Thesis
人間を認識することにいかなる意味があるのか。私はその出発点を、社会・日本・世界の最小構成単位が人間であることに置く。社会をどうするか、日本をどうするか、世界をどうするかを追求するにあたっては、それぞれを構成する人間に働きかける以外の手段はない。人間という存在をいかなる存在として認識するかが、人間への働きかけ方と働きかけの結果に大きく作用する。
「観」という漢字には3つの含意がある。第一は、客観的に視覚で認識すること、見る、見えるという意味であり、「観光」や「観察」などに用いられる。第二には、視覚のみならずもう少し内面的な部分について主観的な判断を加味して認識する意味で用いられ、「別人の観がある」などと用いられる。そして第三に、視覚的な認識ではなく、一定の立場から物事の意味や位置づけを定義する意味で、「~観」などとして用いられる。人間「観」は言うまでもなく、この3つ目に該当し、我々人間をいかなる存在として認識するかを定義する主観的な価値観に基づいた視座であろう。
価値観を含んだ、という点に私はこだわりたい。人間観を生み出す主体が人間自身であり、また人間観が人間の外見的な特徴でなく内面をも含む限り、絶対的な人間観は存在しない。強いて言えば、絶対的な人間観を生み出しうる主体は神なのかもしれないが、神という存在も人間の観念上の存在であり、更にあらゆる宗教を包括する絶対的な神も存在しないなかでは、やはり絶対的人間観は存在しないと考える。
認識の出発点は人間である。言い換えれば私自身、我々自身でもある。私という存在が、人間をどのような切り口から、いかなる存在として認識しようとするのかを考察するのが今回及び今後に続く人間観レポートの最終目的である。あらかじめ触れておけば、現時点で私の中に確固たる人間観は確立されていない。ある一面から見た場合や感覚的にイメージする断片的なそれに過ぎない。人類始まって以来の永遠のテーマである以上、そうやすやすと得られる「観」ではないと思われるが、一生を要する一つの思索のステップとすべく、以下、論を進める。
そもそも、なぜ人間観を追求しなければならないのか。人間を認識することにいかなる意味があるのだろうか。それぞれの人が置かれる立場によってもその意味は異なるだろう。純粋に哲学を志す人はその存在や認識を明らかにすること自体に意味があるのだろうし、宗教を志す人にとっては、人間の位置づけを確立することがその宗教観および世界観を定義する柱になるのだろう。
では、松下政経塾という場に身を置き、社会・日本・世界を政治という側面からどうしていくべきかを考え、行動しようとしている私にとって人間観を追求する意味は何か。私はその出発点を、社会・日本・世界の最小構成単位が人間であることに置きたい。手元にある消しゴムに始まり、目に見える町並みや建築物、日々の出来事・事件、社会的ルール、あらゆる物事は人間が作り出したものである。もちろん、自然に存在するものをそのまま利用・活用しているものはあるし、人間の力だけではどうにもならないような自然災害などもある。しかし、定期的に発生していた「洪水」を、耕地を肥沃に維持する地球の営みとして捉えるか、家々を押し流し損害を与える災害として捉えるかは人間の主観次第である。発生する事実の意味については、やはり人間が作り出すのである。
社会をどうするか、日本をどうするか、世界をどうするかを追求するにあたっては、結局のところそれぞれを構成している最小単位である人間に働きかける以外の手段はない。前述の自然などについては、全てを人間がコントロールできるものではないが、その自然の動きと変化にどう対処するかは結局人間が考えることである。人間である我々自身が思考と行動の両面において「今」から変化しない限り、社会も日本も世界も今のまま変わらない。
これは特に政治という側面には強調されていいことだろう。法律にしても制度にしても、それが働きかける対象は一個人であり、団体であり、さらにはそれらから成る国家自身であったりする。法律や制度が、結局は一人一人の人間が思考や行動など様々なレベルに反映することが、政治の結果としてアウトプットされるのである。そのとき、人間という存在をいかなる存在として認識するかは、法律や制度を通じた働きかけ方に大きく作用するし、また働きかけの結果にも影響する。無限の可能性を持つ人間と考えるか無知蒙昧な人間と考えるか、性善説に立つか性悪説に立つか、私利私欲の塊と捉えるか友愛の本質を中心に据えるか。繰り返しになるが、絶対唯一の人間観は存在しない。状況や立場によって、優先順位を置く人間観が異なることもあろうが、それでも物事の主体となるのは人間である。人間とは何かを追求し、人間観を持つことの意味はここにあると考える。
あなたの人間観を述べよと言われるとなかなか難しい。正直、たかだか30年弱しか生きていない経験のなかから帰納的に導き出される人間観があるとしたら、どこか胡散臭さを感じてしまう。この長い人類の歴史の過程においても論争が決着を見ずに続いてきているほどの大きな課題なのである。それゆえ、ここでは既に存在する人間観を参照しつつ、そこに考察を加えていくかたちで論を進めたい。
松下政経塾を設立した松下幸之助は著書『人間を考える』で、人間を「万物の王者、支配者」として表現している。おそらく、王者、支配者という語感のみからは、その人間観に対してあまりいい印象を持たないだろう。どちらかと言うと、人間の思い上がりや大自然の軽視などと捉えられかねないと思う。私はこの著書を今から1年半程前の入塾直前に読んだわけだが、始めの読後感はまさしくそれであった。どうも、王者や支配者という言葉になじめず、違和感を持ったことを覚えている。しかし、その後、何度か読み返していくうちに王者、支配者という言葉で言わんとすることが徐々に理解できるようになってきた。
王者、支配者という言葉からは、どうしても強権的な権力や、横暴な圧政というネガティブな側面を類推しやすい。私の違和感もそこに起因していたわけだが、よくよく読んでみれば、その王者や支配者はいわゆる「仁君」を意図しているのであって、全てを思うがままに、という意図は含まれていない。むしろ、その立場に基づいた厳しい責任を課しているのである。一人一人の人間は、基本的に本能で行動する動物とは異なり、理性的に物事を考えて自律的に行動することができる。その能力を与えられている限り、それを最大限発揮することが人間の使命であり責務であるとする。王者、支配者は自らの地位を指すのではなく、人間に限らずあらゆる他者と調和し共存共栄すべきとの認識に立ち、その上で人間は責任を最大限自覚して行動すべきであるとする人間観を表現した言葉であった。
「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である」と述べたのはフランスの思想家パスカルであった。人間を人間たらしめている大きな要素が人間の持つ理性にあることは古くから言われてきた。また、そのことは私自身の人間観においても大きな要素を占めている。しかし、一方でその理性がなかなか感情や本能に打ち勝てないことも、同じく指摘され続けていることである。様々な宗教や哲学において、人間とは何かが問われてきたわけだが、そこにある問題意識は多くの場合、人間の動物性と理性の相克であるように思う。
その視点は、現在という地点から経験や過去を振り返る視点であり、また自分や人間という存在の内面を観照するという態度である。一方、『人間を考える』に提示された、「万物の王者、支配者」という観点は、その外から内へと向かうベクトルとは全く逆であるように思われる。あえて現状を主な出発点とせず、本来かくあるべし、かくあるはずとの視点から、いかなる人間である「べき」か、「本来あるはずの」人間とは、という定義の仕方が私には新鮮に感じられる。『人間を考える』のなかでこの人間観は「新しい人間観」と表現されているわけだが、その認識のスタートラインにこそ新しさがあると私は考えている。
現状を把握しつつも、本来あるべき姿をビジョンとして打ち出す方法論は、おそらく著者の経営者としての経験からもたらされたものであろう。現状把握と将来ビジョンの提示、その間を埋めていくプロセスは政治においてもそのまま当てはまる。誰に何を任せてビジョンに近づく経営をするかという発想は政治においてもしかりであり、その際は担当する人間、周りで補佐する人間、作用の受け手となる人間、あらゆる場面で人間観が発想と行動の原点になる。
私は現在、議員職にあるOBの方の下で研修を行っている。個別政策イシューの研究はさることながら、テーマの一つとして政策の決定、法律の制定に人間がどう作用するのかという観点を持って研修に臨んでいる。また、単なるプロセスのみならず、人間の理性以外の部分がどの程度の重みを持って結果としての政策に反映するのかも注視している。その中で、改めて感じさせられることは、直感や感情といった感覚的な要素やそれらを踏まえた人間関係がいかに大きく結果としての政策等に反映しうるかということである。言葉によって表現される合理性のみでは人は納得すると限らない。人間が本当に万物の王者・支配者として振舞えるのであれば、こうした過程において感情や感覚の部分は根本的な判断基準とはならないはずであるが、現実は違う。このことは何も政治という世界に限ったことでないことは誰しもが想像できるであろう。私の前職の経験においても、合理性は必ずしも真ならずであった。
人間は万物の王者であり支配者である、との人間観と同レベルで比較はできないが、私は、人間は感情の動物であると考えている。先に、人間観を語るスタンスとして、自己の内面や過去の歴史や経験に基づこうとするベクトルと、本来備わる人間性やある種の理想像から説き起こそうとするベクトルの2つがあることを述べたが、私が今考えている人間観はその前者に該当するものであろう。
著者自身が『人間を考える』で述べているとおり、現実の人間は「万物の王者」からは乖離している。その乖離の一要因はやはり人間が持つ感情の部分にあるように思う。だからといって感情を捨て去ることは人間をロボットにしてしまうような寂しさがあり肯定できないし不可能だと考える。再度、著書から引用すれば、この乖離を埋めようとする態度の一つは「一切を許容し、あるがままに受け止める」という態度であろう。言葉の上では理解できても、自ら実行することははなはだ困難であり、それを思うと悩みが生じる。これらを総合して考えた場合、現在の私にとっての人間観は、「人間とは理想と現実との間で悩み揺れ動く存在である」ということになるだろうか。いずれにしても、私にとって人間観の追求はまだまだ発展途上であり、ゴールが全く見えない探求である。今後のレポートも含め、あらゆる機会をとらえて探求していく価値のある大きなテーマであると考えている。
[参考文献]
『人間を考える』 松下幸之助 PHP文庫 1995年
『松下幸之助の哲学』 松下幸之助 PHP研究所 2002年
『指導者の条件』 松下幸之助 PHP研究所 1975年
Thesis
Yosuke Kamiyama
第24期
かみやま・ようすけ
神山洋介事務所代表