論考

Thesis

100年前の戦争、その後100年の日本 ~日露戦争の教訓~

2004年は日露戦争から100年目の年である。「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニ在り。各員一層奮励努力セヨ」-日本にとっての国民国家はまさに日露戦争の時に完成したと言っても過言ではない。それから百年、日本は日露戦争から何を教訓として学びとったのか。連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将は、日露戦争後の連合艦隊の解散式が行われた横須賀港で語る。「古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」。

1.はじめに

 今から100年前、日本はロシアと戦争をした。“国家百年の大計”という言葉があるが、100年前の日露戦争の勝利は、その後の日本に何をもたらしたのだろうか。富国強兵政策を押し進め、臥薪嘗胆の気持ちを込めて日露戦争を戦った結果、日本は近代的な軍隊の創設からわずか数十年で、列強の大国ロシアに勝利する。本稿は、この日露戦争が日本にとってどのような意味を持ち、その後の日本に教訓として残したものは何だったのかを考察することを目的とする。日本にとっての意味とは、すでに様々な論文、歴史書で語られているとおり、日露戦争がはじめての国民戦争となったことである。そしてその後の日本国家のあり方が軍国主義に傾倒していった結果、先の大戦という結果につながったのは言うまでもない。先の大戦後の日本は、連合国による占領政策と軍国主義に対するアレルギーから、日本国家というものに対して真正面から向き合ってこなかったように感じる。日露戦争が残した教訓とは何か。日露戦争直後の日本の状況は、日本の時代認識と国際情勢を把握せず、長期的なビジョンを冷静に構築していくことができなかったのではないだろうか。

 本稿では歴史を学術的に紐解いていくことは非常に困難を有するという判断のもと、日露戦争を自分なりに解釈するという手法をとった。100年前の戦争、その後100年の日本を松下政経塾の研修の一環として考察していきたい。

2.日本国憲法前文における問題の所在

 1904年2月、現在の中国・遼寧省の南端に位置する旅順の港にロシアの旅順艦隊が鉄壁の要塞を築くなか、日本の東郷平八郎率いる連合艦隊は、第1回旅順口閉塞作戦を開始した。

 旅順港は港の入り口が狭く、その港の入り口に何隻かの汽船を沈めてしまえば、港の中に停泊しているロシアの旅順艦隊は身動きがとれなくなる。実際に、旅順港は幅が273メートルで、しかもその両側は底が浅いために巨艦が出入りできるのは真ん中の91メートル幅しかないという。そこに古船を横に並べて5、6隻沈めてしまうのである。この“閉塞作戦”とは、米西戦争の時に、米国艦隊がキューバのサンチャゴ軍港を、汽船を自沈させることによってスペイン艦隊を封鎖した作戦である。

 しかし汽船を自沈させるにしても、陸上に造られた要塞からは格好の標的をなり、多大な犠牲を伴う作戦である。米西戦争の“閉塞作戦”を観戦武官として実際に目の当たりにし、連合艦隊の参謀であった秋山真之は、旅順港にこの作戦を用いることはあまりにも多くの犠牲を強いるため、乗る気ではなかったと言われている。

 この決死の覚悟を必要とする閉塞作戦には、自沈させるための汽船に乗り込む67人の人員が必要であった。下士官以下の人員を、広く艦隊から志願者を募ったところ、約2000人の志願者がでてきた。中には血書をして志願したものもいたという。この2000人の中から、もっとも肉親の係累の少ない者という基準によって67人が選ばれ、閉塞作戦は実行された。

 そのときの一等巡洋艦“浅間”艦長、八代六郎大佐は、閉塞作戦で自沈する汽船の一つ、報告丸の指揮官になることに決まった広瀬武夫少佐に次のような手紙を送っている。

「此度の壮挙に死すれば、求仁得仁ものなり。邦家の前途は隆盛疑いなし。憂慮を要せず、安心して死すべし」
 その背景の意味は次のようになる。

 維新後、藩を解消し、士族の特権を廃止し、徴兵令を布くことによって士族・平民を問わず兵にし、それやこれやで日本史上最初の国民国家がかたちだけできたが、しかし国民意識としての実質は、なおあいまいであった。それが日清戦争によって高まったが、ただし日清戦争においてはまだ平民出身の兵士が自発的に国家の難におもむくというところが薄かった。十年後に日露戦争がこのようにしてはじまり、その初頭において閉塞隊志願のことがあった。志願者はせいぜい百人ぐらいかとおもっていたところ、二千余人が志願した。維新後の新国家においてはじめて国民的気概というものがこの挙によってあらわれ出た。

 海軍だけではない。陸軍の旅順攻撃においては、ロシア軍の戦闘員が4万5千、うち負傷者は1万8千あまりでそのうち死者はわずか2~3千人だったのに対して、日本軍は兵力10万、このうち負傷者は6万2百12人でそのうち死者は1万5千人余りであった。ロシアの被害に対して日本軍の損害は余りにも大きかった。

3.日露戦争の意味-皇国ノ興廃、此ノ一戦ニアリ

 明治になるまで日本の戦争は、為政者と軍人の間は、封建時代のご恩と奉公という関係のもとで成り立っていた。つまり庶民に対する国家の権力を持っての戦争というものが、無かったに等しい。豊臣秀吉の文禄・慶長の益における朝鮮出兵に関しても、国家という権力が一般の庶民に兵役を課して出兵したと言うものではなく、あくまでもご恩と奉公の関係のなかで戦争を遂行していった。

 明治の近代国家になり、それまでとは大きく変わったことは明治憲法に規定された国民皆兵のもとに徴兵制が敷かれたことによって、庶民は国家との関係において逃れざる関係になったのである。それまでのご恩と奉公という関係による軍人ではなく、国家からの強制のもとで徴兵が行われ、国家は軍人の士気を国家への忠誠、愛国心という精神的な拠り所を醸成することによって高めていく最初の契機となった。

 しかし、当時の人々にとって国家のために命をささげるということがこの時代、現在ほどの苦痛をもって受け入れられたわけでもなく、むしろ国民自らが国家の建設に参加していくという意識のもと積極的にささげるという美徳的な感覚を持っていたと言える。

 旗艦「三笠」のマストにひるがえったZ旗の「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニアリ」はまさに象徴的な文言であり、ニ○三高地における日本軍兵士の死を持って美徳とする、驚くべき勇気はそのような歴史的な背景が込められていると思う。

4.日露戦争の教訓を考える

 日露戦争の教訓とは何だったのか。日露戦争終了後、日本では日比谷焼き討ち事件が起こり大阪朝日新聞や東京朝日新聞などの新聞メディアを中心に好戦的な世論が形成され、1910年には韓国が日本に強制的に併合された。そしてその後の日本の辿った軍国主義への道は、周知の通りである。その後の日本の状況は、現在の認識から考えると到底良い道を辿ったとは言えない。だからこそ100年経過した現在、その日露戦争の教訓を今一度振り返り、これからの国家百年の大計を考える上で重要なことではないだろうか。

 まず一つの教訓として、日露戦争が終了した時点で冷静な反省、回顧がなされなかったということである。終了後、東郷平八郎元帥が「古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」語ったが、歴史的な文献を参照する限りにおいて、その痕跡は見られない。日露戦争の事実をしっかりとした冷静な視線で国民に公開していくことはなく、国家、もしくは政権の基盤を強固なものにするための方策がとられていったと思わざるを得ない。

 次に日露戦争が終了した後に、“その後をどうするか”という確固としたビジョンが十分に議論されないままに、「満韓は日本の生命線である」という国益が設定されてしまったことである。日露戦争前の日本は、いかに西欧列強から日本を守るか、ロシアの南下の脅威からいかに日本を守っていくかということであった。しかし日露戦争の後、満州、韓国の位置づけが日本を守るという発想とは別の意図を持って、その権益が主張されるようになったのではないだろうか。日本自身が、自らの国力を鑑みることなく、国力を大幅に超えた国益を追求するようになってしまったと思う。

 そして何よりも、国民本位の国家作りがなされなかったことである。その後“大正デモクラシー”運動が盛んになるが、結局は軍国主義の道を歩んでしまった。明治憲法下の制約もあったが、国家を建設していく上で、何のための国家なのか、誰のための国家なのかという基本的な考えをすることをせずに国家建設が進められていってしまったように思う。

 歴史としての日露戦争を今一度振り返り、100年前の戦争、その後の日本について教訓を学び取っていく必要があると思う。2004年は日露戦争100年だからこそ、議論を深めていく良い機会であると思う。

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