論考

Thesis

大日本帝国憲法における「臣民」の残像

大日本帝国憲法の発布は1889年(明治22年2月11日)のことである。自由民権運動のさなか、明治14年の政変を経て国会開設の詔が出されてから、約8年が経過していた。

はじめに

 これまでの2回にわたる歴史観レポート(2004年6月、9月)にわたって、明治元年を中心とする狭義の明治維新、明治初頭の自由民権運動を振り返りつつ、明示的、暗示的に、公と私というテーマを現代に通ずる課題として取り上げてきた。今年度最後となる歴史観レポートにおいては、維新から自由民権運動を経て結実した大日本帝国憲法を取り上げ、その中で公と私について論考することとする。これは、憲法改正が現実味を帯びた形で論じられるようになった昨今の時代背景を念頭に置きつつ、明治維新の一つの帰結として大日本帝国憲法を振り返り、現代における課題の根源を歴史的に残された課題として再認識する試みである。

大日本帝国憲法の基層

 大日本帝国憲法の発布は1889年(明治22年2月11日)のことである。自由民権運動のさなか、明治14年の政変を経て国会開設の詔が出されてから、約8年が経過していた。前稿にて触れたように、この間、50を超える私擬憲法が発出されて全国的に憲法論議が高まったが、一方で政府では伊藤博文を中心として、着々と草案作成を進めていったのである。明治14年の政変の翌年、伊藤はプロシア、オーストリアに渡り、いわゆる自由主義的色彩とは一線を画し、君主権の強い立憲君主主義を学ぶ。そして、同時に、シュタイン、グナイストらからは「一国の政体はその文化、歴史から自由ではない」等の助言を得たとされる。

 立憲君主主義という結果や、自国文化の尊重という助言を得たことは、偶然や結果論の要素を暗示して描かれる場合がある。しかし、憲法起草に至る維新前後のプロセスと、伊藤自身の立場などを想起すれば、これは決して偶然や結果論ではない。尊王を大義名分として幕府を倒し、対外勢力からの独立保持を最大の眼目とし、その観点から自由民権運動と対峙してきた歴史的推移のなかで、天皇という存在に legitimacy を求め、江戸幕府と対置する強力な中央集権国家を意図したとすれば、いわゆるプロシア型立憲君主制は草案作成の前提であったと考えられる。

 それがゆえに、大日本帝国憲法は欽定憲法でなければならず、憲法制定権力は天皇であり、人権その他も究極的には天皇から与えられるものとなった。ここには、植木枝盛が著した天賦人権論に基づく憲法草案などが挿入される余地は全くない。一定の結果論からすれば、伊藤に代表される当時の政府の選択は目的合理性を成功させたと考えることができる。確かに、大日本帝国憲法の下で、強力な中央集権国家を構成し、対外的独立を保持することを得たのである。しかし、物事に必ず表裏があるように、目的合理的であったがゆえに、目的とされなかった課題についてはそのまま課題として残されることとなった。

 憲法発布の翌2月12日、福澤諭吉は自らの主宰紙『時事新報』に「日本国会縁起」と題する論評を発表した。前半部にては、西欧史を念頭に「国乱」によらない憲法発布と国会成立について「異常を驚く」としつつ、「(条文についての)千百の議論すべて無益の談」と断じて、まずはよかった、とにかくやってみよう、と肯定的に論じる。しかし、後半部は論調が全く変わる。若干長くなるが、以下引用する。

…かくまでに民心に染み込みたる専制政治にして、上下の分を明らかにし、下民は君上の制御を仰ぎ、君上は仁義を本として民を愛し民を威し、恩威並びに行われて治にも乱にもその筆法を改めたることなきものが、何のゆえをもって国会を開くの今日に至りしや、一見まず不可思議というのほかあるべからず。そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし、国民の大多数は政権の何ものたるかを知らず、ただ私の労働殖産に衣食するのみにして、天下の政権が誰の手にあるも、租税重からずして身安全なれば誠に有難き仕合せなりといわざる者なし。

 『文明論之概略』をはじめとして、多くの場において福澤が繰り返し主張してきた「文明の精神」「精神の自立」が欠如したままの立憲であり、国会設立となったことを嘆じる表現であろう。しかし、福澤の言うように、これが実態であった。結局は、お上が公を独占し、民がその擁護下に存在するという構造自体に本質的変化はなかったのである。そして、当然ながら大日本帝国憲法にはそれが表出する。

「国民」不在の大日本帝国

 大日本帝国に国民は存在しない。存在するのは臣民のみである。もっともこれは、 nation における国民不在を意味するものではない。政治的統合体としての nation 日本は確かに存在したし、緩やかな意味ながら国民としての nation も存在した。従って、ここで言う国民不在とは、大日本帝国憲法において、国民という言葉が存在しないという意味である。そこで現憲法における国民に対置される言葉が臣民であった。臣民とは何か。その字義が語るように、民は臣、すなわち天皇の臣下として位置づけられたのである。臣民とは、 subject の訳語であり、西欧政治哲学上、君主国における被支配民として定義づけられる。一方で、現憲法に言う国民とは people を含意する nation であり、つまるところ citizen ということになろう。

 前章に記したように、民を subject とする位置付けは大日本帝国憲法に始まったわけではない。むしろ、それまでの日本の歴史上も常に subject であり続けた。お上という言葉が暗示するように、権力とは常に外部(上部)に存在する他者であった。印籠を示すだけで絶対権力が誇示され、あらゆる人間が従属する水戸黄門は、劇画ではあるものの、その一例を示すものといえよう。江戸時代からさかのぼっても、民は被治者でしかありえなかった。これは日本に限った話ではないが、民の上部、外部に位置する権力が、常に公を独占してきたのである。そして、大日本帝国憲法下においても、この構造は本質的に変わらなかった。福澤が「天下の政権が誰の手にあるも、租税重からずして身安全なれば誠に有難き仕合せなり」という民を嘆じた実状が私のみの臣民に留めたという言い方もできようし、明治維新の目的合理性が公と分断した私たる臣民を作り出したという言い方もできるだろう。もちろん、臣民にも官吏、議員への道がそれなりに開かれてはいた。しかし、その立場にならない限り、臣民には私の立場しか存在せず、結局は天皇・政府が公を独占したのである。

 この点が、現代に生きる私個人の関心に結びつく。すなわちそれは、私における公観念の欠如であり、未だ公を外部化している私という問題である。公とは究極の私であり、決して外部化できるものでなく、むしろ個々人の私に内部化し、それをその他個人と共有すべきものであるというのが私のスタンスである。

 さて、ここで言う公と私とは何か。一口に公と私と表現しているが、その意味を追求すると用語を用いるのに非常に慎重になる。日本語(やまとことば)の「おおやけ」「わたくし」、中国語・漢語の「コン(公)」「スー(私)」、英語の「public」「private」。どれも現代日本語で公と私と表現しているが、既に公判されている研究成果によれば、それぞれの原義は微妙に異なる。上下・大小・内外の観点から「入れ子構造」としての関係性を表すに過ぎず、必ずしも人や組織を念頭に置かない「おおやけ」「わたくし」。お上の表現はここにも源泉があると思われる。また、儒教的倫理観を踏まえた正邪の二元観を根底に持つ「コン(公)」と「スー(私)」。そして、人々という全体集合の中で、下から上へ意味空間が広がり、包摂概念を否定(「private」でない世界が「public」)する英語的観念。

 こうした峻別を踏まえて、私が公と私という言葉に込めている含意は public と private である。私は公に包含される存在ではなく、空間概念上は、私を一歩出たところ、別の私との接点に存在するものである。しかし、そのことは、公が私とは隔絶された他者であることを意味しない。むしろ個人の精神概念上は、公は私の内部にて消化されるべきものである。その意味で、公は国家と同意語ではなく、国家が公に包含される関係となる。

 しかし、大日本帝国憲法にても明らかになった日本における公と私の関係性はどうであったか。公は即ち国家であり、私は国家の外部に位置することが改めて確認されたのである。私はここに国家と国民の二元観という現在に至る問題の歴史が存在すると考える。国家を公と同視するがゆえに、公を私と隔絶された他者と認識するがゆえに、国民と国家の乖離がどうしようもなく大きくなっていないだろうか。年金問題しかり、外交問題しかり、軍事課題しかり、そのために現実と国民が求める対応の差が途方もなく大きくなっていないだろうか。公≠私という臣民の残像を現代にても感じているのである。

おわりに

 単純に表現すれば、「国家=公、公≠私、∴国家≠私(二元論)」である。長い日本の歴史を経て、明治維新~大日本帝国憲法~大正デモクラシー~戦争の時代~戦後~現在、結局二元論という課題を乗り越えられていないと私は感じている。これに加えて、特に戦後においては、戦中の「公>私」の反動もあり、「公≠私」が「公⇔私(対立関係)」へと変化し、「国家=公」が変わらないまま、結論としては「国家⇔私」となってしまった観もある。これらに関しては、近年感じられるようになってきた解消への動きに触れつつ、帝国憲法以降を論じる次稿以降に含めていく予定である。

【参考文献】

大石眞 「日本憲法史」 有斐閣 1995年3月
作品社編集部編 「憲法の100年1」 作品社 1989年4月
坂本多加雄 「日本の近代2」 中央公論社 1998年12月
福澤諭吉 「文明論之概略」 岩波文庫 1995年3月
丸山眞男 「日本の思想」 岩波書店 1961年11月
佐伯啓志 「国家についての考察」 飛鳥新社 2001年8月
佐々木毅・金泰昌編 「公と私の思想史」 東京大学出版会 2001年11月
佐々木毅・金泰昌編 「日本における公と私」 東京大学出版会 2002年1月
小熊英二 「民主と愛国」 新曜社 2002年10月

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神山洋介の論考

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Yosuke Kamiyama

神山洋介

第24期

神山 洋介

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