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする」のである。
これに対するところの「主意生成論」とは何かをまとめてみる。結論からいえば、主意生成論とは、宇宙の実在は、すべての要素が関係しあって生成、転化し、進化しているのであり、精神と物質というものも、唯心論や唯物論のように一元論、二元論で捉えるのではなく、その相互関係としての「生成論」(生成=発生、転化)で捉え、さらに人間においてはその精神と肉体の上に、「主意」としての悟性的人格を重要なものとして位置づけなければならないとするものである。そしてそれは、観念哲学と実証哲学が限界点に達した今日において、精神文化と物質文明とが調和された世界の新しい哲学理論となるものである。
つまりは、精神があって、物質は認識されるものであり、両者は実と相の関係にあって常に生成しあって宇宙の実在がある。そして精神文化と物質文明というものにおいても、両者が互いに生成しあってこそ物心一如の繁栄が得られる。そうした繁栄を得るためには、人間は、人格的意志としてより高い次元の霊的精神生活を営む高次元精神を必要とするということである。
また、この「主意生成論」は、人間中心主義を謳う。既存宗教等によくある神人同格論ではなく、人間はどこまでも人間であり、どれほど修行しても神にはなれず、機能的感覚的知覚や本能に加えて高次元精神を持つ人間の特性と属性を認めなければならない。そして、肉体を無視して神の世界を実現しようとした中世を反省するとともに、人間を物質的、動物的存在と認識して人間生活を構成していく現代も容認してはならない。
さらに、いまや人間は、能力の面において、人智と科学技術の開発によって、核兵器や化学兵器など人類の絶滅を可能とするもの、あるいは情報科学の発達、宇宙への進出、遺伝子工学など、神に近い能力を持った超人的宇宙人のような存在となったことを認識しなければならないとする。
「私たち人間はすべからく地の主として、歴史文明の創造者として、独立した小宇宙として、人格意思が支配する人間世界-すなわち天理に立脚した人間中心の文化-を創出して現世の人間楽土(オウトピア)を建設することが、私たち人類の共同目標であり、宿題であり、理想である」とする。
両者はともに、現代文明に対する同じ問題意識に立脚し、人間というものを宇宙の実在から、あらためて見つめなおした結果として、科学技術の発展した現在の人間の特性を新しい人間観として、過去の思想、哲学、宗教を精査した上で、改めて人間中心主義として、構築し直したわけである。
人類が、現在のような高度な知的生命体となり得るには永い歴史があった。農耕からはじまって、文明を発祥し、それから数千年においてここまでの認識主体として成長をとげてきた。そして、改めて新たな人間観を自覚した人類は、今後の数十万、数百万年という長久な時間のなかで、さらに生成発展をすることになるのである。
一方、両者の若干の相違点もみることができる。「オウトピア」では、宇宙と人間との存在意義を強く結びつける努力については冷静に取捨されており、認識する人間とされる宇宙というものが生成の関係にあるなかで、高次元の人格を持つことを強く自覚した人間観における実現可能な理想社会の構築を人類の共同目標や理想としている。
これに対し、「新しい人間観」では、「宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用すること」によって「物心一如の繁栄」という理想社会が実現できるわけであるが、人間が自然の理法によって、そのような天命を与えられているという宇宙での人間の存在意義、使命を設定しているのである。この天命の根拠については、宇宙において、宇宙それ自体も、あるいは生命体もこれまで、変化し流転していくという生成発展という宇宙の法則、天地自然の理という本質があることとしている。もし、そうでなく、そういった法則がなければ、人間も存在しないということである。
趙永植博士は、法学博士、哲学博士、人文学博士の学位も持っており、数々の哲学や社会科学的見地から「オウトピア」のなかに、その人間の存在意義としての宇宙とのつながりを強調せずに人間が認識すべき「人格」の重要性を強調して論理を展開させているが、松下幸之助塾主は、「新しい人間観」というものに対して、先人の知恵や科学知識、体験を含蓄するなかで、人間の存在意義というものにも言及した幅を持たせた抽象的表現でもって構築していったものであるといえるであろう。
では、この宇宙における人間の存在意義というものは、科学的にどう補足できるであろうか。人類にとって、これは、色即是空、空即是色としたり、創造主を設定するといったことがなされてきたわけであるが、新しい人間観においては、解明しつつある宇宙の科学的実相を人間哲学のなかに取り入れなければならない時代であると再認識する。
ニュートン力学の宇宙から始まって、アインシュタインの相対性理論による宇宙論、そして量子論による宇宙創成への探求へと進んできた今日の宇宙科学においては、こうした人間観を考えていく上で、普遍性への挑戦と考えられる興味深い論争が繰り広げられている。ここでは、前段の理解を深めるため、「人間原理」について挙げて考察してみたい。
「人間原理(Anthropic Principle)」というのは、1974年にイギリスの物理学者ブランドン・カーターが提唱したものであるが、宇宙の物理的条件が、人間にとってきわめて好都合にできていることから、宇宙を人間の存在から説明しようとするものである。つまりは、様々な物理定数や条件をもった宇宙が無数に存在するとしても、認識主体としての人類のような知的生命体が生まれる条件における宇宙のみが認識されることになり、世界を実存させることになるというわけである。
宇宙は、無の状態から生まれて、誕生直後にインフレーションという急激な膨張を起こして、世界を構築していったが、その宇宙開闢から約100億年において再びインフレーションを起こしていることが観察されている。そのインフレーションによって、元素が合成されて分子がうまれ、星が生まれて爆発し、様々な物質が生成されて、生命体が誕生し、開闢から約150億年が経過した現在に人類が存在する。地球が生まれ、知的生命体が発生するのには、約39億年という月日が必要であるため、もしも宇宙を膨張させる真空エネルギーや、未だ解明されていない物質がある一定以上の条件を満たすものでなければ、そのインフレーションは依然として発生せずに、この人類の存在する世界を実在させることはできず、認識されないということになる。
ではなぜ宇宙がその発展段階でそのような条件を満たし得たのか。「人間原理」でなければ解決しようのないその宇宙と人類の実在関係、物理的条件は、認識主体としての人間が、この宇宙を実在させるのであり、哲学でいうところの精神と物体が相互に関係を及ぼすことによって宇宙が存在するということを示すものであるといえよう。そして、その認識主体が存在する宇宙の統一的法則を解明しようとしているのが人間である。宇宙の創生と物理的法則、実体の解明に至るまで、究極の統一的な理論が存在していつか完全に解明可能なのか、あるいはそれは無限に論理を積み重ね更新していく先に極めて近似的に完成するのかは分からないが、少なくとも、例えば超重力理論、ひも理論、pブレーン理論など、次々とその認識主体としての科学的追及を現代の人類は進行させている。
こうした人類が、もしも何らかの要因から衰退死滅することになれば、即ち宇宙における極めて高度な知的生命体としての認識主体が絶滅することとなり、高次元での宇宙を消滅させることと等しいともいえる。
現在の宇宙論においては、宇宙に約7割のダークマター、ダークエネルギーと呼ばれる解明されない物質、エネルギーが存在しており、人類が解明したものとあわせて、宇宙を構成している。そして、この宇宙は、そういった諸条件下で生存可能な人類によって認識されて実存するものとなる。この人類と宇宙との生成の関係と、人類の認識主体としての発展、宇宙自体の物質的発展とは、「生成発展という天地自然の理」にも内包される原理であろう。
高度な知的生命体として、主意的悟性を持つ人格、あるいは天地自然の理から与えられた天命を自覚した人間において、理想の社会を現実のものとするために人間が意識しなければならないのが、「新しい人間観」では「衆知を集める」ということといえよう。そして、「オウトピア」では「全乗和論」と「和生論」が、これと対比させられるものであると考えられる。
松下幸之助塾主の「新しい人間観」における「衆知」とは、古今東西にかかわらず「何のさまたげもうけずして高められつつ融合された」総和の知恵である。「つねに繁栄を求めつつも往々にして貧困に陥り、平和を願いつつもいつしか争いに明け暮れ、幸福を得んとしてしばしば不幸におそわれてきている」人間の現実の姿を、「天命を悟らず、個々の利害損失や知恵才覚にとらわれて」いるからだとし、「個々の知恵、個々の力」ではなく、「衆知」によって人間は、天命を発揮させるとする。
この「衆知」が過去現在、そして世界から究極に集められた「真の大衆知」によって、人間は「真の万物の大王者」となることができる。
そして、この「衆知を集める」上で必要な基本姿勢が、「素直な心」である。「素直な心」は、私心なくくもりのない心であり、一つのことにとらわれずに物事をあるがままに認めようとする心であり、憎むべき相手も愛するという心や正しい方向に導くという心である。
また、その補論において、大東亜戦争での日本は、本来の「衆知を集める」という日本の伝統精神に反して、(様々な遠因はあるが)「一部の青年将校といわれるような人々が、上層幹部の意見とか議会の議や国民の意向を軽視し、とらわれた正義感にたって武力をかざしてことを運ばせたところにある」とも述べている。
人間の共同生活の長い歴史のなかで「伝統の知恵の集積として自然発生的に生まれ」た国家、民族については、「その伝統、個性というものを認め合い、尊重し、ともに取り入れ活用しあうといった姿において、国と国、民族と民族とが知恵を集め、衆知を高めていくということ」が重要であるとしている。
「オウトピア」における「全乗和論」とは、宇宙のあらゆる万物が、相関関係にあり、加減乗除零(正邪、大小さまざまな影響)の相互作用を行っているなかで、人間が「主体を知り、客体を知り、目標を正しく把握して人生を営む道を講究する」経験を積み重ねていくことである。この経験という「最も偉大で正確な実験」によって、宇宙の本体を示し、現象を説明し、さらに生きがいのある人生を営む道を提示することができるとする。
また、「和生論」とは、「異質的な対立した二つの存在が合すると、相生または相剋するが、相生も相剋も、結局は進化または発展のための調和と均衡を前提とする点に、そしてまたその存在が合して共に存するばかりでなく、新しいもう一つのものを生むという意味において、和して生じる」というものである。
そして、かつての人類が、国家あるいは民族間の戦争の結果において、戦勝者が、他を集団虐殺するなど蹂躙してきたことに言及し、「異民族は侵略してもよく、略奪してもよいという、私たちの過去の誤った考えと、民族優越意識からきた国家至上、民族至上の前近代的思考をすてて、万民平等思想に立脚した人類共同意識による地球共同社会(Global Cooperation Society)に向かわなければならない。この共同社会は過去の封建国家を解体し、民族国家を建てたこととはわけが違う。これはいまの諸国家をみな解体して世界国家をたてる意味でいうのではない。各国の独立と繁栄はもちろん、文化を保存し、自国の発展に努力しながら、排他的でない協力の姿をもって、人類が共に生き、共に繁栄することのできる共同目標達成のために大共同社会をつくろうということ」とする。
この両者に共通するのは、人間が偉大な存在として、高次の霊的精神を発揮するには、それを自覚するとともに、過去から現在におけるあらゆる知恵や経験というものを相互作用のうちに集め講究しなければならないとしている点である。前者の衆知を集めるというものにも、やはり客観的な大小、優劣は存在し、それらそのものをより正しい真理の追究のためには、後者がいう加減乗除零が行われていくということもできるであろう。
そして、これらは人間個々人にとってだけでなく、民族や国家というレベルにおいて、衆知を集めるということが重要となり、乗和と和生によって、人類は科学技術的にも社会制度的にも進化し、さらには、人類全体での共存共栄を実現することになるという人間観であるといえる。
両者にとってのこの実感、認識というものは、このように、戦争体験における民族間、国家観の闘争の歴史を実体験としたことから生じたものであり、人間の狭猥な思考の現実を見つめてきたことを理解できるであろう。
この人間の多様性に対する尊重とその「和生」(創造的調和)の重要性を認識することは、これからの国際社会のあり方の基本理念、理想となるものであるが、科学技術として生命科学、生命工学が極めて発展してきた現代においては、「戦争の世紀」での失敗を反省しているとはいえ、民族優越性の有無というものにとどまらず、生命における種々の遺伝子操作の是非など、新たに取り組まなければならない哲学的課題にも直面しているといえるであろう。
最後に、これまで述べてきた人間観に基づいた社会、共同生活を実現していくことに対して、塾主の「新しい人間道に基づく文化国家」と「オウトピア」を比較して、結びに移りたい。
「新しい人間道」とは、これまで述べてきたような「新しい人間観」に基づいて、万物の王者としての天命を自覚して、いっさいのものを支配活用しつつ、よりよき共同生活を生み出す道である。それは、「つねに礼の精神に根ざし衆知を生かしつつ、いっさいを容認し適切な処遇を行っていくところから、万人万物の共存共栄の姿が共同生活の各面におのずと生み出されてくる」ものとしている。ここで「容認」とは、「人も物も森羅万象すべては、自然の摂理によって存在しているのであって、一人一物たりともこれを否認し、排除」するのではなく、そのあるがままを容認することである。また、「処遇」について、塾主は、「一般に使われている、お互い人間同士の待遇のしかたという狭い意味ではなく、そのことをも含めて、森羅万象あらゆる物事に対する処置、対処という広く深い意味を持つものなのです。そういった処遇というものが、現実の人間社会においては、政治や経済、教育、宗教その他いっさいの活動となってあらわれてくるわけです。」と定義している。また、「礼」とは、日常的な礼儀作法だけでなく、宗教でいう慈悲や愛の精神、感謝や謙虚、寛容など豊かな心のことである。
そしてこの人間道を実践していく上で、物質的にも精神的にもバランスがとれて発展している姿が真の文化国家であり、好ましい国家であるとする。すなわち、「単に物が豊かであったり、科学技術が進歩すればそれでよいということではなく、精神面として、人間自身を高めつつ、うるおいある人生、共同生活を営むという、いわゆる心をゆたかにする、物心ともに調和のとれた、真の文化国家こそ、すべての国が求めていくべき目標である」となる。こうした国家が集まった世界としての繁栄を通じた平和、幸福というものが、PHP(Peace and Happiness through Prosperity)の思想であり、目標であるといえよう。
「オウトピア」については、前述した通り、端的に述べれば、「Spiritually beautiful society , Materially affluent society , Humanly rewarding society(精神的に麗しく、物質的に豊かで、生きがいのある社会)」であるが、この実現のためには、「人間に対する再認識と再発見」、そして「人類家族意識による人類共同社会」という二つの意識革命をおこし、第一に、善義(good and justice)の生活、第二に、協同生活(cooperation)、第三に奉仕に寄与する生活を営まなければならないとする。
「容認」は、「和生論」であるともいえる。「処遇」は様々な社会活動や行動を衆知を集めておこなうということにあるが、これについても協同生活と同等であるといえよう。そして興味深いのが、「礼」と「善義」というものを挙げている点である。アジア的、王道、道徳を重要視する文化によるものともいえる。
松下幸之助塾主のPHP(Peace and Happiness through Prosperity)と、趙永植博士の「Spiritually beautiful society , Materially affluent society , Humanly rewarding society」において、物心一如の繁栄を通じた平和と幸福というものと、精神的豊かさ、物質的豊かさによる生きがいのある社会というものは、呼応しているといえる。
これについて、たとえば、地球環境の危機というものに対して考えてみる。レスターブラウン氏は、『プランB』という回答を纏めている。プランAとは、今まで通り何もせず、井戸の枯渇、気温の上昇、土壌の侵食、耕地の砂漠化という人類の未来である。プランBとは、実行すべきことの中核として、「水の生産性の向上、世界人口の速やかな安定化、気候の速やかな安定化」を政府や産業界のトップがリーダーシップをもって取り組み解決していく未来である。プランAでは、人類は物質的繁栄に偏向し、最終的には死滅することになるであろう。プランBでは、人類がその認識主体としての使命を自覚し、あらゆる万物を活かすためにも、各国が国内外において環境に対する対処を衆知を集めて強く実行に移すことによって、人類は次なる段階に生成発展していくのである。
こうした両者の共通点と表現の差異を、科学技術の現状を交えてみていくことによって、松下幸之助塾主や趙永植博士という「時代」を生きてきた先人の大いなる理念と人類の方向性に対する大きな志を実感することができたように思える。まだまだ実社会に対する論理を、自身のなかに構築していく段階であり、またその実践を少なくとも個人、人間関係において進めていかなければならないわけであるが、松下政経塾生として、塾是にある「新しい人間観に基づく政治経営の理念の探求」は、これまでもしてきたとおり、さらに講究していきたいと決意する次第である。その先に、人類の新たな未来を築くという使命を自覚する。
趙永植博士の『OUGHTOPIA』の日本語版の序章には、日本に対する次のようなメッセージが記されている。(1982年)
「日本が有史以来最大の戦災から、国民こぞっての努力によって、経済大国にたてなおすことが出来たことは、全くご同慶にたえない。
願わくば、世界の経済大国であるばかりでなく、更に世界の文化大国となって、崩れ行く分析的、文化的な西欧物質文明を、東洋的な総合的、直感的眼目をもって、新しい世界の総合文化の創造にご貢献下さることを切に希望して止まない。」
2005年8月、慶煕大学平和大学院(GIP)と松下政経塾が共催となって東アジアフォーラムが、韓国で開催された。
当日は、日韓関係を主とした東アジアの将来について学者、企業家、ジャーナリストといった各方面からお集まりいただいた有識者の方々によって、経済、外交、文化の観点から実に有意義な議論がなされた。
そうした諸々の議論の内容については、ここでは割愛するが、強く実感したものは、日韓両国の人類の未来に対する大きな使命である。日本も韓国も、民主主義国家として、また自由主義国家として、様々な歴史を経たなかでここまで経済発展を遂げてきた。そして、双方において、文化や国力などの差異はあるものの、共通して、礼を重んじる精神文化を持っている。すなわち、北東アジアをはじめとするアジア、世界の未来に対する強い志向を既に持ち得る国家だということである。
両国が、より国内の政治や経済、教育等に対する自国の文化に根ざした改革を進めていくとともに、環境破壊や金融危機、テロなど、アジアにおける様々な危機を防ぐ仕組みを構築する主体的外交努力をともに行い、さらに経済的繁栄を人間中心主義に立った形で昇華させてアジアの物心一如の繁栄とし、世界へそれを相互作用させていく未来を志向しなければならないのである。
松下政経塾・GIP共催 日韓フォーラム |
同 学生会議(前列真中が著者) |
参考文献
『松下幸之助発言集』(PHP研究所)
『松下幸之助の哲学』(PHP研究所)松下幸之助著 2002年
『人間を考える』(PHP研究所)松下幸之助著 1975年
『人間を考える第2巻 日本と日本人について』(PHP研究所)松下幸之助著 1982年
『OUGHTOPIA』(善本社)Young Seek Choue著 吉田昭作訳 1982年
『Let us open the new millennium through Neo-Renaissance』
(The GCS International)Young Seek Choue著2003年
『人本主義企業-変わる経営変わらぬ原理』(日本経済新聞社)伊丹敬之著 2002年
『ホーキング、宇宙のすべてを語る』(ランダムハウス講談社)
スティーブンホーキング、レナードムロディナウ著 2005年
『優生学と人間社会』(講談社現代新書)米本昌平、松原洋子、(ヌデ)島次郎、市野川容孝著 2000年
『プランB‐エコエコノミーをめざして』(ワールドウォッチジャパン)
レスターブラウン著 2004年
『地球環境 危機からの脱出』(ウェッジ選書)レスターブラウン他著 2005年
『東アジア共同体』(岩波書店)谷口誠著 2004年
Thesis
Keizo Maekawa
第24期
まえかわ・けいぞう
前川建設株式会社
Mission
『地域主権型国家日本の実現』