Thesis
私の松下政経塾における研修のテーマは「北東アジアスタンダードの構築に向けた日本の戦略的取り組み」である。これは将来的な日本の一つのビジョンとして私が提起しているもので、これだけによって日本外交を規定しようとしているものではない。これまでの日本外交の経緯を踏まえ、二国間外交を基盤として、近年活発化してきた多国間の枠組みを選択的に、戦略的に展開していく必要性を訴えるものである。本稿では、日本外交を取り巻く地域概念を主要文献をもとに整理し、今後の活動の指針となるように考察を加えていく。さらに本稿は、日本外交における地域概念において、政治的、歴史的に、いかにアメリカの影響が及ぼされてきたかを分析の一つの視点として考察に加え、今後、このテーマをさらに深く考察をしていくための布石としたい。
戦前の日本を取り巻く地域概念としてまず思い浮かぶのが「大東亜共栄圏」である。この地域概念の形成過程を明治時代初期の「大アジア主義」に端を発するという説もあるが、それを実証していくことは諸説あり非常に困難を極める。しかしながら明治以来、外交論議の中で、「列強協調主義」と「アジア主義」との対立があり、戦時中の陸軍と海軍による戦略の相違、北進論や南進論との対立は、東アジア(東亜)と太平洋(南洋)という地域概念をめぐる相違に他ならなかったのではないかと考えられる。さらに戦前の日本外交の現場においては一般的に「東亜」という言葉が一般的に用いられており、「太平洋」という言葉は、アメリカの影響を強く受けていると思われる。
「アジア主義」や「東亜」とはつまり日本中心的な発想に基づいた東アジア重視のビジョンであり、「列強協調主義」や「太平洋」とは欧米やアメリカの影響を多分に受けたビジョンであったと言うことができるのではないか。先の大戦を日本で「大東亜戦争」と呼ばれていたものが、戦後は「太平洋戦争」と呼ばれるようになったことは、アメリカ的な地域概念が日本的な地域概念に打ち勝ったと言うことも可能である。
この時の地域概念は、戦後に影響を与えたか否かも議論が分かれるところである。しかしながら、戦後の日本外交は「大東亜戦争」の反省から、周辺のアジア諸国に脅威を与えないためにも、少なくとも日本が声高に「東アジア主義」を叫ぶことは不可能であった。さらに、もう一つの制約条件として、アメリカとの協調を重視するあまり、アメリカの積極的な拒否のもとでは、東アジアという地域概念を日本が独自に積極的に描くことは不可能であった。
戦後は1957年にはじめて発行された外交青書に「アジアの一員としての立場の堅持」と謳われたが、大東亜戦争の負の遺産からアジア重視を打ち出すことに慎重であったこと、日本の経済発展を最優先に掲げ、先進国との関係強化を優先させたことなどから、日本外交のビジョンの中に際立った地域概念はあらわれなかった。
アジア・太平洋という言葉を日本の政治家がはじめて取り上げたのは、佐藤内閣の三木武夫外相である。三木外相は1967年5月に経済同友会で「アジア・太平洋外交と日本の経済協力」と題して演説を行った。アジア・太平洋の意味するところは、「太平洋」が先進国、つまり日本やアメリカ、アジアを途上国として捉え、三木外相は「アジアの安全と繁栄がなければ太平洋の安定と繁栄はありえない」と表現している。同時期に佐藤内閣の宮沢喜一経済企画庁長官も1969年5月、ハワイのロータリークラブ世界大会での演説でアジア・太平洋機構を提唱している。その後、1970年2月に佐藤栄作首相が太平洋時代に則した新しい日米関係の必要を説き、1975年1月には三木首相が「米中ソとの親善有効がアジア・太平洋地域の安定に貢献」すると説いた。
1977年8月には福田赳夫首相が福田ドクトリンと言われる演説を訪問先のマニラで行い、「日本と東南アジア諸国とは『同じアジアの一員』であって、単に経済的、物質的な利害だけでなく『心と心のふれあい』でつながれている間柄であり、対等な立場で協力しあう関係にある」ことを協調した。この福田ドクトリンは、戦後初めて日本が示した積極的外交姿勢であると外交青書には述べられており、アメリカからの深刻な反発を引き起こすかもしれないという恐れと読みから、国内だけでなく海外をも含め周到な根回しの末に打ち出されたものであるという。
その後に打ち出された大平正芳首相の環太平洋構想は、アジアにおけるアメリカの役割の重視と日米協調を基本としたものであった。同時期の1977年11月、アメリカ・カーター政権において、国務省・アジア・太平洋担当国務次官補リチャード・ホルブルックは「世界最大の海洋に囲まれ、それに面している諸国民は、全世界の人口のおよそ半ばを擁しているが、彼らは21世紀が太平洋の世紀となるのを見ることになる」と演説するなど、具体的な協調行動は見られなかったがこの時期の日米のビジョンは一致していた。その後、環太平洋構想の提唱者である大平正芳首相は急死するが、その遺志は引き継がれ1980年9月にキャンベラ・セミナーが開かれ、太平洋経済協力会議(PECC)の第一歩が踏み出された。PECCはその後、活動の延長としてAPECとして発展し、アジア・太平洋経済協力閣僚会議(APEC)としてアジア・太平洋地域の地域概念のもと今日に至っている。その後、中曽根内閣のときにも、日米関係の緊密な協調関係の下、アジア・太平洋の地域概念に基づいた日本外交が展開される。
1990年代に入り、アジア・太平洋という地域概念は、APECの誕生によってこの地域にはじめて多国間の枠組みができたことにより具現化された。APECは1993年にクリントン大統領の提唱によって、加盟国の指導者によるサミットが実現し、アジア・太平洋の地域に属する首脳がはじめて一同に会した。
戦後日本のアジアと太平洋に対する地域概念の変遷をたどると、日本がアメリカをどのように位置づけるかによって、日本外交の地域概念は微妙に異なってくる。しかしアジア・太平洋という地域概念は、開かれたアジア主義とアメリカとの協調を重視するという慎重な対応の結果、また国際情勢の変動のもとでアメリカが如何なる東アジア政策を採用してきたかによって形成されてきたものと言うことができるのではないか。
アジア・太平洋という地域概念に対して、東アジアという地域概念が対置されることがしばしばある。1990年12月にマレーシアのマハティール首相が「東アジア経済グループ」(EAEG)を提唱したのが、東アジアの地域概念を地域の枠組みとして具現化しようと試みる最初の提案であった。しかしこの提案には中国の李鵬首相が「我々がどんな種類の協力をなすべきか、協力がどんな形をとるのかはまだ結論の出せない問題だと思う。なぜなら東アジアの国々は経済制度においても経済の発展段階においても異なっている」と述べ慎重な姿勢を示したほか、日本やインドネシアからの反発もあった。その後、このEAEGの構想は、1991年10月にASEAN経済閣僚会議において、「グループ」ではなく「協議体」を使用することで合意され、「東アジア経済協議体」(EAEC)と呼ばれるようになる。
このEAECが実現しなかった理由は、アメリカの強い反対と日本の消極的姿勢である。1991年11月に訪日したジェームズ・ベーカー国務長官は、渡辺美智雄外相に「EAECは太平洋に線を引き、日米を分断する構想だ。絶対に認められない」と語っており、日本政府はその後一貫して慎重な姿勢をとるようになったのである。
しかし1997年12月にクアラルンプールで開催されたASEAN非公式首脳会議に際して、ASEAN諸国に日本、韓国、中国の三カ国を加えたいわゆるASEAN+3の首脳会議が実現している。このASEAN+3の枠組みは、当初マハティール首相が提唱したEAEC構想が想定した国々がメンバーである。日本からは橋本首相が、中国からは江沢民国家主席が出席し、東アジア地域の首脳がはじめて一同に会した。
さらに2000年11月のASEAN+3首脳会議では、ASEAN+3を「東アジア・サミット」に発展させる必要性について議論され、「東アジア」という地域概念がクローズアップされた。さらに金大中大統領のイニシアティブで設置された「東アジア・スタディー・グループ」(ESG)や「東アジア・ビジョン・グループ」(EAVG)で、東アジアサミットの実現可能性や東アジア地域における自由貿易圏構想などの検討がなされた。同時に開催された、日中韓による首脳の朝食会において、小渕恵三首相が三カ国首脳会合の定期化を提唱し、その後定期化された。
当初のEAECの構想の非実現からASEAN+3が実現した主な理由は、一つは中国が積極的な姿勢に変化したことである。一つはアメリカがアメリカ抜きの地域枠組みの動きに対して目立った反応を示さなくなったことであり、それによって日本政府がアメリカ抜きのASEAN+3の形成プロセスに躊躇しなくなったことである。
日本政府は、1995年7月までASEMアジア欧州会議(ASEM)におけるアジア側のメンバーを、ASEAN諸国に日本、韓国、中国とすることに反対を唱えていたが、マレーシアの「アジアの価値観を共有していない」という強い反対により、ASEMのアジア側メンバーは実質的にEAEC構想で当初想定された国々で構成されることになった。これ以後、日本はASEAN諸国と日中韓の会合に消極的ではなくなっていく。
さらに1997年1月に橋本龍太郎首相が東南アジアを訪問した際に、「日本・ASEAN首脳会議」の提案したものが、ASEAN側からASEAN諸国と日中韓による会議を逆提案されたことや、アジアの金融危機が東アジア諸国に危機感と連帯感を与えたことなど、必然的な要因から事態が進展していったことも大きな要因ではある。
このASEAN+3の枠組みは、今や「東アジア共同体」を発展させるべきだという意見も存在する。日本の国内においても、将来の東アジア地域の自由貿易圏の具体化に向けた問題など盛んに議論されている。日本政府のこれまでの動きを観察すると、東アジアという地域概念の形成に関して、かなり慎重な姿勢であったが、一度このような枠組みが形成された後では、かなり積極的な姿勢に変化した。この背景には前述の通り、アメリカに対する配慮があったと考えられるが、ASEAN+3が制度化された現在においても、この枠組みが地域形成において実質的な意味を伴うかどうかは不透明であり、やはりアメリカの影響が非常に大きいのではないかと考えられる。
これまで大まかに日本外交における、アジア・太平洋という地域、東アジアという地域について概観してきた。尚且つ事例としてあげたのがAPECとASEAN+3についてのみである。両地域概念においていえることは、アメリカの影響などを多分に受けているということ、形成過程において外的要因から多分に影響を受けたものであることが言えると考える。現在では、ASEAN地域フォーラムや北朝鮮問題を協議する日本、アメリカ、中国、韓国、ロシア、北朝鮮の六カ国協議や、日米韓のTCOGなど様々な多国間の枠組みがこの地域には存在しているが、先述した二つの事例以外の多国間の枠組みについてもおおよそ同様のことが言えるのではないかと考えている。
これからの日本外交はこれらの多国間の枠組みを戦略的に選択し、それぞれの選択肢に対して明確な意図とビジョンを描いていく必要性に迫られている。そのためにはまず日本自身が「主座を保つ」必要があると思う。
Thesis
Takaki Ono
第23期
おの・たかき
Mission
北東アジアスタンダードの構築に向けた日本の取り組み