Thesis
人間は記憶の動物であると同時に、記憶があるがゆえに忘れる動物である。人間の記憶はいい意味でも悪い意味でも薄れやすい、そんなことを改めて感じたのは、昨年多発した災害の場、それを通じた研修活動の場、それらを踏まえて行った年明けの復興中被災地であった。
人間は大脳新皮質の一部、側頭葉で記憶をつかさどると言われる。人間を人間たらしめている要素は多々あろうが、この「記憶」もそのうちの一つであろう。もっとも、他の動物にも存在はしているだろうが、記憶の容量において人間が最も優れることは確かである。人間は、その長い歴史において、記憶を経験の蓄積に変えつつ、発展し続けてきた。このことは、今後、人類が存続する限り変わらないだろう。
蓄積のされ方は変わっていくかもしれない。そもそも、人類のはじめにおいて、文字はおろか言葉さえもなかったわけであり、それなりの意思疎通があるにしても、記憶の蓄積はなかなか困難であっただろう。言語が生まれ、文字が生まれることによって、記憶を経験として体系付け、自分以外の他者と共有化し、世代を超えて伝達することが可能になった。そして現代においては、パソコンをはじめとした多くの情報ツール、新聞に限らない多くの紙媒体、数え切れないほどのテレビチャネルなどが発展し、人間全体の記憶の蓄積は爆発的に容易になってきたように思える。
しかし、一方で、よくよく考えてみたい。確かに、人間、人間社会を俯瞰すれば記憶の蓄積、経験の共有は絶対的に容易になった。一個人で考えても、今や世界中の出来事を少なくとも情報レベルではほぼリアルタイムで認識できる。ただし、それはあくまでも個人の外部に記憶の引き出しが数多く用意された状態である。人間の脳は1300グラム程度のようだが、それが近い将来大きく変わることはないだろう。人間の記憶能力そのものは変わらない。
記憶の裏返しに、「忘れる」ということがある。個人差はあり、なかには信じられないほどの記憶容量を持つ人間がいるが、多くの人は日々「忘れる」ことと戦っている。学校の忘れ物に始まり、「忘れる」ことによる自らの失敗や困難を、人間の自然な姿であると開き直りたくなった経験は多くの人に共通するだろう。
忘れられたほうがいいことも世の中にはあるという。辛いこと、悲しいことを全て記憶して蓄積していったら人間は生きていかれない、忘れるからこそ人間は生きていかれるとの格言も聞いたことがある気がする。一般に、記憶の強弱は事の軽重、経過期間の長短による。
一方で、忘れないための努力は色々ある。しかし、人間の本性として、忘れること自体は永久に存続するだろう。人間は記憶の動物であると同時に、また記憶があるがゆえに忘れる動物なのである。
人間の記憶はいい意味でも悪い意味でも薄れやすい、そんなことを改めて感じたのは、昨年多発した災害の場、それを通じた研修活動の場、それらを踏まえて行った年明けの新潟県においてであった。
約半年ぶりに新潟県三条市にやってきた。前回は昨年8月。中越地震の影に隠れ、注目されることが少なくなってきた「7.13新潟水害」の後だった。真夏の炎天下、被災された方と多くのボランティアと共に、ふらふらになりながら、道路の側溝を埋めたドロのかき出し作業をしたのを思い出す。暑かった夏とはうって変わり、見渡す限りの雪景色。日頃、雪のない関東近辺を活動地域としている私にとっては、目を見張るほどである。それでもその日は緩んだようで、日中乗ったタクシーの車窓から見た路上の温度計は3度であった。
今回の目的は、被災から半年を過ぎ、その経験をどう生かそうとしているのかを確認すること。一点は行政施策の部分となる。もう一点は、災害対策が行政機関によって完結しないことが改めて明確になったあと、行政と市民との役割分担・協力関係構築がどう模索され、一般市民主導の行動がどうとられようとしているかを確認すること。こちらは主に住民個々人や、市民団体・NPO等の取組が主眼であった。いずれにしても、災害の記憶がどう変化し、どんな具体的取り組みに昇華されたのかを確認することにあった。
「元に戻す」施策はうたれていた。分かりやすいのは破堤をもたらした五十嵐川の改修工事。もっとも事業主体は県であり国であるが、同等の集中降雨があっても破堤を回避しうる想定のもとに、5年計画で改修工事が進められようとしている。しかし、元に戻せばそれでいいわけではない。確かに水害に限定するならば、「7.13」の再来はなくなる。ただ、言うまでもないが、災害は水害だけではない。災害対策を建物や堤防などのハード面からのみ捉えれば、一件落着だが、相次ぐ水害、地震で改めて明らかになったことは、ハードもさることながら、ソフトの重要性とソフトの欠如であった。
その最たるものが、行政の混乱と不備がもたらした避難勧告の遅れが、住民の避難の遅れに直結してしまうという「民の対応力」の未整備であった。未曾有の状況であったにせよ、堤防が決壊するほどの一目瞭然の流量をもとに、なぜ独自の避難行動がとれなかったのか。行政依存でなく、個々人が、我々自身がいかに判断して行動するのか、そのためのソフト面の仕組みづくりが課題であったはずであり、被災地の自治体も協力している詳細な報告書にもその点が明記されている。更に言えば、私が被災地に入ったなかでも、多くの方がその点を自ら指摘し、今後の課題として取り上げていた。これは、その後に起こった中越地震においても同様である。
しかし、半年たってその声が、その記憶が薄れつつあるように感じている。ドロドロだった町並みは、雪に覆われてはいるものの、一見すると何もなかったように見える。話しを聞いてみれば、商売をたたんだ方の話、外見はきれいになっても家財道具は未だそろえられていない方の話、当面の間仮設住宅から出られる見込みが立たない方の話など、災害の痕跡はまだ多く残る。ただ、実態として残存する個人単位の生活上の問題が強調される一方で、再発を防ぐ観点、問題を解消する観点、そしてそれを生み出した夏の日の記憶が薄れつつある気がしてならなかった。ソフト面の仕組みづくり、「民の対応力」の整備を言葉の上で耳にすることはできた。しかし、それを具体化していこうとする取り組み実態や、構想に触れることはできず、なによりもあの記憶から発せられたはずの危機感の持続を感じることができなかった。
上からみて「記憶が消えつつある、経験が生かされていない」と大上段に単純な批判をしたいのではない。人間は忘れるのである。生命の危険をもたらすほどの危機の記憶でさえも必ずしもそのままの強さで持続するとは限らない。そうした特性を現実として踏まえることが、この人間社会の今後を考えていく一つの前提になると考えるのである。
この事例について言えば、ソフトの構築は一朝一夕に果たせるものではない。いや、永遠にゴールに至らないようにも思う。それでも、我々自身が我々の命と生活を保持するためには、我々自身の行動が必要であり、そのための取組が今求められていることに変わりはない。多くの災害と被災者を生み出した記憶が少しでも薄れないうちに、その記憶がリアルであるうちに、その取組を形にしていかなければならないのである。形にすることが記憶を持続させ、経験としての未来に向けた蓄積を可能とするのである。
人の記憶は薄れやすい。10年が経過した阪神・淡路大震災についても、同様の傾向が見られる。だからこそ、急がなければならない。記憶は必ず薄れる。しかし、一度形になったものは、実態となったものは、少なくとも記憶よりは薄れにくい。時間の経過と共に、記憶のみならず実態もが軽くなってしまったとしても、その実態は災害時に緊急スイッチを入れる導火線の役割を果たしうる。忘れるという能力を持った人間を前提とした導火線作り、これが私なりのリアリズムである。
Thesis
Yosuke Kamiyama
第24期
かみやま・ようすけ
神山洋介事務所代表