Thesis
明治維新を狭義に捉えると、幕末の動乱から戊辰戦争に至る一連の倒幕・回天運動の印象が強い。一部例外を除いて、倒幕運動に名を残した人物に、いかなる国家とすべきかの明確なイメージはみられない。明治23年、明治憲法発布に至る国家像の模索を、倒幕運動からの連続性を考慮しつつ、自由民権運動に焦点を当てて再考する。
明治維新を狭義に捉えると、幕末の動乱から大政奉還、鳥羽伏見の戦いを経て、戊辰戦争に至る一連の倒幕・回天運動の印象が強い。そのなかで、先の国家観レポートにて触れたように、一部の例外を除いて、倒幕運動に名を残した人物において、新たな日本をいかなる国家とすべきかについて理念上のイメージは明確でない。江戸末期から明治初頭に至る言説に見られるのは倒幕を正当化する理念としての尊王と、尊王のもとに対外脅威を防ぐという行動規範が中心であり、いかなる国家体制によって新たな日本を体系付けるかは後回しとなった。司馬遼太郎の言葉を借りれば、明治維新とは「青写真なしの倒幕」であったとも言える。本論では、明治22年の明治憲法発布に至る期間を国家体制模索のステップとして位置づけ、自由民権運動を主に取り上げつつ、新たな日本の秩序づくりが模索された歴史を直視することとしたい。
板垣死すとも自由は死せず。自由民権運動を象徴する一つの表現としてしばしば取り上げられる言葉である。ここに含意されるように、しばしば自由民権運動は政治的自由を具現化する民主主義政治の発端として位置づけられる。明治憲法発布の翌明治23年、第1回帝国議会として、わが国初の議会が開かれるに至った大きな要素であったことに疑いはない。しかし、自由民権運動をその観点からのみ認識してよいのか、というのがここでの着目点である。
歴史をめぐる論争は、有史以来数限りなく繰り返されてきた。今なおその残像を残す中東・イスラエルをめぐる論争、王朝の交代ごとに「正史」が作られてきた中国、そして昨今の例でも第二次大戦等をめぐる日本と中国、韓国の論争や、中国韓国間での高句麗の位置づけに関する論争もある。それぞれの論争にはそれぞれの観点があり、しばしば言われるように、歴史の論争は歴史の審判を待つ以外に解消の策が無い場合もあると思われる。ただし、それは過去に対して目をつぶるべきであることを意味するわけではない。また、一定の見地以外を捨象することでもない。多くの歴史家が指摘してきたように、歴史に対しては複眼的思考をもって正対しなければならない。そこから初めて歴史の多元性をより深く認識することができるようになる。ある歴史観は、そうした歴史に対する真摯な態度の上に立つものでなければならないと考える。
その立場から振り返ったとき、自由民権運動は先に述べた民主主義政治の萌芽としてのみ見られるべきではない。ここには、議会政治追求という政治理念上の争い、藩閥勢力に対する権力闘争、税負担軽減を望む民衆運動、という少なくとも3つの次元があった。倒幕から新たな秩序作りに移行した明治維新を広く多元的に理解すべく、複眼的思考に立ち、自由民権運動の3つの次元を再考する。
第一の次元は、既述の民主主義政治の萌芽という側面である。制度面に着目すれば、自由民権運動を議会政治追及の運動として捉えることになる。明治7年、板垣退助は民撰議院設立建白書を著した。後に、自由民権運動の運動規範を表す文書として知られることとなった文章である。天賦の人権論に基づき、言論の自由を説き、専制を廃するために民撰の議会設立を主張するものであった。
当然ながら、この思想的背景にはモンテスキュー、ルソーに連なる社会契約論の存在があった。幕末から徐々に日本に流入していた社会契約論を受けて、中江兆民や福沢諭吉といった思想家がその媒体を果たしていたのである。またその影響のもと、新聞・雑誌が数多く発刊され活発な言論活動が行われたことが、自由民権運動における運動の下地、運動受入の下地となった。
運動そのものをリードしたのは、板垣退助・後藤象二郎といった旧土佐藩の人間である。ここに旧土佐藩の両名が現れるのは偶然ではないと考えられる。前回の歴史観レポートにおいて、例外的に倒幕後の秩序作りを構想していた人物として勝海舟、思想面でそれに連なる坂本竜馬の名を挙げた。板垣・後藤は幕藩体制末期より坂本竜馬と理念を一にして行動しており、その過程において思想上の系譜が形作られたと見ることができる。もっとも、両名は初期討幕運動においては土佐藩士として佐幕派であり、藩内の倒幕派であった土佐勤皇党を弾圧・粛清した歴史があったことも銘記しておいてよい事実関係であろう。
さて、問題は自由民権運動と国会開設との因果関係についてである。具体的な運動は全国各地での結社設立とそれを基盤とした遊説などによる世論喚起という運動であった。新聞媒体などを通じてその意図は徐々に拡大し、各地方の県会、地方富裕層へと浸透していったのである。また、政治的にも、参議であった大隈重信による国会即時開設の要求に結びつくなどの展開を見せた。その過程で政府による弾圧や大隈の失脚などを経つつ、明治14年には国会開設の勅諭をもたらしたことが当初の成果であろう。もちろん、自由民権運動のみによって国会開設がもたらされたわけではなく、維新直後の岩倉使節団や維新後に海外から流入した西欧人とその思想などが岩倉や伊藤博文に作用していた点や、後に述べる権力闘争の観点において「懐柔策としての国会開設」という側面があったことも考慮すべきである。
自由民権運動において国会は「民権」を追及するための手段として位置づけられる。従って、10年後の国会開設が決定されて以降は、具体的には各地で立案される憲法草案に関心が移っていった。全国でおよそ50編の憲法草案が作られたというが、なかでも植木枝盛による憲法草案が人権保障に強い力点を置いた意味で注目される。人民による抵抗権や革命権を明文化しており、フランス革命やアメリカの独立宣言の強い影響を見ることができるのである。
しかし、こうした「民権的」憲法草案に対して、最終的に「国権」色の強い大日本帝国憲法が公布されたことは歴史的事実である。時代背景や、国の発展段階ゆえにという要素は同然あろう。ただし、結局は「民権」が当時の日本人全般において内面から希求されるほどの支持を得られず、後に述べる権力闘争と各自の利益の前に一旦縮小してしまったと考えることもできる。冷徹な見方が過ぎるかもしれないが、「民権」が目的でなく手段として捉えられていた部分があるのではないか。だとすれば、この問題は現代に通ずる。国(公)を民(私)に対置し、両者を二元的に捉える観点からは、本質的に「人民の、人民による、人民のための」政府・政治は生まれ得ない。憲法改正論議が高まりつつある現代日本においても、その根底において最も意識すべきポイントである。
自由民権運動の第二の次元は藩閥政治批判にはじまる権力闘争の側面である。これは特に、運動を先導した旧土佐藩士をはじめとする不平士族の存在に着目したときにクローズアップされる。自由民権運動は政治体制をめぐる論争と次元の異なる権力闘争にも裏付けられていた。
時系列から見れば、この権力闘争が自由民権運動の先に立つ。この伏線は明治当初からあり続けていたもので、新政府を担う官僚などが薩摩・長州の勢力によって塗り固められていく過程で、埒外に置かれた旧土佐藩士などに増幅していった。公には五箇条のご誓文にある「万機公論に決すべし」などを論拠に藩閥専制と批判するわけだが、その内実に、倒幕から戊辰戦争を共に戦ったことと、現在の権力状況の相違に対して、直感的な嫌悪感を抱くであろうことは想像に難くない
民撰議院設立建白書を提出した当時、板垣退助は既に征韓論に破れ参議の職を辞していた。同時期に下野した西郷隆盛はその後、不平士族の反乱たる西南戦争に敗れ一生を終える。ここで明らかになったのは、武力による権力闘争の無意味さであったと考えられる。板垣をはじめとした藩閥の外にあった有力者が、武力に拠らない権力闘争のあり方として、自由民権運動に心血を注いでいったのは理にかなった選択であっただろう。
もちろん、繰り返しになるが、権力闘争の手段としてのみ自由民権運動を推進したわけではない。思想・理念上の信念に基づいていたことは、「板垣死すとも自由は死せず」の気迫にも容赦なく現れている。しかし、思想的側面のみに気を取られていると、必要以上に自由民権運動を美化してしまう。冷徹な視点で歴史を認識しようとした場合、政治体制をめぐる理念上の争いと権力の所在をめぐる政治上の争いは、少なくとも同レベルの比重を置いて認識すべきであろうと考える。その板垣も、また大隈も、参議に返り咲いたり再度辞したり、内閣の一員になったりと立場を何度も改めている。そのことが、運動の盛り上がりと停滞の繰り返しに大きく作用したことは疑いのない事実であろう。
政府側もその側面を意識し、運動に対して政治的に働きかけを強めた。その手段は懐柔と弾圧である。板垣に対する懐柔が象徴的であり、自由党分断を意図した板垣の外遊斡旋、大阪会議を経た板垣の参議復帰、爵位の授与などが挙げられる。一方で、集会条例、出版条例、保安条例などにより、運動そのものへの弾圧が行われた。特に保安条例に関わる状況を追うと、その政治性は明らかである。ターゲットは国会開設を目前にした明治19年から起こった自由民権派の反政府統一運動である大同団結運動と、機を同じくして盛り上がりを見せた三大事件建白運動であった。政府は、数年後に控えた国会での民権派分散と、押さえ込みを意図して保安条例による民権派分散を図った。既にプロシア型憲法をもとに「国権」路線を決めていた政府にとって、民権派は理念上のカウンターパートでなく反政府勢力でしかなかったのである。
自由民権運動の盛り上がりのなかで全国に生まれた結社をベースに、運動の指導者層は積極的に演説・言論活動を行った。「板垣死すとも自由は死せず」も岐阜の演説会場での出来事である。演説会場を埋め、運動の広がりを担ったのは一般民衆である。ただ、この場合、一般民衆は現在のそれとは意味を異にする。ここでの一般民衆は主に農村地主層と都市商工業者層であった。彼らの主眼は、税の一点である。
自由民権運動の底流をなした一般民衆は、必ずしも政治体制をめぐる理念上の争いや、権力の偏在に対する問題意識から運動に参加していったわけではない。地租改正により地価が再算定され、物納から金納に変わり、そこに徴兵や新たな学制、インフレが加わり、農村地主層と都市商工業者層の負担は増加した。この不満は農民一揆の多発に結実し、地租の減免も行われた。この民衆の主張が、「民撰議院設立」と結びつき、自由民権運動の広がりをもたらすのである。民衆における租税負担上の不満の発露としての自由民権運動、これが自由民権運動の3つ目の次元である。
従って、当初の運動の盛り上がりは全日本人による民主主義の希求という視点よりも、いわゆる有産階級による租税減免運動と見たほうが正確であろう。ここには、維新後の日本の秩序をいかなる体制とすべきかという意識は皆無である。その意味で、自由民権運動が広く大衆の支持を受けていたといっても、それは限定的に認識すべきことであって、同床異夢の微妙なバランスのもとに自由民権運動が展開されていったと見るのが自然な見方であろうと考える。
もっとも、国会開設を前にした自由民権運動の後期には、こうした運動が理論武装していったことも忘れてはならない。その根底に、貧困・困窮があったことに変わりないが、自由党員との結合によって、専制廃止と立憲政治の実現を唱えるなどの進展があった。県令による強制役務反対運動に端を発した福島事件から、加波山事件、秩父事件へと派生していく底流には、目の前の苦難に対する暴動を超えた一定の理念があったと考えられる。ただし、それがあまりにも過激化したことは、政府による武力鎮圧の口実を与えると共に、自由党内の路線対立と解散を生んでしまった点で、自由民権運動全体からすれば必ずしもプラスに作用しなかったと考えられる
いずれにしても、こうした政治運動に大衆が参画していったという事実は、明治が終わり大正の時代に大正デモクラシーを生み出す遠因にはなった。大衆による政治へのアクセス実績を作った点は銘記してよい事実関係であろう。そして、ここで明らかになったのは、理念と権力と大衆が糾合されないことによる失敗の、ある意味での必然性であった。
自由民権運動は、明治22年の大日本帝国憲法発布、明治23年の第1回帝国議会開催に結実する。「青写真なしの倒幕」から20余年を経て、日本の国家体制は立憲君主制のもとに体系付けられた。しばしば繰り返される議論として、第二次大戦に至る歴史の犯罪者をこの大日本帝国憲法に求め、一方でそこに至る自由民権運動や、その後の大正デモクラシーを美化する向きがある。個々の問題点や省みられるべき運動の存在について異論はないが、忘れてならないのは、自由民権運動も大日本帝国憲法も大正デモクラシーも、連続した時間の中で生まれた歴史である、ということである。それぞれには、それなりの因果関係や連続性が存在しているわけで、歴史の断片を切り取って歴史観を構築することは誤りであると考える。
歴史を個別に切り取ったときに、好悪様々な評価ができるということは、つまり歴史には多面性があるということである。ではその多面性を我々はどのように認識すべきなのか。最終的に、個人の価値観に基づく取捨選択や体系付けがあるにしても、まずはその多面性を認識するべきであろう。我々は、その多面性を認識するために、複眼的思考を実践しなければならない。あらゆる観点から直視しなければならない。幕末からのわずか四半世紀を省みるだけでも、その重要性を痛感することができる。私は、政治体制と権力闘争と民衆利益の3次元が複合した自由民権運動の歴史に、「お任せ」でもなく「私のために」でもない本当の意味での民主主義政治を課題とする、現在の日本の原型を見るのである。
参考文献
佐々木隆爾編 『争点日本の歴史6』 新人物往来社 1991年5月
田中彰 『開国と倒幕』 集英社 1992年8月
M・ウィリアム・スティール 『もう一つの近代』 ぺりかん社 1998年10月
岡崎久彦 『百年の遺産』 産経新聞社 2002年9月
Thesis
Yosuke Kamiyama
第24期
かみやま・ようすけ
神山洋介事務所代表