論考

Thesis

新しいアジア~日本の歴史観試論~(2) 喪失するアジア~ナショナルアイデンティティーの模索

近代日本のナショナリズムはその発生を、いうまでもなく幕末におけるヨーロッパ勢力の衝撃に負うている。この事情は極東諸地域に概ね共通している。この衝撃に対する反応の仕方の相異が、日本のナショナリズムに他の極東諸国、なかんずく、中国のそれと著しくちがった歴史的課題を課することとなったのである。(丸山真男)

1. はじめに

 本稿は松下政経塾の創設者である松下幸之助が「21世紀はアジアの時代である」と言ったその意味はいかなるものかを検討していくことを目的とする。そしてそこに込められている未来のアジア像はいかなるものかを考察していく。

 「世界の文明、繁栄というものはエジプト方面からはじまったのでしょう。それがだんだん地中海の沿岸に広まって、ギリシャ、次いでローマが栄えた。ローマの次には、それが欧州全体に広まって、欧州全体が繁栄した。その次は、その繁栄はどうなったかというと、大西洋を渡ってアメリカにきたわけです。それで20世紀になってアメリカが一番繁栄した。

 ところが、最近のアメリカをみてみると、まあいささかダウン気味である。それではそのアメリカの繁栄がまた欧州に返るかというと、いま言ったような大きな流れからすると、やはり返らないと思うのです。今度は、太平洋を渡ってアジアへ来るだろう。アジアへ来るとすれば、日本とか中国とか、そういうアジアの国々が繁栄する。」

 松下幸之助曰く、この考え方は「理屈とか、理論的に考えた結果ではなくて、私のカンでは、21世紀にはアジアが繁栄するだろう」と、感覚的なものに支えられたものである。しかしながら一つの時代感覚から導き出されたことは確かなことであり、福沢諭吉先生が「脱亜論」において述べた西欧文明のように「麻疹の流行のごとし」という表現を想起させる。

 今やすでに21世紀に入り、中国の台頭や東アジア共同体に向けた取り組みが始動しているが、未だに確固としたアジア像を持てずにいるのが現実なのではないだろうか。本稿ではまず、明治以降の日本の自画像、アジア像を述べることからはじめ、先の大戦の戦後における「アジアの喪失」状態にあることを概観したうえで、未来のアジア像を探っていく手法をとる。

 既に序論において、戦前の日本やアジアの自画像というものを以下のように述べた。それは「欧米列強」に対する弱者としての自画像であり、岡倉天心の言うように「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱にほかならない」ものであった。それは「停滞のアジア」であり、「貧しいアジア」であり、「専制(独裁)のアジア」であるという自画像であった。

 さらに緊急切迫した危機感として「欧米列強の侵略」という問題があり、アヘン戦争によって分断される中国を目の当たりにした日本では、「欧米に対するアジア」という心情が一貫して流れてきたことを検討した。

 アジア像を検討していくうえで先の大戦を分岐点として「戦前」として区分することに関し、日本の自画像は明治時代後半から昭和初期にかけて自らを「大国」として意識するよう変容したことをあげて矛盾するということには必ずしもならない。「脱亜」の思想にしても「アジア主義」の思想にしてもその根底に流れていたものは「欧米に対するアジア」であったからである。

 1945年以降の世界的な枠組み変動の中で、日本をはじめとする帝国主義のアジアからの撤退があり、アジア諸国は独立によって政治・経済・社会・文化の総合的な変動期を迎えた。その変動期にアジアに住む我々の自画像も変わってきた。それまでの「自発性や連帯感の欠如、醜い利己的な感性的要求、そして権威への盲従」という「アジア的」なイメージは、「勇気、自発性、独立、自由、連帯」そして「卑屈ということ知らない」近代的な主体性を身につけていったように思える。

 つまり先の大戦後の日本やアジアの自画像は、内なる心情における反米闘争などがあったとしても「敗戦」という拭い去れない事実から明らかに「戦前」とは異なる自画像を模索し、変遷を遂げてきたといえるのではないか。その自画像の中には「アジア」という意識が欠如していたのではないか。

 本章では、「戦後」の日本の自らのアイデンティティーの模索と日本にとっての「アジア」像を検討していく。その過程でこの時期の日本はアジアとしての自画像が喪失していたのではないかという仮説を立て検討していく。

2. 戦後直後の状況

(1)終戦直後の石原莞爾発言

 戦前に陸軍中将であった石原莞爾は、1945年8月28日の「読売報知」に掲載されたインタビューで、「東亜の各国家に対して日本が欧米覇道政策と同様の態度で臨んだ過去の一切の罪は哀心から深謝するの勇気を持たねばならぬ」と述べている。

 「戦に負けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて軍備を撤廃したうえ今度は世界の輿論に吾こそ平和の先進国である位の誇りを以って対したい。将来国軍に向けた熱意に劣らぬものを科学、文化、産業の向上に傾けて祖国の再建に勇住邁進したならば必ずや十年を出でずしてこの狭い国土に、この尨大な人口を抱きながら、世界の最優秀国に伍して絶対に劣らぬ文明国になりうると確信する。世界はこの猫額大の島国が剛健優雅な民族精神を以って世界の平和と進運に寄与することになったらどんなに驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい。かかる尊い大事業をなすことこそ所謂天業恢弘であって神意に基づくものである。…天業民族に神様から与えられたこの国以外に領土をやたらに欲しがるに及ばない。真に充実した道義国家の完成こそ吾々の最高理想である」

 この石原莞爾の言葉は戦後直後に語られただけに、日本がこれまで持ち続けてきた「欧米に対するアジア」に根ざした二つの方法論で対処しようとする一つの時代が終わったことを象徴している。欧米に対抗するため、道義を持って対抗する東洋の王道政策を目指したアジア主義と、植民地帝国主義を採用する欧米の覇道政策を目指した脱亜政策とが相括する日本の対外政策が終焉したのである。

(2)新たなアイデンティティーの模索

 この「欧米に対するアジア」という自画像に変わり、戦後直後には「文化国家」や「平和国家」というスローガンが多く掲げられ、新しいアイデンティティーが模索されはじめた。例えば尾崎行雄は1947年の『咢堂清談』などで、「青年よ非国民たれ」と主張した。彼によれば「日本が廃藩置県をやったときのように、よろしく世界は国家をなくしてしまふべき」であり、「昔の『非藩民』の代わりに今度は『非国民』となるべき」である。さらに「日本料理のやうに食べてまづく栄養のない料理は世界にも少ない」「日本人の家は人間が病気になるやうにできている」などと主張して、衣食住の西洋化や漢字の全廃を訴えた。

 さらに久米正雄は1950年2月に「日本米州論」を書き、日本はアメリカに併合してもらって新しい州になるべきだと説いた。軍事的・経済的に破綻した日本は、「形式的国家の誇りと、封建的愛国心を抛棄して」、「いさぎよく、国境を抛棄し、政治なんぞををやめ、無政府の自由国となって、下らぬ制限なぞない、観光楽土にする外無い」という論調まででてきた。

 評論家の川上徹太郎は、1945年10月に「政治、軍事、経済すべての面で手足がもがれたわが国唯一のホープは文化である」と述べ、京都学派の高坂正顕も8月20日の新聞寄稿で「戦争に負けたということは総力の点において敗れてしまったということではない」として「文化戦争に勝て」と唱えた。東久邇首相も1945年8月の記者会見で、「一億総懺悔」とともに、「この際心機一転わが国民族の全知全能を人類の文化に傾注」することを唱えている。

(3)丸山真男の「日本におけるナショナリズム」と日本の自画像

 丸山真男は戦後直後の日本の状況を「敗戦はしばしばナショナリズムの焔をかきたてるにもかかわらず、日本の場合には外人を驚かすほどの沈滞、むしろ虚脱感が相当長い間支配した」と述べ、「新憲法の制定とともに『平和文化国家』という使命観念が新装を凝らせて登場し、様々の『理論付け』がほどこされたにもかかわらず、国民に対する牽引力をほとんど持たず、敗けたからやむを得ずのスローガンだというような印象を払拭しきれない」とそれまでの「欧米に対するアジア」という日本の全体的な使命感の崩壊がもたらした精神的真空の大きさを語っている。

 そして丸山真男が「日本におけるナショナリズム」を執筆した1951年の時点で、「国民は今なお、資源は乏しく人口過剰で軍備もない日本が今後世界のなかで一体どのようなレーゾン・デートルを持つかについてほとんど答えを持っていない。今後新しいナショナリズムがどのような形をとるにせよ、この疑問に対して旧帝国のそれに匹敵するだけの吸引力を持った新鮮な使命感を鼓舞することに成功しない限り、それは独自の発展を望み得ないであろう」と述べ、当時の日本が自画像を描くことができていなかった状況を語っている。

3. アジア諸国の勃興と日本の状況

(1)アジア諸国の勃興

 戦後日本が自らの自画像を模索する中で、日本をはじめとする帝国主義が撤退していったアジア諸国は、次々と独立を果たしていった。戦争で大きな経済的打撃をこうむった植民地保有国が経済危機を乗り越えるために植民地体制を維持しようとしたにもかかわらず、解放と独立を掲げる民族運動が活発化したのである。

 日本の植民地支配から解放された朝鮮は、1945年9月には朝鮮人民共和国の成立を宣言した。その後、北緯38度線を境界に分割占領した米・ソの動向により南北が分断される。境界線の南側は1948年5月に国連臨時朝鮮委員会のもとで南朝鮮だけの単独選挙がおこなわれ、8月にはアメリカ型の大統領制や議院内閣制を国体とする憲法が制定され、大韓民国が成立し、大戦中にアメリカに亡命し反日独立運動を進めてきた親米反共主義者の李承晩が大統領に就いた。北は大戦中にソ連の支援で抗日ゲリラ闘争を進めてきた金日成が朝鮮民主主義人民共和国が独立を宣言した。

 東南アジア諸国でもインドネシアが終戦直後の1945年8月17日に独立宣言が出され、スカルノが大統領に就任した。オランダは各地に傀儡政権をたてて干渉したが、1949年11月のハーグ協定でインドネシア連邦共和国の独立を認めた。フィリピンは1946年に共和国として独立し、アメリカの経済支配に農村を中心に対抗勢力が現れたがアメリカの援助を受けたフィリピン政府は軍事制圧している。マレー半島はもともとイギリスの植民地であったが、1957年にシンガポールを除いた地域にマラヤ連邦が独立した。その後シンガポールも含めマレーシア連邦が成立し、1965年にはシンガポールが連邦から離脱して独立した。

 そして日本の知識人の意識に大きな影響を及ぼしたのが中国である。中国では1946年1月に一時は国民党や共産党、民主諸党派の間で政治協商会議が開かれ「平和建国綱領」などの「五項決議」が採択されたが、国民党はこれらの決議を守らず国共内戦が始まった。アメリカの援助に頼る国民党は、多くの農民が加わった中国共産党軍に大陸を追われ台湾に逃れた。一方、中国共産党の人民解放軍率いる毛沢東は1949年10月1日、北京で中華人民共和国の成立を宣言した。

 日本の農村よりも近代化されていないはずの中国の農民を組織化した中国共産党が、アメリカの援助を受ける国民党に打ち勝ち革命を成し遂げたことは多くの日本の知識人にとって衝撃だったに違いない。

(2)日本の知識人への影響とアジアの再評価

 このようなアジア諸民族の独立への動きは、当時連合国の占領下にあり、欧米の植民地的な存在だった日本にとって大きな影響を及ぼした。1950年前後の日本の論壇では西洋文化への見直しとアジアの再評価が台頭した。

 マルクス主義中世史家の石母田正が1953年に、「民主主義、社会主義、共産主義、これらの言葉はもはやヨーロッパだけの言葉ではなくなった。ヨーロッパとは異質の法則が支配すると長い間考えられてきたアジアの民衆が、その内部から、自分の努力でそれらのものを創造している時代がきたことを中国革命は証明した」と述べたのをはじめ、中国研究者の竹内好が注目を集め、丸山真男も1952年には過去の自分の中国観に対する自己批判を公表した。

 丸山真男は「近隣の東亜諸民族があふれるような民族的情熱を奔騰させつつあるとき、日本国民は逆にその無気力なパンパン根性むき出しのエゴイズムの追求」に走っているとまで言い放ち、中国をはじめとするアジアのナショナリズムから学べという左派からの主張のきっかけとなった。

(3)アジアナショナリズムへの共感と反米感情

 さらにこれらのアジアナショナリズムへの共感は、民衆志向を伴ったものであり、同時に反米感情とも結びついていた。終戦後日本はGHQの占領政策に基づいて二度と世界の脅威とならないような民主化が進められていたが、中国での国共内戦で共産党が有利になるにつれアメリカの対日政策は大きく転換した。さらには1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、日本・韓国・台湾を社会主義陣営の勢力拡大に対抗するための重要拠点とするための反共政策がとられた。1951年9月にはサンフランシスコ講和会議が開かれ平和条約によって日本の主権は回復されたが、平和条約と同時に調印・発効された日米安全保障条約によって、日本はアメリカ軍の日本駐留を許与した。このような動き、つまり日米安保条約や駐留米軍基地の存在によって非武装中立であるはずの日本が戦争に巻き込まれるという議論も根強くあった。その中で反米の論調がでてきてアジアのナショナリズムと結びついたのである。

 1951年1月に清水幾多郎は論考「日本人」を発表し、アメリカの社会科学者ボガーダスの調査記録で、アメリカ人が結婚したい人種のうち日本人はわずか2.3%であったことを引用して「日本人はアジア人である。フィリピン人、トルコ人、中国人、朝鮮人、インド人と共に、そしてニグロ及び白黒混血児と共に、この表の最下位に、相互に殆ど区別され得ない数字を抱いて、いや、零に近い数字を抱いて立っている」という表現を用いてアメリカからの自立とアジアの連帯を説いている。

 清水幾多郎や宮原誠一らが編纂した作文集『基地の子』の序文の中には次のような一説がある。「アジアの諸民族は、植民地民族として、この複雑な、からみあった、われとわが身を食うような関係に投げ込まれてしまいました。そのアジア諸民族が、今、長い汚辱の歴史を振り捨てて、美しい独立の道を歩みはじめています。そのとき、久しくアジア諸民族を眼下に見下ろしてきた日本国民が新しく植民地状態へころがりこんでいるのです。」

 アジア諸国が民族の独立を達成していく中で日本は駐留米軍に象徴されるように植民地の状態にあることを、当時の日本人は反米感情とアジアナショナリズムへの共感へと結びつけたのである。

 丸山真男がこの時期の日本の状況を「無気力なパンパン根性」と批判したのは象徴的である。1953年に米軍の元通訳によって「パンパン」の手記を集めた『日本の貞操』が出版されたがその続編で、敗戦直後に日本政府が米軍向けの慰安所を設置したことが「パンパン」の起源として強調されたという。

 そしてこの『日本の貞操』は、反米基地闘争の中でしばしば回覧された。小熊英二は『民主と愛国?戦後日本のナショナリズムと公共性』の中で、この丸山真男の表現を、「こうした性的な比喩の頻出も、戦争と敗戦によって傷ついた男性たちが、自尊心とナショナル・アイデンティティーを回復しようとする心情を露呈させたもの」として分析している。

4. 喪失するアジア
―日本の「アジア地域主義構想」の挫折と「極東」としてのアジア

(1)日本の「アジア地域主義構想」と挫折

 学習院大学教授の井上寿一は論文「戦後日本のアジア外交の形成」 において、戦後の日本とアジア諸国との間でどのような関係再設定を試みたかという問いに、標準的な答えとして「アジアは忘却の彼方へと見失われた」と述べている。戦後日本にとっての対外関係は、すなわち対米関係のことであり、アメリカと協調することが「平和と繁栄」を享受することに他ならず、アジアは戦後日本外交の片隅に追いやられていたのである。

 しかし同論文では、1948年にまとめられた外務省特別調査委員会の報告書に「米国経済に対する全面的依存の性格を与えられることは避けねばならない。日本としては常に東亜諸地域との分業協力関係の設定に努力すべき」と記述されていることや、戦後世界の地域主義の台頭をある程度予測しながら「今次大戦前のごとき自立的ブロックに非ずして恐らくは世界的組織の下に立つ地域主義となるであろう」と述べていることをあげ、この時期にはアジアをめぐる対外構想の基本的前提があったことを明らかにしている。

 さらに1950年10月に開催された太平洋問題調査会第11回会議においては、経済及び社会問題に関するラウンドテーブルで総括報告者が、「アジアにおけるナショナリズムの勝利は、むしろアジア諸国間の協力の強化、ならびにより広範な相互依存関係の認識の必要を当面の課題として浮かび上がらせた」と述べており、アジア地域主義の可能性が具体的に検討されることになったという。

 その後、多国間協調や二国間関係の中で日本はアジアの地域主義の基本的な枠組みを模索していくが、対米外交と両立可能な対中関係調整政策を志向しながら、対米追従と誤解されないアジア主導の経済的地域秩序形成への積極的関与を試みるという政策構想を具体化しようとした岸信介政権のときに、東南アジア開発基金構想の挫折や第四次日中民間貿易協定の波状を契機に一頓挫した。

 もともと複雑で多様なアジアは、戦後勃興してきたアジア諸国のナショナリズムによってさらに地域協力が困難な状況となっていたのである。井上寿一の言葉を借りれば、戦後の日本は、アジアの複雑で多様な現実の姿を「発見」したのである。

(2)「極東」としてのアジア

 戦後日本の中で、アジア地域に関する新しい概念が登場したとすればそれは、1951年に調印された日米安全保障条約の条文にでてきた「極東」という概念である。日米安全保障条約第1条ではアメリカの軍隊が「日本国の安全に寄与する」だけでなく、「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」することも目的とされた。あえて解説すれば極東とは「東アジア、東南アジア」の地域を指し、「西欧から見て東の果て」という意味である。条文にあった「FarEast」そのまま訳したものであるが、安全保障分野においてこの極東という言葉はその後も使われるようになった。因みに現在では外務省のWebで公表されている「日米安全保障体制」の説明では、「極東」という表現ではなく「アジア太平洋」という表現が用いられている。

 戦後の日本外交の中で、「アジア」や「東亜」という表現は確かに頻繁に用いられてきた。戦後はじめて国会における首相演説で「アジア」の表現を用いられたのは、1950年1月の吉田茂首相による施政方針演説であるが、「東南アジアもまた共産分子の活動に非常な脅威を感じておる」と言及するのみであった。その後、1952年11月の施政方針演説で吉田首相は「アジアにおける平和と安定の増進に寄与するため、アジアの民主主義諸国との相互理解を深め」と述べ、サンフランシスコ講和会議以降からようやくアジアへの積極的な発言が見られるようになった。

 しかしながら戦後直後、国際社会復帰直後の日本にとって果たすことができる役割とは、東アジアの一員としての役割というよりも「極東」という表現に象徴される日米安全保障体制下における役割しか担い得なかったのが現実である。ソ連の原爆保有や中国革命の成功、朝鮮戦争という事態に直面し、日本国内の左翼勢力の伸張もあいまってアメリカは民主化と平和主義化を進めるという当初の対日占領政策を後退させていったのである。

5. 結論

 本稿では、以下の二つの問題意識をもとに検討してきた。一つは、先の大戦後の日本やアジアの自画像は、内なる心情における反米闘争などがあったとしても「敗戦」という拭い去れない事実から明らかに「戦前」とは異なる自画像を模索し、変遷を遂げてきたといえるのではないかということ。一つは、その自画像の中には「アジア」という意識が欠如していたのではないかということである。

 さらに、この時期の日本は、アジアとしての自画像が喪失していたのではないかという仮説を立て、戦後日本の自らのアイデンティティーの模索と日本にとっての「アジア」像を検討してきた。

 検討を通じて問題意識の一つ目に関し、戦後直後の日本は明らかに「戦前」とは異なる自画像を模索していたといえる。石原莞爾の「東亜の各国家に対して日本が欧米覇道政策と同様の態度で臨んだ過去の一切の罪は哀心から深謝するの勇気を持たねばならぬ」という言葉はまさに、それまでの「欧米に対するアジア」に根ざした脱亜政策とアジア主義の相括する対外政策の時代の終焉を迎えたことを象徴し、「文化国家」や「平和国家」などの新しいアイデンティティーが模索され始めた。しかしながら、丸山真男の言うようにそれらの新しいスローガンでさえも国民に対する牽引力を殆どもたず、当時の日本が自画像を描くことすらできなかったことが第二節において明らかになった。

 二つ目の問題意識である「日本の自画像の中には「アジア」という意識が欠如していたのではないか」ということに関しては、若干の語弊がある。アジア諸国の独立に影響を受けた知識人らによるアジアへの再評価が行われ、占領政策を行ったアメリカに対する反発の感情などが確かに存在した。しかしながらそれは、「戦争と敗戦によって傷ついた男性たちが、自尊心とナショナル・アイデンティティーを回復しようとする心情」ではないかということを第三節で検討した。

 そして、この時期の日本は、アジアとしての自画像が喪失していたのではないかという仮説に関しても若干の修正が必要である。つまり日本はアジアとしての自画像を自主的に喪失させたのではなく、喪失せざるを得ない状況であったのである。第四節で述べたように、戦後直後から日本の「アジア地域構想」が存在したものの、複雑で多様な現実のアジアを目の当たりにし、アジアだからこそ言える「地域的協力の困難さ」ゆえに挫折した。そして戦後アジアの新しい概念の象徴であったのが、日米安全保障条約の条文で使われた「極東」という言葉である。日本はこの時期において、現実的には「極東」という表現に象徴される日米安全保障体制下における役割しか担い得なかったのである。

 逆説的に言えば、この時期の日本は、ナショナル・アイデンティティーを模索するなかで日本の自画像を見失い「喪失したアジア」にならざるを得なかったが、実は「欧米に対するアジア」という自画像を持っていた戦前と同じ、「屈辱のアジア」という自画像は依然として持ち合わせていたのではないだろうか。戦前の「アジア主義」という概念とは異なるものであったものの、反米感情やアジアナショナリズムへの共感はその現れである。「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱」であった過去数世紀にわたる世界史のパラダイムは、現在に至るまでに果たして「繁栄のアジア」という自画像に変換したのだろうか。この「近代日本のパラダイム」ともいえるべきアジアの自画像どの時期をもって変換したかについては次回以降の検討課題とする。

【参考文献】

松下幸之助『リーダーを志す君へ』(PHP研究所、1995年3月)
小熊英二『民主と愛国-戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2003年10月)
丸山真男『現代政治の思想と行動』(未来社、1994年5月)
日本政治学会編『日本外交におけるアジア主義』(岩波書店、1998年)
日本政治学会編『危機の日本外交?70年代』(岩波書店、1997年)
国際政治学会編『日本外交の思想』(有斐閣、1982年8月)
国際政治学会編『環太平洋国際関係史』(有斐閣、1993年2月)
国際政治学会編『終戦外交と戦後構想』(有斐閣、1995年5月)
笠原一男『詳説日本史研究』(山川出版社、1965年10月)
木下康彦・木村靖二・吉田寅『詳説世界史研究』(山川出版社、1995年7月)
帝国書院編集部編『詳密世界史地図』(帝国書院、1994年3月)
外務省ホームページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/taisei.html
東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室ホームページ「データベース『世界と日本』」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/
松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』(岩波書店、2000年6月)

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