Thesis
現在の日本への連続性を意識した時、明治維新は大きな歴史の転換期である。現在に生きる我々にとって常識となっている「日本」という国家はこのとき形作られはじめた。260年にわたって継続した徳川幕府による江戸時代も含めてそれまでの歴史においては、現代の観点から見た地域としての日本があったにしても、国家としての日本は存在しなかった。幕末の動乱を経て、現代日本の原型が形作られた過程において、何が達成されて何が残されたのかを改めて振り返ってみたい。
E・H・カーは著書『歴史とはなにか』において、「現代の歴史記述は…進 歩への信仰のうちに成長してきたもので、…この進歩の信仰こそ、歴史記述に重要性の基準を与え」たと述べている。この指摘どおり、私も無意識にのうちに進歩という基準で重要性を捉えつつ、歴史を見ている。人類誕生から今日に至るまでの歴史は、物質的にも精神的にもより良く生きるための工夫と努力の営みであって、そこにあるのは成果としての進歩であったと考える。しかし、当然ながら進歩の背後には無数の失敗と停滞がある。様々な歴史記述をみても、進歩を浮き掘りにする記述のみでなく、失敗に焦点をあてた記述も数多い。歴史に学ぼうとする時、過去の成功体験と同じく、過去の失敗、もしくはその時点でなし得なかったことを認識することも重要であろう。多くの歴史家が述べるように、歴史とは過去の出来事をその時点の環境・風潮・時代背景をもとに認識することであり、現在の価値観から善悪良否を解釈することではない。従って、ここでも、良し悪しの評価ではなく、事実として何が進歩であったのか、なにが進歩でなかったのかについて、ありのまま認識することを意識したい。
考えてみたいのは、明治維新という歴史の一コマについて、明治初頭までの明治国家建設のプロセスである。現在の日本への連続性を意識した時、明治維新は大きな歴史の転換期である。現在に生きる我々にとって常識となっている「日 本」という国家はこのとき形作られはじめた。260年にわたって継続した徳川幕府による江戸時代も含めてそれまでの歴史においては、現代の観点から見た地 域としての日本があったにしても、国家としての日本は存在しなかった。幕末の動乱を経て、国家の原型が形作られた過 程において、何が達成されて何が残されたのかを改めて振り返ってみたい。
明治維新の動機が、植民地化の回避、欧米列強に対する独立の確保にあった ことは改めて言うまでもない。圧力を自覚した象徴的な事件としては1853年にペリーの浦賀来航が有名ではあるが、外からの圧力という意味ではそれ以前から顕在化していた。1825年には異国船打払令が出されており、またアヘン戦争をはじめとして中国および東南アジア各地域が植民地化され、収奪されていったことは知られていた。長く続く幕藩体制の制度疲労、幕藩双方の財政難に起因する変革要求などの要素があるにせよ、根本的には「植民地化」への危機感があったことに疑いはない。イギリス、フランス、スペインなどが東南アジアから徐々に版図を広げつつ南から中国にたどり着き、北から帝政ロシアが漁場と不凍港を得るべく南下を模索、東からは遅ればせながら植民地争奪戦に参入してきたアメリカ。帝国主義がぶつかり合った当時の日本周辺を想像するに、「植民地化」への危機感は想像を絶する。
植民地化を回避し独立を保持するという目的ににおいて、明治維新は完全に成功であった。歴史における「もし」は禁句だといわれつつ多くのひとが口にするが、明治維新がもしあと10年ないし20年遅れていたら、独立の維持という目的が達成できたかどうか分からない。明治元年の1867年前後、関係する帝国主義各国はそれぞれの問題を抱え、必ずしも日本を第一の標的にはできなかった。イギリスはアジア植民地の根拠地であるインドにおいて、57年のセポイの反乱以降、約50年をかけてインドを単なる植民地から帝国の一部としてのインド帝国とすべく統治体制を強化していた。フランスはベトナム植民地化の途上であり、ロシアはクリミア戦争とそれ以後の国内混乱の収拾に主眼があり、アメリカも南北戦争という国内戦争を抱えていた。今から振りかえれば、各国が体制を整えて日本を含む北東アジアに焦点を絞ったのは、まさに日清戦争が起こった1800年代後半のことであって、仮にこの時期に明治維新と同じく事を進めようとすれば、各国からの干渉は比較にならないほどであっただろう。結果論かもしれないが、ここしかないという1800年代中頃の時期であったことが、独立維持という目的を成功に導いた大きな要素であったと思われる。
よく知られるように、明治維新前後のイデオロギーには、対外的なありかたと対内的なありかたを規定するそれぞれ二つの流れがあった。対外的観点における攘夷と開国、対内的観点における佐幕と勤王(尊王)である。大きな流れは、(佐幕)・攘夷から尊王・攘夷を経て尊王・開国へということになるだろう。長く続いた鎖国体制に段々と姿をあらわしてきた欧米列強に対する異物反応としての攘夷、その攘夷を貫徹することができない幕府に対する不満から生じる尊王(倒幕)、実際に事を構えてみて彼我の格差 を痛感することによって起こった攘夷から開国への転向。もちろん、実際にはその背後に敗れ去った純粋攘夷論や、明治維新における倒幕運動を終始リードした 尊王攘夷論が強力に存在していた。
従って、ここで強調したイデオロギー展開は、あくまでも薩摩なり長州を代表とする勝者の側のイデオロギー展開であり、初めに述べた歴史における進歩の存在を前提としていることを自覚した上で以下の論を進めたい。私がこのイデオロギー展開のなかで述べたいことは、3つある。
第一に、「攘夷か開国か、佐幕か尊王か」というイデオロギーの議論は、結局は nation state としての国民国家を樹立することの是非とその手段についての議論であったということである。対外圧力に対して自己防衛を図ろうとするなかで、外国船を打払って鎖国を続けようとしても、こちらの意思のみで相手が遠ざかってくれるわけではない。下関で攘夷を実行しても、逆に圧倒的な軍事力でコテンパンにやられ、藩単位ではどうにもならない。だからといって、幕府なら列強と対峙できるかと言えば、長州征伐も自前でなく各藩の動員によるくらいで、それも無理だった。
幕末以前に「日本」という nation は希薄である。藩という nation とそれを取りまとめる幕府という分権体制ではどうにも対抗できない。圧倒的な軍事力格差を埋めるためには、領域的にも人員的にもより大きな単位でまとまる以外の選択肢はなかった。より具体的に言えば、日本という国民国家を作りだし、強力な中央集権体制を構築することが唯一の選択肢であった。倒幕の精神的な支柱であった権威としての尊王思想は、藩を超えた日本という nation を作りだすための手段に変わっていったのである。
明治維新を担った多くの人物がどこまで国民国家としての日本を意識していたかは定かでない。勝海舟や坂本竜馬にはその意識も見られるが、多くの人物は国民国家における政治体制としての強力な中央集権とその後の憲法制定にて確立される立憲君主制に主眼がある。繰り返しになるが、そのことについての是非を論評したいのではない。当時の状況から、独立保持の為の強力な軍事力を可能とする中央集権体制の構築に焦点が集まるのは当然のことである。ただ、 現代への連続性、現代に続く進歩の歴史という観点から考えた時、明治維新が国民国家としての日本のスタートであったこと、藩を超えたnation 構築に尊王論があった、という事実関係を少なくとも同程度の重要性をもって認識して良いのではないかと思う。以後にて述べるが、何が進歩であり何が進歩でなかったのか、何が達成されて何が残されたのかを考える出発点になると考える。
第二に、幕末のイデオロギー展開は「第一に」で述べた近代国家の樹立とその手段までの議論であり、いかなる国家であるべきかのビジョンをめぐる議論ではなかったということである。現在、日本の国家ビジョンを問う論説やビジョン不在を指摘する声が数多くある。では、国づくりの歴史として反芻される明治維新にいかなるビジョンがあったのかといえば、少なくとも現在模索されているような意味でのビジョンは存在しないように思われる。対立軸になり得たであろう国学、儒学、各種洋学をまたぐような議論、日本いう国家をいかなる主義主張、観念のもとに構築するかの議論や対立はあまり見られない。自由民権運 動から大日本帝国憲法制定に至るまでは、確かに多くの議論ないし憲法試案があり多くの聴衆を集めたりもしたが、国家論というよりいずれも制度論の範疇であった。
このことを特別に批判したいわけではない。富国強兵・殖産興業が当時のスローガンであったように、あくまでも対外的独立の維持が最大の課題であった。だからこそ攘夷によって鎖国を維持すべしという観念論がなりを潜めたわけで、ビジョンうんぬんを言える状況ではなかったはずである。ここで指摘し たいのは、日本としての国家ビジョンが後世への残課題であるということである。進歩の歴史では見落とされがちになる、その時点では達成できなかったことの一つが、まさに今問われているビジョンであるということである。我々が、今、ビジョンを考えるにあたっては、それどころではなかった明治維新期をスタート ラインとして、現代にいたるまでの歴史を振りかえることが必要であろうと思う。
第三に、政治的主体としての個人の未確立という課題を挙げたい。ここで言う個人の確立とは、国家に依存しお客さんとして存在する国民でなく、国家を構成する一員、政治的主体としての責任を自覚する国民を指す。明治維新は少なくとも欧米で言う市民革命ではない。攘夷と開国、佐幕と尊王というイデオロギー展開は、少なくとも何らかの形で幕藩体制下の権力に関わる人物達が担い、農・工・商に位置する一般人は基本的にかやの外である。
マルクス的な単純一直線な進歩史観をあえて無視すると、順序の後先は別として、国民国家の成立と政治的主体としての個人の確立は大いに関連す る。象徴的なのは国民皆兵に基づく軍隊である。ナポレオン時代のフランスが各国を制覇した根底に、国民国家フランスにおける国民の自発的な軍人としての参画があったことはよく知られるとおりである。その意味からすれば、西南戦争の官軍を農民が構成したことを考えても、個の確立の萌芽はあったことになる。軍 隊の一員として国家のために戦うという参画から、その他の政治面において主体としての意識に派生するであろうことは、高い必然性を想定することができる。
しかし、そうはならなかった。現在においても、「政治的主体としての責任を自覚する国民」は全体を見て少数派で「お客さま」が多いのではなかろうか。定量的な判断とは言えないし、また、市民革命を経た欧米においてもたいして変わらないとの指摘もあるだろう。しかし、何が達成されて何が残されたのかとの観点に立って、進歩・成功の背後に隠れがちな残された課題でありかつ現代にも通ずる大きな課題としてはやはり再認識すべきことだろうと思う。もちろん、明治維新のみの残課題ではない。むしろ、昭和の残課題であるのかもしれない。国民国家としての日本が形成されはじめた歴史の一コマにおける、進歩に 至らなかった重要点を認識するにとどめ、この点については昭和の歴史を含む別稿にて改めて論じたいと考える。
まさに明治維新の前後を生きた福沢諭吉は『文明論之概略』において、「国の独立は目的なり」と書いた。現在においてもしかりであるが、当時はそれ以外の何をか言わんや、という状況であろう。しかし、同時期に記した『学問のすすめ』においては、「独立とは、自分で自分の身を支配して、他によりすがる心がないことを言う」とも述べている。単に対外的な物理的な独立でなく、精神の独立、個人の内なる独立を主張したのである。翻って現在の日本人について、福沢は個人の内なる独立のあり様をどう評価するのだろう。私には、はなはだ不足している気がしてならない。自らを省みても反省すべき点は多々ある。植民地化への切迫した危機感を抱かなくて済んでいる現在の我々は、間違いなく幸福である と思う。しかし、それが「独立」の対にある「依存」を許容するわけではない。切迫した危機感によらずに、「依存」を「独立」にどう転化させていくべきなのか。次回以降の歴史観レポートの課題でもあり、また私が追求していきたい根本的なテーマでもある。
[参考文献]
『歴史とは何か』 E・H・カー 岩波新書 1962年
『大久保利通』 毛利敏彦 中公新書 1969年
『福沢諭吉と中江兆民』 中公新書 2001年
『文明論之概略』 岩波文庫 1995年
『「明治」という国家(上)(下)』 NHKブックス 1994年
『近代日本の政治家』 岩波現代文庫 2001年
『詳説 日本史』 山川出版社 1995年
Thesis
Yosuke Kamiyama
第24期
かみやま・ようすけ
神山洋介事務所代表