論考

Thesis

乗り越えるべきは近代憲法か - コミュニタリアニズムの三元論を考える -

憲法改正すべきとの論拠は様々あるが、その一つに「近代憲法の克服」を挙げるものがある。国民による制限規範としての憲法を乗り越え、国民相互の共有規範としての憲法に脱皮することを説くものであり、多くの場合、その問題意識の根底には、国家を国民に対置させる二元論への批判がある。

1.はじめに

 憲法改正すべきとの論拠は様々あるが、その一つに「近代憲法の克服」を挙げるものがある。国民による制限規範としての憲法を乗り越え、国民相互の共有規範としての憲法に脱皮することを説くものであり、多くの場合、その問題意識の根底には、国家を国民に対置させる二元論への批判がある。本レポートにおいては、国家・国民二元論への問題意識を共有しつつも、それは憲法改正に直結すべきものではないこと、二元論を代替する方向性として「三元論」が一定の有用性を持つことを論ずる。私は9条をはじめとして憲法に改めるべき点があると考える立場であるが、本論で取り上げる課題に関して言えば、憲法改正はその打開策ではなく、別の手段をとるべきであることを述べたい。政治という立場から考えたとき、以下を論じるにあたっては、あまりにも理想論が過ぎるようも思える。しかし、理想がなければ政治は無意味化し、また理想を持たない政治家に存在意義もない。今という時に考える理想を本稿にて書き記そうと思う。

2.「近代憲法を乗り越えるべき」か - 憲法論の次元

 ここで言う近代憲法とは、公権力に対する制限規範であるという憲法の特質である。このこと自体は、憲法学者をはじめ、昨今の憲法改正をめぐる多くの議論で触れられている基本的事項であろう。古く1215年に規定されたマグナ・カルタがその典型であろうが、憲法とは国王という絶対的な「他者」が国家の名の下に行使する権力をいかに制限するかとの観点から創出された。18世紀末の市民革命は、他者たる王権を市民が倒し、公権力の公使者を改めた革命であったが、その際においても、権力の持つ危険性を実体験として共有していた彼らが憲法に求めたのは、やはり制限規範たる性格であった。数百年の歴史的変遷を経て、少なくとも憲法の性格の一部として、制限規範としての憲法の存在意義が普遍化されたと見ることが可能だろう。それは、国家権力が個人の生命・財産等に対して極めて大きな影響力を持ち続けていることの裏返しでもある。

 さて、憲法改正に関する主張である、「近代憲法を乗り越えるべき」とはどういうことか。根底には、憲法の制限規範たる性格を認めつつも、それだけでいいのか、という問いに始まる。権力を「しばる」ことを意識し過ぎるあまり、それを行使する国家という存在を、次第に自分とは別の主体として認識してしまい、結果として、自らが国家をどうしたいのか、国家の一成員としての自らがどう振舞うべきなのかという意思を持たなくなってしまったのではないか。制限規範という特性が、国家における主権者としての国民という立場を忘れさせ、自己‐他者関係を生じさせるきっかけを作ってしまった。「近代憲法を乗り越えるべき」との主張には、こうした現状批判がある。言い換えれば、王政対峙の憲法観を前提とした、国家と国民の対立性を帯びる二元論に対する批判とも表現できよう。以上の観点をもとに、「近代憲法を乗り越えるべき」との説においては、国家の主権者として国民がどうあるべきかという規範を憲法に挿入すべきと主張する。

 この点に関する改憲の要否を一旦おくとして、国家を他者とする国民という構図については、私も改めるべき実態であると考える。絶対王政は教科書の次元であり、天皇という絶対者が統治権を持った大日本帝国も過去のものとなった。主権者が国民であることが憲法に明記され、一国の代表者は普通選挙を介さない限り選出されず、同じく代議員による議会以外に立法権が認められず、国民審査制の下にある裁判官による三審制という裁判制度が設けられている国家がどうして国民にとって他者でありえようか。確かに、巨大化し細分化した統治機構に、個人の意思が直接反映されるような身近さはない。しかし、財政や年金や安全保障にはじまる今掲げられている国家の諸課題は、いずれも最終的には個人の人生に帰着する問題である。その課題の先送りは、仮に私を含めた自分自身の身に直接降りかからなくとも、後に続く世代への負債を残すことになる。国民にとって国家は他者でなく、制御すべき自らの一部なのだ。

 こうした課題は、憲法を改めれば解消される性質の問題であろうか。近代憲法を乗り越えることによって、個人として自律しつつも所属する一共同体としての国家における責任感を持つ個人が生み出されるのであろうか。私には順序が逆であるように思われる。現状として、国家が「遠い存在」である以上、国家が決める国民としての規範は、内発的な国民意識を生み出しえず、国民と国家の距離感を縮めるには至らない。反対に、「国家とは抑圧・命令の機構であり、国民は自由を守るために国家と対峙する」という伝統的かつ時代遅れな二元論をより強化してしまいかねない。国民と国家の関係性という憲法において本質的な問題であるがゆえに、憲法の条文によって国民の意識を「覚醒」させるのではなく、国家と国民の距離感を縮めていった先に国民意識の発露として憲法を改めるという順序を強く意識すべきだと考える。ドイツ連邦共和国基本法やスイス新連邦憲法において個人の社会的責任などを規定する条文があることを論拠に、日本の憲法にもそれを当てはめようとする議論は早計ではなかろうか。

3.国家と国民、公と私

 改憲要否への違いはあるものの、この議論の根底には、国家と国民の関係を超えた公と私に関する問題意識が横たわる。各人の自由や私的利益の追求を促進する一方、その社会的環境、各人相互の調整等を支える公をこれからどう維持していくのか。ヒト・モノ・カネ全ての局面において、日本が依拠してきた「これまで」が変わる前提のなかで、今までどおりでは立ち行かなくなる漠然とした不安を、私を含めた多くの人が共有しているように思う。

 そこで、はじめに国家と国民、公と私について概念整理をしておきたい。しばしばこうした議論に見られるのは、国家=公、国民=私という用法である。しかし、私は国家=公、国民=私は誤りだと考えている。そもそも、国家・国民は「主体」を表す概念、公と私は「領域」を表す概念であり、同次元で比較し得ない。それが、同じ次元で国家=公、国民=私と語られるのは、改めて言うまでもなく、日本における伝統的用法、伝統的観念の残存であろう。

 日本語の公は歴史的に支配機構を意味し続けた。反対に私は支配の対象であった。明治維新においても、その本質は変わらない。国家とは天皇を主権者とする支配体制のことを意味する旧来の公そのものであり、国民ならぬ臣民も、文字通り天皇の臣下という被治者を意味する旧来の私そのものであった。ここに、社会的領域概念とそれを担う主体概念の混同が始まったと考えられる。そして、少なくとも憲法の条文上は支配-被支配関係が改まった現代においても、「公を担う国家」と「私を担う国民」の構図が生き続け、国家を他者とする国民ゆえに、公の問題は「国民でなく」国家が対処すべき問題であるという深刻な深層心理を日本人が抱いてしまったように思う。

 社会的領域概念としての公と私は、厳密な境界線は引けないものの、全く別物である。どんな職業を選ぶか、どんな思想を好むかは私領域に属する。一方で、どこに道路を作るか、どうやって治安を維持するかは私のみでは対処しえない公領域に属する。その意味で、厳密には公私二元論に全く問題はない。問題があるのは、公私二元論と同一視される国家国民二元論である。本来、公も私も、それぞれの主体は国民である。国家とは、公のうち、課題の大きさや必要とする専門性ゆえに国民が直接的には対応できない部分を任されているに過ぎない。私を担うのは国民であるにしても、公を担うのは国家ではなく、少なくとも国民と国家であり、より根本的には国民でしかあり得ないのである。「国家国民二元論」の存在が、伝統的な「国家=公と国民=私」を媒介として、国民が国家をも含む公に対する当事者としての認識を強められないでいること、これが憲法調査会をはじめとして各所で語られる公と私、国家と国民の問題の核心である。

 この要因を考えればいくつも列挙が可能だろう。既に挙げた伝統的観念の存在。また、それを踏まえた日本語の語意の問題。国民による主体的な権力奪取の無経験。支配機構として振舞った国家に対する歴史的嫌悪感。そうした空気をベースに拡大した行政機構とそれによる多くのサービス提供。また、それを可能としてきた国家財政の成長。これら全てが絡み合いながら、「国家国民二元論」と「国家=公と国民=私」を生きながらえさせてきた。

 誤解を恐れずに言えば、ゴールは国民による国家の一元化である。国家意思に身を委ねる一元化ではない。権力を内発的に運用しようとする強い意思と能力が欲しいのだ。そして、その先にはじめて、私領域を満足させつつ、国民が主体として公を担い、公を担うために必要に応じて国家という機構を用いる、そんな構図が現れてくるように思う。そこに至るには、まだまだ時間がかかるだろう。先に、憲法改正がこの手段とならないとしたのも、こうした認識に基づいてのことである。

 ここから先、日本という国家と、日本に暮らす国民にとって最も必要なものは経験であり、その共有であろうと思う。「市民革命」が起こり、権力を奪取する国民的経験をすれば、一気に問題は解決する、という夢物語は描ける。しかし、今の日本に市民革命を達成すべき支配者という敵は存在しない。そうだとすると、どこから主権者たる経験を積み上げればいいのだろうか。権力を内発的に、主体的に、自主的に運用する経験をどう蓄積すべきなのだろうか。以下、その際に有益であろうと考えられる一つのコンセプトに触れていく。

4.「三元論」の可能性と限界

 公共という言葉がある。公という言葉から連想される国家主義の歴史や、お上意識、公という言葉の持つ多義性を嫌って、しばしば公共という言葉が使われる場合が多いように思う。しかし、ここまで公と私を論じる中で、私は意識的に公共という言葉を使わないようにした。それは、第一に、意識的に「公共」を用いる根底に、ここまで問題としてきた国家を他者とする観念、被支配者として抑圧機構たる国家を遠ざけようとする意識、そして領域概念としての公を主体概念としての国家と同一視する誤りが垣間見られる場合が多いように感じるからである。私はその含意に同意できないため、意識的に「公共」という用語を避けようとした。そして第二に、コミュニタリアニズムにおける「公-公共-私」の三元論を意識してのことである。

 コミュニタリアニズムは、右でも左でもない中道路線を担保する理念として、主にアメリカで発展してきたものであり、クリントン・ゴア路線のバックボーンとなったことでも知られる。社会契約説を踏まえた個人の権利については伝統的左派同様に重きを置く一方、社会契約の前提が自然状態にあったとの仮説を非現実的とし、権利の契約以前から人々に共有されていたはずの善観念、秩序意識が権利と同様に意識されなければならないとする。伝統的倫理、場合によっては宗教的倫理を社会の基礎原理として適用しようとする右に反対して個人の自由と権利を重視するものの、左による自由と権利の拡大による利己主義と私益徹底追及を、共通善・公共善を擁護する観点から否定する。国家を社会契約に基づく人工物とみなすのではなく、人々が共存するなかから自然発生するコミュニティの延長として位置づけることから、コミュニタリアニズムという呼称が生み出された。

 コミュニタリアニズムは、「公共」という言葉を公、私と意識的に区別して用いる。ここに公私二元論はなく、公・公共・私の三元論がその担い手に対応して区別されるのだ。「私」は当然ながら国民の領域となるが、二元論における「公」を二分し、国家が担う「公」、国民が担う「公共」を分割する点に特色がある。コミュニタリアニズムにおける「公」とは、かつて叫ばれた滅私奉公における公である。

 既に述べてきた観点からすれば、この三元論は問題の根本的解決には至らない。領域概念と主体概念を一対のものとする公私二元論に見られる認識構造に変化がないからである。この認識構造のもとでは、国家という存在と国民という存在が同次元に並存し、国家と国民は概念上混ざり合わない。そこでは、国家の客体としての国民を残存させてしまう。公私二元論のもとにある他者たる国家に放置されやすい、中長期的な問題や日常生活と関連の薄い課題について、個々の国民がより大きな利益の観点に思考を広げていくには限界があると言わざるを得ない。そもそも現代における「公」と「私」でさえ、明確には境界線を引きにくいなかで、さらに国家でなく国民が支える「公共」という区分を追加することが現実的なのかどうかという点についての疑念もある。「公」のうちどの部分を国家が担い、どの部分を国家を介さずに国民が担うのかは、それこそ国民が国家を通じて定めるべきであり、結局は「公」であれ「私」であれ、担う主体は国民以外に存在しないと思う。

 しかし、限界がある一方、少なくとも伝統的な公私二元論の立場よりは発展性があり、現在から一歩足を進めるステップでもあると私は考える。それは、「公共」という言葉ではあれ、個人領域でない集団領域を担う「国民」という姿がそこにある点である。しばしば言われるように、日本にとって憲法をはじめとする近代国家の枠組は、内発的に生まれたものではなく、外在モデルを移入させたものである。それは明治維新という支配者層主導の革命しかり、アメリカ主導の第二次大戦終了後の政体変更についてもしかりであった。国民意思の発露として主権を国民が担おうとし、また意識的に「私」を超える領域を運営してきた経験には乏しいといわざるを得ない。その意味で、三元論の根底にある「私」に閉じこもらない国民観に、現在からの発展性を感じるのである。

 国家による「公」と区別される国民による「公共」において、しばしば具体例として挙げられるのが、法人組織かどうかを問わない広義のNPO活動である。NPOは主体であるから、NPOが活動する領域が「公共」ということになる。「私」を超える具体的な課題に取り組むなかでは、「私」に閉じこもる視野では具体的成果を得られず、よりマクロな視野に発展していく。大げさに言えば、「公」に活眼する糸口機能を持つともいえる。具体的に行動しようとすればするほど、問題に対する国家の関わりが意識され、そのあり方を思考するなかでは、国家への意思反映の欲求がより現れやすい。長期的に見れば、こうした経験を我々が蓄積することが重大な意味を持ってくるのではなかろうか。実際的な取り組みは、身近な問題から進めていくべきだろう。そういった意味で、近年盛んになってきた地域における諸課題に対する広義のNPO活動には大きな価値があると考える。自らと国家の関係性を再認識し、国家に対する意思反映の必要と効果を経験として共有・蓄積すること。その先に、自らの一部としての国家、自らが制御すべき対象としての国家、二元論でも三元論でもない国家が現れ、その国家を上手に用いつつ高めていく、我々の「公」が生まれるに違いない。

5.終わりに

 選挙シーズンも一段落したが、様々な関連広報物を見ると「協働」という言葉をよく見る。私も、今後深めていくべき手法の一つと考えるものの、単なる行政負荷軽減が主目的かと思われるような用法が気になる場合が多い。本稿で述べたかったことは、国家(自治体)や権力を主体的に運用する国民としての経験の積み重ねがもっと必要であるということで、例えば「協働」も、国民が主体的に国家(自治体)を運営する経験の積み重ねの一つになるコンセプトとして捉えたいということである。日本全体を見回しても、そもそも私自身を振り返っても、憲法で言う国民主権に関する過去と今とこれからを語る視座は確立されていないように思う。しかし、その明確な視座なくして語られる「協働」が、しばしば単なる行政負荷・財政負担軽減の方便となってしまうように、現段階において国民規範を挿入する中途半端な憲法改正もまた、国家の客体たる国民を再度生み出してしまう危険性を持つ。

 未来の日本、国家、社会、公を語る視座が今求められていると思う。それは、神国日本に依拠した盲目的集団国家でもないし、システマティックな近代国家を強調するミーイズム国家でもない。我々日本人は、過去約1世紀のなかで、それぞれがもたらした失敗を経験してきた。今という時代は、それらの反省をもとに、新たな経験を積み重ねていく時代だろうと思う。マクロとミクロを見据えた確固たる識見に基づき、具体的な方向性を、より平易な言葉で語り具現化していく。政治がその責務を負っていることは改めて言うまでもない。

以上

【参考文献】

佐々木毅、金泰昌編 「公と私の思想史」 東京大学出版会 2001年11月
佐々木毅、金泰昌編 「日本における公と私」 東京大学出版会 2002年1月
山脇直司 「公共哲学とは何か」 ちくま新書 2005年5月
アミタイ・エツィオーニ 「ネクスト」 麗沢大学出版会 2005年3月
櫻田淳 「国家の役割とは何か」 ちくま新書 2004年3月
五百旗頭真ほか 「『官』から『民』へのパワーシフト」 TBSブリタニカ 1998年9月
佐伯啓思 「現代民主主義の病理」 NHKブックス 1997年1月
小熊英二 「<民主>と<愛国>」 新曜社 2002年10月

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