Thesis
「文明論とは、人の精神発達の議論なり」「文明とは人の安楽と品位との進歩をいうなり。またこの人の安楽と品位とを得せしむるものは人の智徳なるが故に、文明とは結局、人の智徳の進歩というて可なり」「国の独立は即ち文明なり。文明にあらざれば独立は保つべからず」福沢諭吉『文明論之概略』より引用
松下幸之助塾主曰く、「『21世紀の繁栄はアジアにくるから、日本はその受け皿になろう。受け皿になるには、受け皿になるような人材が必要だ。その人材をつくらなくてはいかん』というのが、この政経塾をつくった一つの動機です」。
21世紀はアジアの時代であるということを塾主は常々語っていた。21世紀にはアジアの繁栄の時代がやってくる。それは半ば予言めいたものではあるが、そのアジアの繁栄の時代に日本が先立って優秀な人材を供給していかなくてはならない。その人材育成の機関として松下政経塾が創設されたのである。
この塾主のいう「21世紀はアジアの時代」とはいったい何を意味するのであろうか。この「アジア」の発想は、長い歴史の大きな流れの中から導きだされた一つの時代感覚から導きだされたものである。しかしながら19世紀後半から20世紀を通じて形成されてきた「アジア」の意味は明らかに変わってきた。明治維新の時に存在していた「欧米列強vsアジア」という概念はすでに喪失し、大きな歴史的パラダイムの中でみると、日本は明治以来の近代化(脱亜入欧化)の過程は終わったのである。
かつてアジアのイメージは、「停滞」「貧しさ」「専制(独裁)」というものであった。しかしそれがいまや、「発展」「繁栄」「民主化」のイメージにとって変わったのである。1945年以降の世界的な枠組み変動の中で、日本をはじめとする帝国主義のアジアからの撤退があり、アジア諸国は独立によって政治・経済・社会・文化の総合的な変動期を迎えた。松下幸之助塾主が「21世紀はアジアの時代」であると語ったのは、1970年代であるが、少なくともこの時期には社会の表層においてそのような兆候が現れてきており、日本をはじめとするアジア諸国は明らかに変わり、未来のアジア像を構築することを始動していたのである。
その「未来のアジア像」とはどのようなものであろうか。本稿では、序論としてこれまでの「アジア」とはどのように考えられてきたのかを特に戦前の「日本のアジア主義」の系譜をたどることからはじめる。そこでアジアの自画像が「欧米に対するアジア」として捉えられたものとして検討する。そしてその上で、次回稿以降において、戦後の歴史の変遷をたどり、これからの「新しいアジア」を考察していく。
(1) 日本のアジア主義
アジア主義の系譜を辿るにあたっては、1963年に発表された、竹内好『日本のアジア主義』や2000年に発表された、松本健一「竹内好『日本のアジア主義』精読」が有名である。初期のアジア主義を概観する論文として、狭間直樹「初期アジア主義についての史的考察(1)~最終章」『東亜』(霞山会、2001年8月号~2002年3月号)が詳しい。
少々長いがアジア主義の定義のために竹内好氏が自らの考えに近いと述べている平凡社の野原四郎著『アジア歴史辞典』(1959-62年刊)の「大アジア主義」の項目を引用する。
「欧米列強のアジア侵略に対抗するために、アジア諸民族は日本を盟主として団結せよ、という主張。アジア連帯論自体は、日本の独立問題と関連して、明治の初年から唱えられたが、とりわけ、自由民権論者の主張のなかで、いろいろの差異を示しながら展開された。たとえば、植木枝盛は、彼の民権論をささえていた自由平等の原理を、国際関係にまで適用して、アジア諸民族の抵抗を正当化するとともに、その抵抗のためにアジア諸民族がまったく平等な立場で連帯しなければならないといい、さらにその立場をおしすすめて一種のユートピア的な世界政府論をかかげるにいたった。しかし、いっそう有力であったのは、樽井藤吉や大井憲太郎の主張であった。彼らは、欧米列強に対抗するために、アジア諸国が、それぞれの国内の民主化を推進しながら、あい連合する必要があるとみなしたが、日本は、民主化の点で一歩先んじているから、他のアジア諸国の民主化のために援助の手を差し伸べねばならないとして、日本の民族使命なるものを強調した。
やがて、明治二十年代にはいると、こうした民権論者のアジア連帯論から、自由民権運動の後退、天皇制国家機構の確立、対清軍備の拡張などにつれて、大アジア主義が頭をもたげてきた。『有色人種として欧米人に対抗するには軍国の設備が必要であり、ことに東洋の新興国として勃興せるわが国が、将来東洋の盟主たらんとの希望を包蔵する時代において、軍国主義の首唱は最も時をえたり』として、玄洋社が民権論をすてて国権主義への転向を表明したのは、まさに1887年(明治20年)であった。かくて、大アジア主義も、日本が同じ被圧迫民族であるかのように主張したり、同文同種といった題目をならべたり、東洋文明は精神的で西洋文明は物質的であると称したりして、アジア諸民族との連帯を訴えたが、実は次第に明治政府の大陸侵略的政策を隠蔽する役割を果たすようになった。1900年(明治33年)設立の黒竜会の綱領にみられるように、その後大アジア主義や、天皇主義とともに、多くの右翼団体の主要な標語にえらばれ、満蒙奪取を企図する日本の政策に奉仕した。(26年に上海で、27年には長崎で大アジア主義の東方民族大会が開かれたことがある。)これに対して、中国の革命勢力からは、たえず批判がおこなわれてきた。中国革命同盟会の機関誌『民報』は、その六大主義のの一つとして、中日両国の国民的連合をあげながら、対等な関係の連合を主張し、日本の吸収主義(つまり大アジア主義)を痛烈に非難した。ついで李大釗が1919年の論文「大亜細亜主義与新亜細亜主義」(『国民雑誌』一巻二号所収)で中国を侵略する隠語であるとして排斥し、アジア諸民族の解放と、平等な連合によるアジア大連邦の結成を説き、欧州連合、アメリカ連邦と鼎立して、世界連邦を構成すべきだという、新アジア主義をもって、それに対置した。孫文が24年末、神戸での講演で『われわれは、アジアをはじめ全世界の被圧迫民族と連携して、覇道文化にたつ列強に抵抗しようと考える日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか、はたまた、東方王道の干城となるを欲するか』と選択をせまったのも、大アジア主義で粉飾した日本の帝国主義に対する忌憚のない批判であった」。
しかしながらこの定義をもって「アジア主義」とすることもできない。「アジア主義」を正確に定義することは難しく、竹内好氏自身も上記の定義に若干の異論を唱えているし、辞典の数だけ定義が異なると述べている。岡倉天心や樽井藤吉のアジア主義は上記の「日本を盟主として」という説明とは極めて異なるし、「アジア主義」と「大アジア主義」では、李大釗が批判したような「中国を侵略するための隠語」として、両者ともに用いられたとも言い難い。私は、理念としての「アジア主義」から、膨張主義的な「大アジア主義」へと変遷したと考えるのが妥当ではないかと考える。
参考までに竹内好氏による「アジア主義」の構成は以下のとおりである。
定義の難しさはあるものの、それぞれの思想は発生的には、「明治維新革命後の膨張主義の中から、一つの結実としてアジア主義がうまれた」と考えられ、「膨張主義が国権論と民権論、または少し降って欧化と国粋という対立する風潮を生み出し、この双生児ともいうべき風潮の対立の中からアジア主義が生み出された」と述べている。つまり様々なアジア観の中でも、根底で共通していたものは、「欧米に対するアジア」として認識されていたのである。
(2)『脱亜論』にみる「欧米に対するアジア」、中江兆民の『三酔人経論問答』
欧米に対するアジアの概念と相対するものとしてよく対比されるのが福沢諭吉先生の『脱亜論』であるが、これを文字通り現在の感覚で読み取っては本質が見えてこなくなる。『脱亜論』は樽井藤吉の『大東合邦論』が最初に日本語で書かれた1885年(明治18年)に書かれており、当時の『大東合邦論』に類似する風潮を罵倒し、日本が国際競争から生き残っていくための決意を表明したものと解釈することができる。
「西洋近時の文明がわが日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民ようやくその採るべきを知り、漸次に活発の気風を催したるれども、進歩の道に横たわる古風老大の政府なるものありて、これを如何ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何ともなれば近時の文明は日本の旧套と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府もまた廃滅すべければなり。しからばすなわち文明を防ぎてその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何ともなれば、世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり。ここにおいてわが日本の士人は国を重しとし政府を軽しとする大義に基づき、また幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、ひとり日本の旧套を脱したるのみならず、アジア全州の中に在って新たに一機軸を出し、主義とするところはただ脱亜の二字にあるのみ」。
上記の末尾こそ強い決意が現れているが、福沢先生は西洋の文明を奨励賛美するものではない。西洋の文明の流れを「麻疹の流行のごとし」として表現し、これを「流行病の害を悪(にく)みて」それを除去していくのは得策ではない。「これを防がざるのみならず、つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者のことなるべし」と除去するよりも、西洋の気風に慣れ活用することによって対抗していくことを当時の日本の戦略としたのである。
「如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭いながら、支韓両国はその伝統の天然に背き、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶ちて窒塞するものなればなり」
当時の清や朝鮮は、西洋の文明に対して日本と対処の仕方が異なっていた。「脱亜論」の文章を整理すると、「支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(たの)むべきものあらざれば」、さらに「支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何者たるを知らざれば」、「今より数年を出でずして亡国となり、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑いあることなし」。つまりそのまま西洋の文明というものを拒絶し続けていては、文明の波に押され国の独立をも危ぶまれてしまうことを痛切に述べているのである。
福沢先生の「脱亜論」は言葉の痛快さから、「われわれは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」といった箇所ばかりが強調されることが多い。しかしながら「アジア主義」の思想とは方法論が異なるだけで、「欧米に対するアジア」という認識においては共通しているのである。当時の福沢先生の著作、『文明論之概略』や『福翁自伝』などを読む限り、福沢先生は心情としての「アジア主義」は持ち合わせている。持ち合わせてはいるが、冷静な現実主義、ナショナリストである福沢先生が抱いていた危機感-欧米列強から日本の独立を確保できるか-はあまりにも緊急な課題であり、『大東合邦論』などの「アジア主義」をして日本の戦略とすることは到底できなかったのである。
当時の時代背景を探り、「アジア主義」と「脱亜」の思想を対比するものとして興味深いのが中江兆民の『三酔人経論問答』である。本書では『大東合邦論』と『脱亜論』の二年後に発表されたものである。内容は、洋学博士と豪傑君、南海先生という三人の「三酔人」が登場し、政治や国際関係についての議論を通じて思想的なスタンスのとり方を読者に投げかけるという形式をとっている。洋学紳士は政治道徳、西洋政治思想を重視する理想主義者であり、豪傑君は国際政治におけるパワー・ポリティックスを重視する膨張主義的国権論者として描かれている。南海先生は両者の議論を天下国家の議論としての判断者として振舞っている、もしくは南海先生の相反する心中の代弁者が洋学紳士であり、豪傑君であるといえる。
私にはこの『三酔人経論問答』は、ある意味で当時の「欧米に対するアジア」の方策を問答しているように思える。
(3) アジア主義から大アジア主義へ -孫文の「大アジア主義」演説
「アジア主義」を「欧米に対するアジア」として捉えるとき、「脱亜」の思想と方法論において相反するものとなる。しかし両者の関係は常に表裏一体のものとならざるを得ない。脱亜が達成されれば、アジア主義が衰退し、脱亜の達成が遠ざかればアジア主義が興隆するという関係である。北岡伸一氏によれば、「欧米が日本を徐々に受け入れ、またアジア諸国に日本と提携する動きが高まらないことが明らかになったとき、アジア主義に対する熱意は民間からも引いていき、脱亜への道が完成する。1920年代に、アジア主義はもっとも低調となった」、と述べている。
小路田泰直氏によれば、アジア主義は日露戦争後に支配イデオロギーから転落していったという。日露戦争は「日本の植民地帝国化と同時に、東アジアにおける『パクスアメリカーナ』(門戸開放原則)の定着をもたらしたからであった」というのがその理由だ。
それではアジア主義の低調、凋落の後に続いたものは何だったのか。それは一つに、「アジア主義」から日本をアジアの盟主として位置づける、膨張主義的な「大アジア主義」であった。それまでの「アジア主義」は日本と他のアジア諸国と対等の関係で扱っていたものが多かったのに対し、日本の大陸侵略政策と種を同じくした性質のものに転換していったのである。さらに二つ目には、広い意味での「日本主義」であった。この時期には重層的に思想が交錯していたが、支配イデオロギーとしての思想は「アジア主義」から「大アジア主義」へ、そして「日本主義」への変遷したのである。
「アジア主義」から「大アジア主義」への変遷は例えば、1924年12月に孫文が神戸で行った講演「大アジア主義」のなかに顕著に現れてくる。この講演は演題こそ「大アジア主義」であるが、内容を整理すると「大アジア主義の絶望を訴え、日本の帝国主義を批判したもの」に他ならないからである。
孫文の講演ではまず、アジアの問題をアジア主義的な観点から以下のような説明をしている。
「大亜細亜問題というのは何ういう問題であるかというと、即ち東洋文化と西洋文化との比較問題である。即ち東洋文化と西洋文化との衝突する問題である。この東洋の文化は道徳仁義を中心とする文化でありまして、西洋の文化というのは即ち武力、鉄砲を中心とする文化である、それでこの道徳仁義を中心とする文化の感化力というものは即ち五百年間衰退して来た所のわが国に対して尚、ネパールという国が今日になってもわが国を祖国であると認めるという一つの事実が即ち仁義道徳の感化力のどれだけ深いということを説明するのであります。」
「それでこの大亜細亜主義というのは何を中心としなくちゃならぬかというと、即ち我が東洋文明の仁義道徳を基礎としなくてはならぬのである。勿論今日は我々も西洋文明を吸収しなくてはならぬ。西洋の文化を学ばなくてはならぬ。」
「大亜細亜問題というのはどういう問題であるかというと、即ち此れ逼迫される多数の亜細亜民族が全力を盡して(尽くして)、この横暴なる壓迫(あっぱく)に、我々を圧迫する諸種の民族に抵抗しなければならぬという問題である。」
「大亜細亜問題というのは即ち文化の問題でありまして、この仁義道徳を中心とする亜細亜文明の復興を圖りまして(はかり)、この文明の力を以って西洋の文化に抵抗するという、西洋文化に感化力を及ぼす問題である、米国のある学者のごとき我々の亜細亜民族の覚醒というのは、西洋文化に対する謀反であるという、我々は確かに謀反である、併わしこの謀反というのは、単に覇道を中心とする文化に対する謀反でありまして、我々は仁義道徳を中心とする文明に対して、我々のこの覚醒は即ち文化を扶植する、文化を復興する運動である。」
上記のように孫文の「アジア主義」とは、『脱亜論』と方法論がことなるものの、「仁義道徳を中心とする文明」を以って「覇道を中心とする文化に対する謀反」、つまり「欧米に対するアジア」として孫文なりの「アジア主義」を定義している。
しかし孫文の講演の最後の結び部分(『大阪毎日新聞』などでは故意に削除されている部分。原文は今井禎訳『孫文全集』によるもの。)を参照すると、当時の日本の大アジア主義を批判的に隠喩し、日本の帝国主義を批判していることが分かる。
「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。」
さらに孫文は講演前に、大阪毎日の記者のインタビューに次のように語っている。
「日本は世界の三大強国と誇っているけれども思想その他の方面において盡く欧米の後塵を拝しつつあるではないか、これは日本人が脚下の亜細亜を忘れているためであって日本はこの際速やかに亜細亜に帰らねばならぬ、而して第一着手に先ず露国を承認すべきだと思う」
神戸の講演で孫文の通訳を務めた戴天仇が、「日本の東洋政策に就いて」(『改造』1925年3月号)で、日本は日露戦争の勝利によってアジアの人心を得たが、韓国『併合』によってすっかりアジアの人々の信頼を失ったと断じ、日本がこのことを率直に認めて、アジアの人々の信頼を回復するように訴えているように、かつての「アジア主義」はこのときにはもはや、大陸への侵略を基調とする膨張主義的な「大アジア主義」へと変貌してしまっていたのである。
(4) 台頭する日本主義、アジア主義との相克 -「大東亜共栄圏」とアジア主義-
「アジア主義」から「大アジア主義」への変遷、そしてその凋落にとって変わり支配イデオロギーとなったのは「日本主義」であった。小路田泰直氏は1920年代の大正デモクラシーから1930年代のファシズムとの間の越えがたい断絶を、「アジア主義」と「日本主義」の相克のなかから説明しようとしている。
日本主義とは高山樗牛によれば「日本主義とは何ぞや。国民的特性に本ける自主独立の精神に拠りて建国当初の抱負を発揮せむことを目的とする所の道徳的原理、即是れなり。そもそも国家の真正なる発達は国民の自覚心に基かざるべからず。国民の自覚心は国民的特性の客観的認識を得て初めて生起することを得べし、而も是の如き国民的特性は、精覈なる歴史的、はた比較的考察に拠るに非ざれば、認識すること得べからず」と述べられている。さらに「君民一家は我が国体の精華なり。之れ実に我が皇祖皇宗の宏遠なる丕図に基くものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。故に国祖を崇拝して常に建国の抱負を奉体せむことを務む」として、日本国家の存在意義を皇祖皇宗の建国当初の抱負に対する自覚と共感に求め、アジア主義に批判的な思想であった。
1913年に『神代史の研究』を発表した津田左右吉や、「場の論理」を確立した西田幾多郎、『風土』を発表し風土論を確立した和辻哲郎などがその役割を担っていった。津田左右吉らは「元来中国文明の日本への影響は小さかったということによって日本主義を打ちたてようとした。しかし、説明が、およそ、多少とも歴史を知るものにとって、事実として受け入れにくい」ものであった。しかし和辻が目指したのは、「日本主義のもつアキレス腱を、根本的に乗り越え、日本文化への中国文明の圧倒的影響を認めたうえで、より強固な日本主義を打ち立てる」ことにあったという。
しかしこの日本主義は、日本のナショナリズムの中核にはなり得なかった。1940年に津田左右吉が、出版法違反に問われ早稲田大学の職を追われたことが象徴的である。小路田泰直氏によれば、アジア主義の国民思想(ナショナリズム)の根強さがそれを妨げたという。本稿で先に述べた膨張主義的帝国主義の性格を強めた「大アジア主義」が、結局は「日本主義」との相克の中で日本の大陸侵略政策の中で求められるにいたったのである。
竹内好氏の著書の中には「日本主義」の説明はなされていないが、上記の「アジア主義」と「日本主義」の相克の文脈と相通ずるものがある。1930年代の「大東亜共栄圏」という発想は、「ある意味でアジア主義の帰結点であったが、別の意味ではアジア主義からの逸脱、または偏向である」と述べられている。さらに「大東亜共栄圏」は、「アジア主義も含めて一切の『思想』を圧殺した上に成り立った擬似思想だともいうことができる。…中略…思想の圧殺は、左翼思想からはじまって、自由主義に及び、次第に右翼も対象にされた。中野正剛の東方会も、石原莞爾の東亜連盟も弾圧された。これらの比較的にはアジア主義的な思想を弾圧することによって共栄圏思想は成立したのであるから、それは見方によってはアジア主義の無思想化の極限状況ともいえる」とのべており、アジア主義の一形態もしくはすべての思想を圧殺した無思想化の状態であると説明している。
松本健一氏は、「少なくとも、重光葵がインドの主権回復などを認めない「大西洋憲章」の欺瞞性を看抜いて、それへの対抗関係で「大東亜共同宣言」に「大東亜を米英の桎梏より解放」する戦争目的を謳いこんだという一点に、その思想性を認めていいのではないか」と考えている。
重光葵の「大東亜共同宣言」は次のように述べている。
「そもそも世界各国がおのおのその所を得、相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは、世界平和確立の根本要議なり。
しかるに米英は、自国の繁栄のためには他国家、他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては、あくなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望を逞しうし、遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す。
大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、その自存自衛を全うし、左の綱領に基づき大東亜を建設し、もって世界平和の確立に寄与せんことを期す」
アジアに対する侵略という大東亜戦争を、上記のように「大東亜を米英の桎梏より解放する」という「大東亜共栄圏」の理念を付与することによって正当化しようと試みたのである。「大アジア主義」という膨張主義的帝国主義は、大陸への侵略という隠喩としてその意味を変遷しつつも、あくまでの根底にあったのは「欧米に対するアジア」であり、その方法論として大陸への侵略が位置づけられていたのである。
(5)小結 -アジアの自画像と「アジア主義」-
日本の明治維新は西洋文明の流入によってもたらされたものである。幕末の志士たちの思想にも多分に西洋文明を危機として捉えることに影響し、それが国内的な社会的鬱積ともあいまって革命を成し遂げたのである。
その過程で日本が見た日本の自画像、アジアの自画像というものは、「欧米列強」に対する弱者としての自画像であり、岡倉天心の言うように「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱にほかならない」ものであった。それは「停滞のアジア」であり、「貧しいアジア」であり、「専制(独裁)のアジア」であるという自画像であった。
さらに緊急切迫した危機感として「欧米列強の侵略」という問題があり、アヘン戦争によって分断される中国を目の当たりにした日本では、「欧米に対するアジア」という心情が芽生えてきたのである。その心情としての「欧米に対するアジア」が如実に現れたものが「アジア主義」であったというのが本章の結論である。「アジア主義」が膨張主義的帝国主義に変遷する「大アジア主義」や、隣国の開明を待たず西洋の文明国と進退を共にし「西洋人がこれに接するの風に従って処分する」という「脱亜」の発想、大陸への侵略を理念付けようと試みられた「大東亜共栄圏」に関する考え方は、方法論としての違いはあるものの根底にある心情は「アジア主義」と通ずるものがあった。それが「欧米に対するアジア」という自画像であったのではないだろうか。
【参考文献】
Thesis
Takaki Ono
第23期
おの・たかき
Mission
北東アジアスタンダードの構築に向けた日本の取り組み