Thesis
憲法改正が本格的に議論されるようになり、現象面のみを捉えた条文論議に留まらず、その背景をなす原理、思想、理念についての広範な抽象論を積み重ねる必要性が多く説かれるようになってきた。外部化というキーワードもその一つの切り口であろうと考える。
外部化というキーワードを追いかけてみたい。現代社会は多くの「外部化」から成り立っている。金銭を媒介とした商品経済の存在は、個人もしくは家族における自給自足を「外部化」してきた一つの現れであろうし、最近では外食産業の発達が「食の外部化」の観点から語られることも多い。たとえば、一人暮らしの高齢者が増加していく社会構造のなかで、そうした方のより人間的な暮らしを支える一つの大きな基盤と解釈することもできよう。
憲法改正が本格的に議論されるようになり、現象面のみを捉えた条文論議に留まらず、その背景をなす原理、思想、理念についての広範な抽象論を積み重ねる必要性が多く説かれるようになってきた。外部化というキーワードもその一つの切り口であろうと考える。すなわち、原始共同体から国家が生成されてきた過程を「外部化」を切り口として眺め、憲法論議に即して言えば、国民主権、国家安全保障、社会保障、地方自治など、様々側面に議論を展開できるのではないかということである。以下、この観点から議論を進めてみたい。
マクロな視点からも、そもそも国家という存在は、原始共同体が持っていた外敵からの防護機能が「外部化」された一つの形態である。かつては、共同体が総出でオノとヤリを手にしていた防衛は、国家による暴力の一元的独占に外部化された。ビスマルクなりチャーチルに端緒を持つ福祉国家の具現化も、根源的には共同体で保有していたsafety-net機能を国家が吸収していった過程であった。
そして、それはミクロな観点においても同様である。毎朝清掃車が巡回してきて家庭から出るゴミを収集することも、学校を作って子どもを教育することも、外部化の結実と捉えることが可能だろう。
日本においても本質的に変わらない。江戸から明治にかけて、藩という分権システムで担いきれなくなった対外的独立を、新たに創出した日本という国家に外部化し、その力を集中的に運用することで実現したのである。以後、福祉政策等の側面に関しても、個人や家族、地域共同体などが保持していた機能が少しずつ国家または行政へと外部化されていき、現在に至る。
外部化はある意味での効率化である。小単位でバラバラに機能化するよりも、大きな単位で機能化するほうが、低コストでかつ大きな効用を生み出しやすい。経済に即して言えば、かつての日本が、堺屋太一が言うところの「規格大量生産」で成功したことは端的な事例であろうし、先述の社会保障に関して言えば、介護保険制度なども家庭における介護の外部化(社会化)として認識できるだろう。
日本という国も、その外部化を深化させて、成功してきた。しかし、私には、この「外部化」が一つの転換点を迎えているように思う。それは、国家なり自治体という統治機構への「外部化」に対する限界認識である。
ここでは三つの面について限界を論じたい。一つは、「外部化」のもたらした主体概念の希薄化という問題である。統治機構への行き過ぎた外部化は、当事者意識の希薄化をもたらす誘引となる。外部から自動的に与えられると錯覚しやすくなり、そもそも自らが外部化の主体であるということを忘れてしまうのだ。内部で完結していた事柄を外部化した結果が、自らが責任主体としての内部であったことの忘却に繋がり、外部化した事柄が拠り所とする責任主体を失いかねないこのパラドクスは、外部化に本質的に潜む限界として認識すべきだろう。
二つ目には、外部化に伴う一元化による多元性との調整困難という問題である。統治機構への「外部化」とは、一元化という側面を持つ。ハード・ソフトともに社会基盤が整っていなかった時代において、一元化は限られたリソースの有効活用という効用を多く生み出した。明治維新はその象徴としても捉えられる。しかし、一定の不足があるにせよ、今の日本全般において基礎的社会基盤の不足は説得力を持たない。ある程度整った時代において、「外部化」および一元化は、個々の実状という多元性と整合性を保つことが難しくなり、効用ではなくマイナス効果をも感じさせるようになった。
これに関連して、三つ目に、外部化を成り立たせるためのコスト負担の限界という問題がある。この点に関しては、昨今の政治情勢を踏まえれば、文字を割く必要はないかもしれない。個人の労務や共同体での共同作業を国家という統治機構に外部化して代替する代償は、現代社会においては一般に税である。税負担の限界点が見えてくるなか、規範論としての外部化の是非以前の問題として、現実論のレベルにて外部化の深化に限界点が現れていることは明らかであろう。
外部化を全否定するつもりは無い。むしろ経済面においては、今後さらに限定される日本のリソース活用の観点からも、「外部化」は進んでいく場合が多いと思う。また、この手の議論によくある「現在否定、結局は原始共同体へ」という論調に与する気は全く無い。しかし、こと統治機構に関しては、そろそろ「外部化」の限界点に達しつつあると思う。社会に存在する多くのニーズの受け皿は、国や自治体だけではもう抱えきれない。
意識的にせよ、無意識的にせよ、この限界認識は、徐々に現在日本で共有されてきているように思う。問題は、その限界に構造的観点、費用負担の観点に現出する限界をどう乗り越えるかであり、これこそが憲法改正の底流として議論されるべき原理、思想、理念の一面である。
表面的な市民主義というものに、私は即座に賛同しかねるが、「外部化」の限界点を越えたニーズを満たす一つの「手」は間違いなく『市民』であるに違いない。そこにある『市民』は、私民でもなく、死民でもない。個人の利益を追求しながらも、統治機構をはじめとする様々な共同体の参画者として行動する、大人である。
そのためには、個々人が統治機構における内部意識を再度確保し、主体として作用しようとする内発的な意思が不可欠である。同時に、内部意識と内発的意思を是として取り入れつつ、個々人の意識と意思を拡大再生産させるような統治機構における理念と機構の改定も必須に違いない。
それを敷衍させたとき、国民主権、国家安全保障、社会保障、地方自治といった憲法条文上の項目には、共通した一本の柱がうまれてくる。一国の安全とは誰かがやってくれる類の話ではなく、社会保障は必要性と利便性のみから語られるべきものでなく、より身近な地方自治には個々人が直接触れやすい領域が広がるという認識のなかから、それぞれの条文がいかにあるべきかの議論がより首尾一貫したものとして現れてくるだろう。
「国家に忠誠を誓う」必要性は無い。しかし、国家なり自治体なりコミュニティの一主体としての自覚と責任、行動が伴う必要性を我々は間違いなく持つ。「外部化」の限界を超えた、より良い社会とは、そうした我々自身の成長と我々自身が構築する新たな「外部」の向こうに現れるものであり、決して他人がもたらしてくれるものではないと確信している。
外部化は、以上述べたように、単なる条文調整という部分最適を回避し、憲法改正における全体最適をもたらすための一つの視座である。条文に関する各論と、原理、思想、理念に関する総論とを行き来するなかで、憲法そのものへの深い議論のみならず、「個々人が統治機構における内部意識を再度確保し、主体として作用しようとする内発的な意思」をゆっくりと醸成していく入口に達することができるように思う。
それ以外にも、議論すべき原理、思想、理念に通ずる要素は多くあるだろう。憲法論議といえば第九条の是非であった半世紀を超え、九条に限らずあらゆる条文を議論の対象とできる時代に入り、それがより深い原理、思想、理念といったレベルでの議論の必要性を広範に広めることとなった。無制限に議論のみを続けることは避けなければならないが、必ずしも一刻を争わず、新たな憲法創出による、新たな我々と新たな日本を生み出す過程を楽しみたい。あらゆる国家が難局や転換期においてその国家を生み出した過程を振り返ることを考慮すれば、半世紀以上にわたって「不磨の大典」としてきた憲法の議論は、未来に振り返るとき、新たな国家創出に順ずるような大きな意味を持つに違いない。
Thesis
Yosuke Kamiyama
第24期
かみやま・ようすけ
神山洋介事務所代表